第190話 娘たちの入学式

 送迎バスに乗せて菜月を幼稚園へ送り出してから、高木家の慌ただしさが一気に増した。

 愛する妻のおかげで事前準備は完璧だが、身だしなみを整えるにはそれなりに時間がかかる。とはいえ、春道の場合はさほどでもないのだが。


 妻の和葉が美容院で髪の毛をセットして戻って来る前に、あらかたの準備を終えておく。ビデオカメラのチェックも済んだ。いざ撮影を開始したら電池などがないとなったら、娘を何より大事に思っている和葉が大噴火を起こすのは間違いない。

 基本的には一生に一度の晴れ舞台。ミスると命がない……は言いすぎかもしれないが、それくらいの覚悟で臨むべきだろう。


 出発前の確認も終えたところで、荷物を車に乗せる。外は快晴。この地方では四月でも冬の寒さの名残があったりするのだが、今日は春を連想させる温かさだ。一応は後部座席に用意しているが、これならコートも不要だろう。


 ビデオカメラなどを車のトランクに乗せていると、タイミングよく和葉が戻って来た。葉月の友人である今井好美の母親が経営している美容院で、髪の毛を綺麗にアップにまとめてもらっている。


「似合ってるよ。綺麗じゃないか」


 目が合った時点で声をかけると、照れ臭そうに和葉が微笑んだ。淡いグレーのジャケットの下には白地のシャツが覗き、爽やかさを演出している。

 スカートはもちろんジャケットとお揃いで、膝が隠れる程度の裾のブリーツスカート。肌色のストッキングで足元は綺麗に見え、靴はスーツと同色のパンプスで派手さはないが清潔感がある。


 イヤリングとネックレスは真珠でまとめ、両手からは白に近いベージュのトートバッグが下げられている。大きさはさほどでもなく、中にはスリッパ程度の必要最低限の物が入る程度だ。

 どのような服装で行こうか悩んだ結果、好美や実希子の母親と話し合って全員で似たような感じにしたらしかった。


 真っ先に似合っていると春道に褒めてもらえて、和葉は上機嫌だ。いつになく嬉しそうで、鼻歌まで歌いかねないほどだ。笑顔は人に伝染するもので、彼女のそうした姿を見ているだけで春道まで楽しくなってくる。


「さて、出発しよう。葉月の晴れ舞台を見逃すわけにはいかないからな」


「そんなことになったら、あの子がむくれて大変ね」


 どこぞの紳士ばりに助手席のドアを開けて、最愛の妻をエスコートする。


「どうぞ、お姫様。いや、お妃様か」


「私は春道さんの妻だからそうなるわね。少し残念だわ。お姫様と呼んでもらうために、独身に戻ろうかしら」


「おいおい、勘弁してくれよ。そんなことになったら、俺は残りの人生を泣いて暮らすぞ」


「ウフフ。もちろん冗談よ。春道さんがどんなに駄目男でも、一生を添い遂げてあげるわ」


「それは助かる。ただ、時々は優しくしてほしいかな」


 笑い合いながら、助手席のドアを閉めた春道も車に乗り込む。

 事前に渡された保護者用の入学式の案内に、利用できる駐車場が幾つか書かれていた。高校近くのスーパーの駐車場の一部などだ。そのうちの一つに車を止めて、会場となる体育館までは徒歩移動となる。


   *


 ビデオカメラの入ったハンドバッグ片手に、入学式の舞台となる体育館に入る。隣にいる和葉がふうと小さく息を吐いた。どうやら緊張しているようである。


「主役は葉月なのに、何故か私まで緊張してしまうわ」


 娘想いの和葉は、イベントがある度に全力で応援する。普段は冷静であがり症でもないはずなのに、テンパって手が付けられなくなる機会がわりとある。大抵はそのどれもに葉月が関わっている。


