その3

 途中で雨でも降ってくれたら言い訳にもなったのに。なんで今日に限って晴れているのか。

 母の勘の鋭さを掻い潜れる嘘すら思いつかないまま、濡れた本を抱え、私は家に着いた。


「ただいま」


 台所から包丁の音が聞こえる。母に見つからないように本はスカートの背中に挟んで、ブレザーの下に隠した。とにかく、二階の自分の部屋にたどり着けば、まだ可能性はある。


「あら? ちょっとサクラ!」


 音を立てずに登っていた階段の途中で、後ろから刺さった疑いの声に心臓が張り裂けそうになった。


「な、何?」

「アナタ、制服の背中濡れてるけど、転んだの?」


 本を隠す事に必死で盲点だった。濡れた水滴が布に滲みてしまっていた。


「ああ……あの、ちょっと桜の花びらで滑っちゃってさ」

「ふーん」


 返事はしたが、母は怪訝な表情で私を見上げていた。絶対、信じていない顔だ。信じてたら「大丈夫?」くらいは聞いてくるものだ。


「ていうか、あなた。今日、文芸部に入ってくるんじゃなかったの? まだ日も暮れてないけど」

「えっ! ああ……なんか部室行ったら、今日は休みらしくて……誰もいなかったから、帰ってきた」


 母の眉間のシワがさらに深くなった。


「な、何?」

「……知ってる? アンタ、嘘つくとき、いっつも「ああ……」って最初に言うのよ?」


 え?


「ったく、部活くらいとっとと入りなさいよ。そんなんだから友達もできないのよ。入学したばかりなのにブレザーまで濡らして、イジメられてるなら早く言ってよ」


 母は娘に呆れたようにため息をついて「誕生日おめでとう」とついでみたいに言い、台所に戻っていった。

 図星を突かれて凹む気持ちより、母が本の事を忘れていた安堵の方が勝った。ホッと息を吐いて、私は階段を上り始めた。


「あっ! そうじゃないわよ!」


 母の大声がし、ドタドタとこっちにスリッパが突進してくる。まずい。あの時の私にはイノシシよりも怖い足音だった。


「忘れてたわよ、アンタが情けないから! 本! 買って来てくれた?」

「えっ! あ……」


 また「ああ」と言いそうになったのを瞬時に飲み込んだ。

 ヤバイ。

 ビクッとした弾みで、背中の本が重みでズレた。そして本がバタっとスカートを抜けて階段に落下した。


 本当に心臓が止まるかと思った。不幸中の幸い、背表紙の方が上に落ちてくれた。


「あら、あるじゃない。ていうか、なんで背中に入れてるのよ」

「ちょっと、読みながら、帰ってきたから、玄関、開けられなくて」


 私は息切れみたいに嘘じゃない言葉をブツブツ吐きながら急いで本を拾った。


「こ、これさ、面白いから、先に読んでいい? 途中まで読んじゃってるの」

「別にいいけど。すぐに返してよ。来週の読書会が明後日に変更になったのよ。明日の朝には読みたいから」


 明日の朝……まで。それは無理な相談だった。けど、「わかった」と笑顔で言うしか、私に選択肢は残っていなかった。



 それから自分の部屋に戻り、ドライアーで1ページづつ紙を乾かした。


「ダメだぁ……」


 濡れてたページのほとんどは読めるが、泥水が直撃した前後の数ページはどうやっても、読める状態じゃない。

 と言うか、遺跡から発掘したみたいに全体的に汚かった。こんなもの、母が納得して読んでくれるはずがない。


「どうしよう」


 現実から目を背けたくて、私は机の上に突っ伏した。


 ──サクラって嘘吐く時、絶対「ああ……」って言うよね──


 アナタの事を思い出し、体を起こした。


「なんで、知ってたんだろう? 誕生日のことも」


 もちろん、私には昔にアナタと会った記憶なんてなかった。



 翌日。

 母に会わないよう、遅刻ギリギリまでベッドから起きず、寝坊して慌てたフリをして、朝食を食べず学校へ向かった。


 学校の休み時間。私は本を持ってアナタの席に向かった。


「あ、あの……」


 アナタの名前がとっさに出ずに、口籠ってしまった。


「あれ? 珍しいね、サクラが人に話しかけるなんて」


 アナタの無駄話を聞いている暇もなく、私は単刀直入に机の上に昨日の本を開いて置いた。


「な、なに?」


 アナタは私の想像以上に驚いた表情をして、目も泳いでいた。


「昨日、水で濡れたページが……読めなくなったから」


 変わり果てた茶色いページを見たアナタは「うわああ!」とクラスメイトが振り返るような大声を上げた。


「大声出さないでよ。みんな、見てるじゃん」

「ご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

「いや、その、謝罪じゃなくて。新しい本を買うお金を……半分出して欲しいんだけど」

「えっ! でも私、お金無いよ!」

「私だってお金無いし。これ、二千円するから千円だけでも出して欲しいの」

「千円出したら、お昼抜きになっちゃうよぉ! 死ぬよ!」


 それは私も一緒だった。むしろ、二千円出したら、朝と昼を抜く事になるから、私は確実にアナタより先に餓死する。

 ただ、口下手な上に、昨日の奇行を見て、アナタに怯えていた私はそれ以上言葉が出て来なかった。

 アナタの方もお金を出す気はさらさらない様子で、どうしようかと腕を組んで唸っていた。

 キーンコーンと休み時間終了のチャイムが鳴ってしまった。


「あっ!」


 と、アナタが何かを閃き、手を叩いた。


「いい事思いついた!」

「な、何ですか?」

「サクラが書けば良いんだよ! 見えなくなったページを」

「は?」


 言っている意味が分からず、私は大きな声が出た。授業に備えて席についていた近くの人らが私の方を振り返った。


「サクラが見えない部分を代筆して、お母さんに渡せば良いじゃん。ぬれちゃったのは謝って」

「そ、そんなことできるわけないでしょ」

「できるよ、サクラなら」

「無責任に言わないで、私の何知ってるの!」

「だって、サクラ、小説家になりたいんじゃないの?」


 え。

 また、アナタへの怒りはスーッと引いてしまった。一瞬、体が硬直して、身動きが取れなくなった。


 それは嘘の癖とは違う。だって、お母さんにすら言った事のない。私の密かな夢だった。それも学生なら誰もが思う、なれる筈はないけど、つまらない日々にハリを持たせるために思っている、遥か彼方にあった夢。


「そ、そんなの……関係ないでしょ、今は」


 急所を突かれて、私の頭はパニックで、脈絡のない返事をしてしまった。


「関係なくないよ」


 すると、アナタは急に真面目な顔になり、私を見てきた。急な豹変ぶりに私はどきっとした。


「どっちなの? 小説書きたいの? 書きたくないの?」


 前日に笑い声が聞こえた文芸部のドアを開ける勇気がなかった自分を咎められている様な鋭い視線で、私はアナタから目を逸らした。


「ああ……」


 何かを待っているように見ているアナタに対して、それだけしか言葉が出てこなかった。

 その時、ドアが開いて、先生が入って来た。


「……もう良い」


 そう言い残し、その場を離れ、それ以降、アナタに話しかける事はできず、学校は終わってしまった。


 授業を受けている間、ずっと心臓を掴まれている様で心が痛かった。


 母の本を言い訳にして、私はその日も文芸部には行けなかった。


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