第239話 保護者たちの運動会
起床した春道が欠伸をしながら隣を見ると、愛妻の姿はすでに布団の中にはなかった。時刻は午前六時。早朝から仕事をしたいタイプの春道も朝は遅くないのだが、必ず和葉はそれよりも先に起きている。
目覚まし時計をセットせず、比較的早めに就寝することで朝起きやすくするという生活。これも個人事業主も同然の仕事をしている恩恵のうちの一つだろう。
洗顔や着替えを終えてリビングへ行くと、今朝は和葉ではなく次女の菜月がキッチンで幾多の食材と激闘を繰り広げていた。
「おはよう。今日は運動会だったよな」
春道が声をかけると、隣で愛娘の調理を見守っている和葉が振り向いた。
「おはよう。だからなのよ。茉優ちゃんと真君、それと菜月の分を含めたお弁当を作っているの」
「そうか。茉優ちゃんの場合はコンビニの弁当とかになりかねないしな。いいんじゃないか。だが……パパの分は?」
「春道さんのお弁当は私が作るわ。妻ですもの。
それとも……ご不満かしら」
「朝から怖い冗談はやめてくれ。まあ、三人分も作れば一杯一杯だろうしな」
運動会が始まるであろう時間までにゆっくりグラウンドへ向かえばいい春道たち保護者と違い、菜月ら学生は登校時間を遵守しなければならない。そのため、先ほどから脇目も振らずにせっせと料理に励んでいるのだろう。
「茉優ちゃんだけだと、真君が寂しがるだろうしな。心遣いのできる娘に育ってくれて嬉しいよ。あ、そういえば宏和君も同じ小学校だったな」
春道から宏和という名前が出た瞬間、菜月が反応する。
「奴の分はないわ。紅組の勝利のためにも、白組の兵士に兵糧を恵むような真似はできないわ」
きっぱりと言い切った愛娘の強い眼差しに、春道の笑顔が軽く引き攣る。
「意外と葉月より、菜月の方が勝負にこだわる性格かもしれないな」
鈴木真や佐奈原茉優の面倒を見ていることからも、表面上は冷静ぶっておきながらも実際は温かな心の持ち主だというのがわかる。先方の保護者には、何かあった時のためにと連絡先を交換している和葉が内緒にというお願いも含めて伝えているらしかった。
「別に勝敗にはこだわらないわ。ただやるからには全力を尽くしたいだけよ」
「なるほどな……って、そろそろ時間じゃないのか?」
「いけない! いってきます。あとはよろしくね、ママ!」
「わかったわ。車には気を付けてね」
疾風のごとく菜月が廊下を駆け抜け、見送りに出ていた和葉が戻ってくると完成されたお弁当の蓋を閉じていく。
「朝から持っていくとバレてしまうから、私に昼まで預かってほしいそうよ。今頃は真君や茉優ちゃんのお家でも、あとでお弁当を持っていくからと送り出されているでしょうね」
「サプライズってやつか。何にしても、菜月も仲の良い友人ができたみたいでよかったじゃないか」
基本的に不愛想でもないので虐めなどとは無縁であったが、一年生や二年生の頃は葉月でいうところの好美や実希子みたいな、いわゆる親友と呼べる友人はできていなかった。担任に頼まれたからとはいえ、面倒を見ているうちに仲良くなるというのもある意味では菜月らしいといえる。
「二人とも悪い子ではないし、仲良くやっていけそうでホッとしているわ」
「その真君と茉優ちゃんの親御さんも今日は来るんだったな」
「ええ。茉優ちゃんのお父さんも真君のお父さんも、職種は違えど半ば強引に有給休暇を取得したみたいよ」
「子供たちは喜ぶだろうな。さて、それじゃ俺たちも準備するか」
会話しながらも手を動かしていた和葉のお弁当も、すでに完成しつつある。この辺の手際の良さはやはり愛娘にはまだまだ真似できない点だろう。
*
保護者同士で校門で待ち合わせ、挨拶を済ませたあとで春道たちはグラウンド隅の見学スペースへと移動した。葉月の時と合わせれば参加も結構な回数になるので、勝手知ったる我が家ほどではないが案内できる程度には慣れていた。
「うちは真ちゃんがあまりこうした行事に参加したがらないので、初めてなんです。昨日から母親の私の方がそわそわしてしまって」