「今からそんなんでどうするんだよ。葉月の入場に合わせて、失神したりしてな」


 和葉が苦笑する。


「ありえそうだから笑えないわ」


「ま、そうなっても俺が支えてやるよ。夫婦だしな」


「フフ。頼りにしてるわ、旦那様」


 体育館の後方には保護者用の席が用意されていた。気の早い両親たちが、それぞれの子供の登場を早くも待ちわびている。春道と和葉のその中に含まれるのだが。

 どこに座ろうかきょろきょろしていると、高木さんと名前を呼ばれた。見ると室戸柚の両親が手を上げていた。


「おはようございます」


 近づいて挨拶をする。柚の両親も、娘の入学式に似合う服装をしていた。


「おはようございます。ここからなら入場する新入生がよく見えそうですよ。ハハハ。この日のためにビデオカメラを新調して、お店も臨時休業にしてきましたよ」


 柚の両親は個人で不動産業を営んでいる。一時期業績が低迷していたが、今では持ち直して金持ち路線に突入しているらしい。これは和葉が好美の母親から聞いた話だった。


「お、佐々木さんたちも来たみたいですな」


 実希子の両親も呼び寄せ、周囲は次第に賑やかさを増していく。小学校時代から娘同士が仲良かったのもあり、親たちの仲も良好だった。柚だけが私立の中学校へ進学したため、この三年間は疎遠になってしまっていたが。


 かつての親友とまた同じ学校に通えると知った時の葉月の喜びようは凄かった。本当に良い友人に巡り会えてよかったと、微笑ましく思ったものである。

 好美の母親も到着して、小学校以来となる面子が揃う。実希子の両親が、何度目かもわからないお礼を好美の母親に告げる。


「ウチのアホ娘が南高校に進学できたのも、好美ちゃんのおかげで。本当にありがとうございます」


「いえ。実希子ちゃんが頑張ったからですよ。それだけ皆で同じ高校に通いたかったんでしょうね」


 和気藹々とした雰囲気の中にも、徐々に緊張の空気が混ざり出す。

 もっとも濃いのを全身から放出しているのは、言わずと知れた和葉だ。普段の姿が嘘みたいにそわそわしている。当初は驚かれたものだが、今ではすっかりそういう人間だと親しい関係の人たちには理解されていた。


 母親同士でお喋りをしている間に、父親陣は娘の晴れ姿を撮影すべく機材の準備に入る。全員が素人なので専門的な道具はない。あくまでビデオカメラが中心だ。わざわざ新調したという柚の父親のが一番立派だった。


   *


 進行役の教員が体育館の壇上へ続く階段のあるすぐ横、スタンドマイクが設置された場所へ立つ。

 高校名と回数を告げ、入学式の開始を宣言する。さすがに待ってましたなどと歓声を上げる保護者はいない。


 シンとした中で厳かに行われる。在校生はおらず、新入生だけが体育館へ入場してくる。

 A組から始まり、誰もが自分の子供を探す。男女別の二列で、出席番号順に並んでいる。間隔を少し開けて整列しているので、見つけるのにさほど苦労しなさそうだった。


「は、春道さん。葉月がいないわ。何かあったんじゃ……!」


 一人緊迫する和葉の頭を右手で撫でる。左手は撮影中のビデオカメラを固定するために使用中である。


「A組じゃなかっただけだろ。心配するのもわかるが、葉月の舞台だ。温かく見守ろうぜ」


 春道に笑いかけられ、多少とはいえ普段の冷静さを取り戻してくれたみたいだった。深呼吸を繰り返すうちに、青かった彼女の顔色が正常に戻っていく。


「わかったわ。それでもドキドキするのに変わりはないわね。早く来てほしいわ……」


 頭の上にあった春道の手を掴み、和葉は自分の太腿の上へ置く。一応は人目を気にしているのか、目立たないようにしつつも、強く握ったままだ。

 こうした展開も初めてではないので、自分の手が妻の不安解消に役立つならばと好きにさせる。


 C組が入場してきてすぐ、周囲の様子が変わる。ようやく仲良し組の最初の一人が姿を見せたからだ。

 今井好美は真っ直ぐ歩いていたが、保護者籍の前を通る時に横目でこちらを見た。母親の姿を確認すると、少女らしく微笑んだ。高木家同様に、家族仲が良好なのがわかる光景だった。


 続いて同じC組内に佐々木実希子の姿を発見する。とにかく明るく活発な少女らしく、他者の目をあまり気にせず満面の笑みで、見守っている家族にピースまでする始末だった。苦笑する他の保護者を尻目に、実希子の両親は涙ぐんで喜んでいる。


