その4
家に帰ると玄関には鍵がかかっていて、幸い母はまだ帰って来ていなかった。が、期限は朝だ。すでに大幅に過ぎている上に、本は依然として汚れたままだ。
母が帰って来たら終わりだ。
「どうしよう」
私が考えた苦肉の策で、濡れた部分を立ち読みして憶えて書き写そうかと考えたけど。
レジの真横に平積みされている新刊を相手にそんな事する勇気は私にはなかった。そもそも、そんな泥棒と同じ事をして書いた原稿を、作家を尊敬している母に出したら、それこそ『作家への侮辱だ』と大目玉を喰らってしまう。
「サクラァ!」
階段の麓から、時間切れを告げる玄関の音と母の大声。完全に怒ってる声色。私のお腹に「本を返せ」って訴えて来るボディブロー。
どうしよ。どうしよ。
慌てふためいて自分の部屋を行ったり来たりする私。
──私にとっては大事なことなんだけど──
アナタの言葉をまた思い出した。
「どう言う意味?」
──どっちなの? 書きたいの? 書きたくないの? ──
正直、作戦としてあまりにも馬鹿げている。
けど……何もやらないで怒られるよりは、やって怒られた方がマシな気がした……と、これだけ自分に言い訳しないと、己の素直な気持ちに気付けないほど、当時の私はダメな人間だった。
「お母さん!」
階段の下のお母さんは、私の大声に虚を突かれ、一瞬怒るのを躊躇った。これが勝負の決め手になった。
「な、何よ? いきなり大声出して」
「ぱ、パソコン貸してほしいんだけど!」
机の上に母のノートパソコンを置いて作業に取り掛かる。昨日読んだから、前後のストーリーは頭に入っているし、トンネルと入り口と出口の部分はなんとか読める。
間の数ページだけだ……トンネルで隠れた少しの部分を埋めるだけ。
だけど、いざキーボードに手を置くと、砂漠のど真ん中にポツンとあるスタートラインに立たされたような恐怖が襲って来た。
「いつか私も小説を書いてみたい」とずっと憧れていたけど……一歩前に進む勇気がない私、文芸部のドアすら開けられない私には、たった一文字を真っ白な砂漠のど真ん中に置く事がとても大きな壁に感じた。
──書きたいの? 書きたくないの? ──
ホント、なんなの、アナタ。
私は人生で一番重い一文字をアナタへの訳の反抗心で押した。そして、ヤケクソに砂の海をガムシャラに歩き出した。
すると、次第にタイプをする指が軽くなり、私の頭の中に、登場人物たちの血液が流れ込んできた。
何気ない日常のセリフをタイプするだけで、すごくドキドキした。今でもあの感覚は頭にはっきりと憶えている。
気付いたら物語を動かす事に夢中になって、数ページでいいのに、十ページ以上も自分で勝手に話を作ってしまった。
「サクラぁ! ご飯だって言ってるでしょ!」
下からお母さんが夕飯で読んだ声でハッとするまで、そこが自宅の部屋だということを忘れていた。
「サクラぁ!」
心臓がドキドキしていた。多分、あの時、母に怒られてもきっと私は平気な顔をしていただろう。
この無敵な気持ちは何だろう? と、考えた。
夕飯を食べに下へ降りた時に、母に事情を説明して、汚れた本と私が書いた部分をプリントアウトした物を渡した。
「ちゃ、ちゃんと同じ本を持ってた子のを写させてもらったから」
「なら、その子に本を借りて来てくれれば良かったのにぃ」
言い得て妙でどきっとした。けど、母は「まぁ、いいわ」と笑ってはいなかったが許してはくれた。
はずだった……。
翌日の晩。
読書会から帰って来た母は「ただいま」とも言わずに帰って来た。
玄関のドアの音に反応し、部屋を降りて来た私の目に、上り框に腰を掛けていた母の後ろ姿があった。
直感で「やばい」と感じた。
「お、おかえり」
私の声にも振り返らず、
「さくら、ちょっと話があるから」
ヤバイ。
穏やかな声だけど、怒っている。一番、母が機嫌が悪い時の口調だ。
「な、なに?」
リビングに座らされた私は、まだ惚けた顔を続けていた。
母は「証拠は上がってる」と言いたげに、鞄から本と私の書いたコピー用紙を出して、強めにテーブルに置いた。
「昨日、もらったこれだけど……このコピーの部分、誰が書いたの?」
やっぱり。
「……私です」
そう言った私の顔を母はしばらく無言で眺めていた。
時計の針の音が心臓に次々と刺さって来る。
「……あなた、これ、友達のを写したって言ったわよね?」
「ごめんなさい。嘘です」
「なら、このコピーの部分はなんなの?」
「……私が想像で書きました。前と後ろのストーリーを読んで」
怒鳴られると思い、私の瞳は涙用のタンクは満タンで準備完了。すでに目蓋の下まで水の気配を感じていた。
けど、母から帰って来たのは意外にも「ふーん」と言う気の抜けた返事だけだった。
「あれ?」と私は俯いていた顔をひゃっと上げた。人生で一度も経験した事のない展開に戸惑った。
「お母さんね。読書会で大恥かいたわよ。みんなの前で感想を言ったら『そんなシーンどこにもなかった』って針の筵にされて」
「ごめんなさい」
と、少し安堵した途端、やはり責められた。
数年後に文庫本になったこの小説を母と読み返したら、私が書いたページはやっぱり全然違っていた。執筆が人生初の女子高生と百戦錬磨のプロの作家では、天と地ほどの差があり、この時の原稿を引っ張り出して来た母と二人で大笑いした。
「けどね」
「へ?」
「会が終わった後に『あなたが書いた話を読ませて』って言ってくる人がいてね。『乙木さんのコピーの話も面白いわね』って」
「……ウソ」
「お母さんも、みんなに言われるまで全然気づかなかったし、アナタ、意外と文章上手だったのね」
「あ、ありがと」
「褒めてないわよ」
「ごめん、なさい」
母は『怒る気がなくなった』と言って、その日は解放してくれた。
私は誰かに面白いと言われることが、こんなに嬉しい事だったと初めって知って、言葉にならないほど嬉しかった。その日の夜は自分の書いた話を布団の中で、何度も読み返した。
翌朝、職員室に寄って、先生から入部届の紙をもう一度貰った。
「あ、さくら、おはよ!」
職員室から出て来ると、階段を上がって来るアナタと鉢合わせになった。
「何してるの?」
「にゅ、入部届の紙、もらいに来た」
アナタにお礼を言った方がいいのか解らず、何故かアナタを見てドキドキしてしまった。
「え? まだ入ってなかったの、部活? まぁ、コミュ障にはハードルが高いかぁ」
ニヤニヤした顔でイジッて来るアナタに歯向かう気も起きなかった。
「……おととい。アナタに言われて、小説の抜けた部分、書いてみた」
「えっ! 書いたの! まじ!」
そう言うと、アナタは鼻息がかかるくらいにまで顔を近づけて来た。
「それで、どうだった!」
「お母さんに怒られた」
「やっぱ、ダメだったか……」
「なに、そのリアクション」
おい、提案者。
「いや、まぁ……あれだよ。人生は長いんだから、そんなクヨクヨしないでさ。あと八十年くらい生きないといけないわけよ」
「……でもちょっとだけ褒められた」
「え?」
「だから、一応、お礼言っとく。ありがと」
「……そう、よかったね」
その時のアナタの優しい顔。その時はあまり気にしていなかったけど、今ではたまに思い出す時がある。
その日の放課後に入部届けを持って行き、私は文芸部に入部した。
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