第238話 運動会とお弁当

 日差しの熱量が増し、風に含まれる涼しさが肌に心地よく感じられる季節。夏の足音を示すように、大空では白雲が踊っている。

 ただでさえはしゃぎたくなる陽気の下で、普段は静かな小学校が喧騒にまみれていた。白熱する児童の声が木霊し、土煙がグラウンドで舞う。


 今日は菜月の通う小学校で運動会が開催されていた。全校生徒でそれぞれ紅組と白組に分かれて得点を競う。賑やかな雰囲気が好きなのか、体育着での登校中から一緒に通うようになった茉優は普段よりさらにふわふわ度を増した浮かれっぷりを披露していた。


 一方で真は気乗りがしないというよりも、緊張とため息を隠せない有様だった。心配になった菜月が尋ねると、基本的に運動が得意ではないのでこうした行事は不登校になる前から欠席をしていたのだという。


 それが一念発起して参加を決めた理由は、三年生になって知り合った菜月と茉優という心を許せる友人がいるからというものだった。


「私も運動はそこまで得意ではないし、気にする必要はないと思うわよ」


 全校揃っての開会式で行進している間も、えずきそうになっている真の背中をさすってそう声をかけたが、あまり効果はないみたいだった。元々が緊張しいな性格なのだろう。


 体を動かすのが苦手なのに加え、プレッシャーを高める一因になっていると推測できるのが、グラウンドの隅にある芝生部分でシートを広げて観戦中の保護者たちである。保護者用の種目もあるため、菜月たちの小学校では当たり前のように見学というか参加が許可されていた。


 開会式も終わり、一年生から順に全員参加の短距離走が行われる。

 一年生が五十メートルで、二年生が八十メートル。そして三年生が百メートルを男女に分かれて走る。

 足の速い順ではなく出席番号順なので、どんな相手と当たるかは運次第である。もっとも毎年同じだと顔ぶれが似通ってしまうので、その年その年によって席順にしてみたりなどの工夫もされていた。


 スターターピストルの乾いた音に合わせ、横一列に並ぶ競技者が走り出す。手を抜く生徒はおらず、誰もが一生懸命だ。各クラスの待機所からだけではなく、保護者も手を叩いて応援する。熱心な人はビデオカメラで、我が子の雄姿を追っている。


 軽くため息をつく菜月の両親も、間違いなくビデオカメラを持参しているだろう。自宅には姉の葉月の分も含めてかなりの数の思い出DVDが存在する。夕食後のリビングで特に和葉が見たがるが、その場合は全力で抵抗する。


 葉月やその友人らがはしゃいでいる姿を眺めるのならともかく、自分のイベントを改めて両親と見るのはなかなかの羞恥プレイだからである。


 一年生、二年生と終わり、菜月たち三年生の番が回ってくる。スタートラインの後ろ側に列を作るのだが、その際に普段よりもずっと笑顔を輝かせている茉優に気づく。


「茉優ちゃんって、そんなに走るのが好きだったの?」


 菜月の質問に対し、友人の少女は心の底から嬉しそうに保護者席を指差す。


「えへへ。今日ね、パパが応援に来てくれるんだよ。初めてだから嬉しくて」


「そういえばママが、皆で応援に行くって張り切ってたわね」


 少女二人の顔に、どこか照れ臭そうに真も加わる。


「うん。僕のお母さんも来るって言ってた。一年生の時は僕、見学だったし、周りに知ってる人がいないから来なかったけど、今日は菜月ちゃんのお母さんたちと一緒だから楽しみにしてたみたい」


「それなら、尚更恰好良いところを見せないとね」


「うう……頑張るけど、自信ないよ……」


 不安そうな真を置き去りに、出番を迎えた茉優が位置に着く。白い半袖と赤い短パンから伸びる手足にグッと力を入れ、スタートの合図を待つ。


 まだ走らない菜月でさえも緊張を覚える一瞬のあと、スターターピストルが鳴り響いて歓声がグラウンドを包む。


「茉優ちゃん、頑張れーっ」


 元グループの子らからも声援が飛び、一生懸命に茉優が両手を振る。少女は意外に走力があり、五十メートルを過ぎたあたりで先頭に立つと、そのままゴールへ飛び込んだ。菜月たち紅組の拍手が一層大きく空に木霊する。