顔をやや紅潮させ、ハンカチを両手で握りしめている真の母親に和葉がわかりますと笑顔で応じる。最近は落ち着き気味だが、葉月が幼い頃は雄叫びを上げかねないほど見学にも力が入っていたのを思い出せば、相手の気持ちも痛いほどわかるだろうなと春道をして思ってしまう。当人の前では、間違っても言えないが。
「私も娘の行事に参加するのは初めてです。幼稚園の頃は別れた妻に任せきりでしたし、離婚してからは仕事にかまけてばかりで……お恥ずかしい」
「私だって似たようなものですよ。今だって単身赴任中ですからね。でも、こちらに移住させて良かったとは思ってます。真に良い友人ができましたから」
男親は男親でまとまってわいわいと近況を語ったりする。春道の職業も特に珍しがられず、雰囲気はとても穏やかだ。
「おや、それはビデオカメラですね」
春道の動きに気がついた茉優の父親――修平が手元を覗き込んできた。
「ええ。毎年、撮影してるんです。娘は恥ずかしがりますけどね」
「いいですね。うちも持ってくればよかったな」
真の父親――鈴木正志の口ぶりが残念そうだったので、春道はDVDにして皆さんに配りましょうかと提案する。
「ありがとうございます。是非、お願いします!」
後ろで話を聞いていたのか、熱烈に歓迎の意を示したのは真の母親の香織だった。親しみやすい美人でありながら、童顔ゆえに可愛らしさもある。きっと一人息子は、彼女の遺伝子をより濃く受け継いでいるのだろう。
「お、そう言ってる間に茉優ちゃんが走るみたいですよ」
「自分が走るわけじゃないのにドキドキしますね」
「ウフフ。親って皆、そういうものですよ」
そう言いながら香織が烏龍茶の入った紙コップを修平に手渡す。正志には和葉が渡し、春道のそばにも置かれた。
「茉優ちゃん、足が速いんですね」
僅かな驚きとともに和葉が感想を口にした。普段のどこかふわふわとした感じを考えれば、あまり俊敏性があるとは思えない。実際に春道も三人の中では一番運動が不得意なのではないかと予想していたほどだ。
「私も初めて知りました。こんなことではいけないのですが、これからゆっくり娘のことも知っていきますよ」
一位になって嬉しそうにこちらを見る茉優に、修平も笑顔で手を振って応える。
真は残念な順位になったが、それでも一生懸命な姿に大喜びだった。菜月も去年までとさほど変わらない成績だが、和葉のみならず春道も子供が元気な姿を見られるだけで嬉しくなる。
一番の盛り上がりは昼休憩前の応援合戦だった。真がデザインしたという旗を使い、学級委員長の菜月の号令で見事な応援を決める。高順位に加え、真が苦心して考えた旗の模様が校長先生から褒められるというおまけつきである。一躍主人公みたいに周囲からもてはやされ、はにかみながらも満更ではなさそうだった。
「おめでとうございます、鈴木さん」
和葉の祝福に、真の両親も心から嬉しそうな笑顔を見せた。
「そろそろ昼休憩みたいだぞ。せっかくの菜月の力作だ。真君と茉優ちゃんを驚かせてあげないとな」
「私たちの分は香織さんと私が作ってきたお弁当です。遠慮せずにどうぞ」
*
食事が終わって午後の部は保護者対抗の競技が行われる。中でも目玉となるのがリレーだ。各クラスから父母四人ずつの合計八人の参加となるのだが、クラスで参加する父親の数が少なったのもあり、春道たち三人は揃って出場予定になっていた。
「春道さん、頑張ってください」
すでに菜月との母娘の二人三脚を終えた和葉はすっかり観戦モードだ。午後からは両親のもとにいる児童がいても学校側はほぼ黙認で、運動会はよりアットホームな雰囲気になっていた。
「娘のためにも気合を入れないといけませんな」
「ということは、佐奈原さんは走るのが得意なんですか?」
尋ねた春道に対し、修平はばつが悪そうに後頭部を掻いた。
「運動神経が良かったのは茉優の母親の方でして……私はそれほどでもないんです。鈴木さんは?」
「似たり寄ったりですね。足がもつれないようにと、ここ最近は可能であれば仕事中の移動は徒歩にしていましたが……」