 全員が同じクラスになってくれれば嬉しかったが、葉月と柚はC組にはいなかった。その後D組、E組と続くも見つからない。

 和葉が取り乱さないか心配したが、春道の手を握ってるのもあって、かろうじて平静と呼べるギリギリのラインで踏ん張れているみたいだった。


「い、いたっ! いたわよ、春道さん。きちんと撮れてる!?」


「大丈夫だから、そんなに興奮するな。他の親御さんも、自分の子供を見るのを楽しみにしているんだぞ」


 注意されてようやく気付き、大人しくなる。だが和葉の潤んだ両目は、しっかりと行進する愛娘を捉えている。

 葉月の反応は好美と似たようなものだった。春道たちを見つけると、嬉しそうに愛らしい笑顔を見せてくれた。


 最後の登場となったのが柚だった。小学校時代と雰囲気が変わった印象を受ける。派手さを好むマセた感じの少女なのに、ずいぶんと地味になっていた。

 気にはなっても根掘り葉掘り聞くのはルール違反だ。各家には各家の事情もある。とりあえずはイメチェンの一種なのだろうと気にしないことにした。


 新入生全員が所定の位置に並び、一人ずつ名前が読み上げられる。立ち上がって返事をし、全員分が終わったところで入学を認める旨を告げられる。


「これで葉月も高校生か。時の流れってのは早いもんだな」


 誰にともなく春道が呟くと、ハンカチで目元を押さえている和葉が「そうね」と頷いた。

 出会った頃はまだ七歳だった。春道も二十代だった。奇妙な結婚生活を送るようになり、本物の家族となった。あの一件から、すでに十年近くが経過しているのである。


「入学おめでとう、葉月」


 横目で見た和葉は母親の顔をしていた。きっと自分も父親の顔をしているのだろう。そう考えると、なんだか春道は嬉しくなった。


   *


 入学式とその後の説明会が終わったあと、一緒に愛しい我が子の入学式を見守っていた四組の家族で食事をとることになった。

 柚の父親が知っている中華レストランで席を確保してくれて、その店へお邪魔した。子供たちは子供たちで一つのテーブルを囲み、笑いながら食事を楽しんでいる。


 一方で親たちも同様に皆で一つのテーブルを囲んでいる。柚の父親が奢ると言っていたが、それでは申し訳ないので、結局は割り勘に決まった。

 和葉が好美らの母親と談笑しているのをなんとなしに眺めていたら、春道の隣に柚の父親がやってきた。


「これから、よろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げられたが、何のことかわからない春道はポカンとしてしまう。


「恥ずかしながら、私は父親としてあの子のことをわかっておりませんでした」


 顔を上げた柚の父親が、テーブルの上で両手を組んで話し始める。


「よかれと思って娘を私立の中学校へ通わせたのですが、見る見るうちに元気を失っていきました。それでも将来に役立つと考えて黙って見守っていたのですが、間違いだったかもしれません」


 受験シーズンになり、柚本人から地元の高校へ通いたいとお願いされた。当初は私立に通わせるつもりだったが、娘の意思を尊重したいと受け入れたのだという。


「見てください。あんなに明るい娘の笑顔は久しぶりです。学歴がなければ苦労する。そんなことばかり考えていましたが、それだけではきっと意味がないのでしょうね。今さらになって気づくとは、私は愚かな父親です」


「愚かなのは私も一緒ですよ。だから子供と一緒に学んでいきましょう」


 話が一段落したタイミングで、実希子の父親が輪に加わった。どうやらそれとなく、春道と柚の父親の会話を聞いていたらしい。


「困りましたな。うちの娘に教えてもらったことといえば、大食いの仕方くらいですよ」


「こら親父。聞こえてるぞ!」


 椅子から立ち上がった実希子が、自分の父親を指差す。店内に他の客はいなくなっており、貸し切り状態だからこそのリアクションだった。


「聞きました? 最近では娘か息子かわからない始末でして。葉月ちゃんや好美ちゃん、それに柚ちゃんのお父さんが羨ましい。どなたか交換してくださいませんか?」


「親父、本気だろ! 娘を売ろうとすんな! そもそもアタシがこんな風になったのは兄貴と親父の責任じゃねえか!」


 ウエイトレスと店長のも含めた笑い声に包まれる店内。

 楽しそうな柚の隣で、葉月も心からの笑顔を浮かべている。気が付くと春道もまた、自然と口元を緩めていた。

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