 楽しそうに笑う茉優の視線の先には、笑顔で手を振る彼女の父親の姿があった。


「真君も頑張ってね」


「や、やれるだけやってみるよ」


 相変わらず自信というものが皆無な少年はスタート前から緊張でガチガチ。ただでさえ運動が苦手の真がそんな有様では、普段通りの力すら発揮できるはずがなかった。それでもスタートすれば脇目も振らずに必死で走り、ひたすらゴールを目指す。


 結果はビリだったものの、ゴールした直後に膝に手をついて肩を大きく上下させる姿を見れば、誰一人として文句を言う仲間はいない。それだけクラスが纏まっている証であり、担任からは事あるごとに菜月を委員長にして良かったと称えられるほどだった。


 そしてついに、その菜月の出番がやってくる。過去二年も同様に走ってはいるが、百メートル走は初めてになる。だからといって逃げたりもできないので、覚悟を決めて上半身を軽く前に出す。


 呼吸を止め、耳を澄まし、スターターピストルの音だけに意識を集中。パアンと空へ撃たれた直後に渾身のスタートダッシュを決める。もつれそうになるまるで両足を加速させ、風を切るように前へ前へと突き進む。


 半分あたりまでは抜群のスタートのおかげでトップを疾走できたが、そこらを過ぎたあたりから徐々に地力の差が表れ始める。横に並ばれるのがわかってもすでに力は限界まで出している。

 それでも可能な限り腕を振って歯を食いしばるも、隣の走者が前へ出ていくのがわかる。待ってと心の中で叫ぶ余裕もなく、ゴールを前にさらに他の走者にも抜かれてしまう。


 なんとかゴールへ着いたのは三番目だったが、それでも三位までには多少ながら上積みされた点が加わる。

 一位の旗の後ろでしゃがむ茉優と同じ列にいけないのは残念だったが、悔しさはため息とともに吐き出して諦める。あとは他の仲間に任せよう。


   *


 全員参加の競技が終われば、各クラスから選ばれた生徒たちが定められた種目で得点を競う。中には玉転がしなんてのもあった。


 もうすぐお昼休憩に入るというところで、またしても全員参加の種目となる。とはいえ走ったり飛んだりするのではなく、応援合戦というものだった。各クラスが趣向を凝らした応援を制限時間内に行い、出来栄えを教員らが判定するのである。


 家族から借りたと思われる学生服を小さな体に羽織っての応援団の真似や、創作ダンスなどクラスによって内容は多岐に渡る。


 学級委員長である菜月がマイクで学年とクラス、それに応援内容を告げると、特に保護者席からわっと歓声が上がった。生徒たちは一様に緊張しているが、中でも比率が大きいのは真だった。


 布と棒で作った小さな旗を両手に持ち、菜月の拭くホイッスルに合わせてクラスメートが決められた位置へ移動する。マスゲームほど大がかりで精密さが要求されたりはしないが、実行しているのは似たようなものだ。


 放課後に何度も練習したかいがあって大きな失敗もなく、両手の旗を交互に上げながらの行進が進む。そして最後に円を描き、ホイッスルを鳴らしながら菜月が中央へ進む。クラスの男子から渡された大きな旗を一人で掲げ、最後のひと吹きとともに全員がポーズを決める。


 一糸乱れぬ動きとはいかなかったかもしれないが、本番でも練習通りに出来たことでクラス全員も喜ぶ。菜月もようやく肩の荷が下りたと安堵できた。


 順位は全校単位と学年単位で決められる。菜月たちのクラスは全校三位。学年で一位という高得点を叩き出すのに成功する。審査員長である校長先生が割れんばかりの歓声を放つ面々に笑顔で評価を伝える。


「何より目を引いたのは旗の完成度です。デザインも素晴らしかったですね。そしてその旗を活かした動きもお見事でした」


 クラスの注目が後方で座っていた真に集まる。菜月に指名されて、旗のデザインを考えたのが彼だったからである。太陽と風をイメージしたらしい線を使ってのデザインはクラスでも好評で、スケッチブックに描かれたのを参考に、女性陣が頑張って旗の素材にした布に縫ったのである。