揃って自信なさげな顔を晒す父親二名が、申し合わせたように春道を見る。
「先ほど説明した通り、私はほぼ引き篭もるのが仕事ですからね。運動不足を心配した妻に散歩へ連れ出されていますが、全力で走るとなると体がついていくかどうか……」
春道を含めて歯切れの悪い三人は、それぞれの家族に見つからないように肩を落とす。それでも父親の威厳を保つためには、力の限りを尽くして走らなければならないのである。
「特に高木さんはアンカーですからね」
同情するように修平が言った。
第一走者が女性。そのあとは男女交代で走るため、必然的にアンカーは父親となる。そして厳正なくじ引きの結果、選ばれてしまったのが春道だった。
「とにかくやるだけやりましょう。転ばないのを祈りながら」
スタートする前は弱気塗れでも、いざ始まればそんな暇もなくなる。自分のチームの走者を目で追い、四百メートルのトラックを二周。一人百メートルずつ走るリレーの順番を待つ。
不謹慎ながらぶっちぎりで最下位とかであれば気も楽なのだが、修平も正志も我が子の前でいいところを見せようと走り切り、春道の前の走者に至ってはトップ争いまで繰り広げていた。余計にプレッシャーが強まったところでバトンを受け取り、トラックを疾走する。
紅組を応援する児童の声。
保護者の拍手。
それを潜り抜けて愛妻と愛娘の応援の声が届く。百人力とばかりに肉体に元気が漲り、前だけを向いて必死に走った。
「菜月ちゃんのパパ、凄いねっ」
「ま、まあ、それなりに」
葉月みたいに喜びを素直に表現するとはいかないが、手を繋いで小さく飛び跳ねる茉優に春道を褒められ、愛娘は満更でもなさそうな表情を浮かべていた。
こちらの視線に気がつくと、まずいところを見られたとばかりに顔を逸らされてしまったが。
代わりに児童みたいに大喜びする和葉に手を上げて応じる。いつの間に近くへ来ていたのか、実兄である戸高泰宏とその妻にからかわれているみたいでもあった。
*
保護者リレーでの好成績もあって紅組が勝利し、菜月たちのクラスは見事にペナントも獲得した。春道たちは後片付けをしながら子供たちが教室から戻ってくるのを待ち、全員でファミレスに寄る。
各々の注文を待つ間の話題は当然ながら運動会のことばかりで、特に父親が初めて学校のイベントに参加してくれた茉優が大喜びだった。
気合よりも不安の方が大きかったらしい真も無事に運動会を終えて安堵しており、トラウマではなく良い思い出となったみたいで何よりである。
「あ、そういえばパパの雄姿……きちんと録画できていないわよ」
頼んだミートソースを美味しそうに食べながら、思い出したように菜月が言った。
「何かあったのか?」
「……菜月、食事中は静かに食べなさい」
先ほどまで一緒になって会話に参加していた妻の我が子への注意を聞き、春道は大体の事情を理解する。
「なるほど。和葉がやらかしたのか」
「パパがゴールする頃にはとんでもないはしゃぎっぷりだったわ。ビデオカメラを持った手まで振り回して喜ぶのだもの。撮影できているはずがないわね」
赤面して弁解しようと口を開こうとする和葉だったが、その時の様子を皆に見られていると愛娘に指摘されれば否定などできるはずもなかった。
「それだけ夫婦仲が良いということではないですか。リレーでの活躍といい、男として高木さんには勝てる気がしませんな。羨ましい」
注がれた羨望の眼差しはしっかり受け止めつつ、けれど春道は茉優の父親に告げる。
「羨む必要はないでしょう。それよりむしろ、茉優ちゃんという娘がいることを自慢してください」
「……ハハ。やっぱり敵いそうもありません」
降参とばかりに後頭部を掻く修平が最初に笑い、引っ張られるように全員が笑う。窓から入り込む春の日差しに負けないくらい、春道たちの座るファミレスの一角はとても暖かった。
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