「すげえよ。全校で三位だって」


「もしかしたらペナントが貰えるんじゃない?」


 男子も女子も大はしゃぎだ。優勝した組の中でも特に活躍したクラスに送られる、学校特製のペナントの行方にまで話が及んでいる。


「そのためには紅組が優勝しないとね。午後のリレーもそうだけど、保護者にも頑張ってもらわないと」


 クラスメートから褒められ、ひたすら照れる真を見ているうちに、自然と菜月の頬は緩んでいた。


   *


 保護者と一緒になっての昼食時間になっても、まだ応援合戦の主役も同然になった真は放心気味だった。


「まだ夢を見てるみたいだよ……」


「心配しなくても現実よ。これでわかったでしょう。無理に他の人と同じ競技で活躍しなくても、真君は真君で出来ることを頑張ればいいのよ」


「そうだね。でも、これも全部、菜月ちゃんのおかげだよ。最初は戸惑ったけど、デザインを考えるのを引き受けてよかった」


 心からの感謝を述べたあとで、真は周りを見渡して不思議そうな顔をする。


「あれ? お母さん、僕のお弁当は」


 尋ねられた真の母親は企みの微笑を浮かべ、菜月に軽くウインクをした。


「お母さんのより、きっと美味しいお弁当が食べられるわよ」


「……あの、あまりハードルを上げられると困ります」


 ややもすればぶっきらぼうに聞こえそうな台詞のあと、菜月は背中に隠していたお弁当箱が三つ重なった包みをそっと差し出した。


「真君と茉優ちゃんがしつこく食べたいと言うから、特別に作ってきてあげたのよ」


 ニヤニヤと撮影する意地の悪い父親にはあとで必ず仕返しをするとして、まずは驚く二人の前でハンカチを解いて四角い弁当箱を一つずつ分ける。大人用ではないのでそこまでの大きさはないが、子供が食べるには十分な量だ。


 下半分にはふりかけをかけて、真ん中に梅干しを押し込んだ白米。上半分には卵焼きなどの定番のおかずを可能な限り詰め込んでいた。


「ふわあ。このウインナー、たこさんだよっ」


「よかったな、茉優。菜月ちゃんにきちんとお礼を言うんだぞ」


「うんっ。菜月ちゃん、ありがとう!」


 屈託なく喜んでくれると、早起きをして作ったかいがあるというものだ。


「本当に凄いよ。小さなハンバーグまである。ミートボールも美味しそうだし、こっちはグラタンかな」


「真君のママには負けると思うけれど」


「そんなことは……。

 あっ、ええと……こ、この場合はどうすれば……」


 隣に座る母親と正面の菜月の板挟みにあったかのような真が、咄嗟に助けを求めたのはなんと春道だった。


「……真君。男には一人で乗り越えなきゃならない壁があるんだ」


「ではその男性の春道さんにも聞こうかしら。

 私と菜月、どちらの料理が好きなの?」


「大人気ないぞ、和葉。こういう席では楽しく食事をするものだ」


 大慌ての春道に一同が笑う。昼食時間は楽しく終わるかに思われたが、そうはさせじと現れた者がいた。


「おいおいおいっ。聞いてたぞ、俺の分はないのかよっ」


 どこからともなくやってきたのは、菜月の従兄である戸高宏和だった。


「あるわけないでしょう。

 どうして敵に塩を送るような真似をしないといけないのよ」


 冷たく言い放つ菜月。今にも泣きそうな宏和の頭に巻かれているハチマキは、誰がどう見ても真っ白だった。


「あ、あんまりだろ。おい、泣くぞっ!

 そ、そうだ。真、俺に一口分けてくれっ。友達だろ、なっ!?」


「ご、ごめん。もう食べちゃった」


「嘘だろォ!?」


 涙混じりの叫びを大空へぶちまけながら、宏和は大袈裟に頭を抱えてグラウンドに膝をついたのだった。

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