第36話 口蜜腹剣
――時は少し前へと戻る。
手紙で呼び出されたアンジェは、指定された場所へと足を運んでいた。不意に上を見上げると、空は日差しが差し込む余地も無い程に雲に覆われていた。また、酷く淀んだ感じに色は変わっており、あまり良い気持ちにはなれない空模様であった。
先程も思い出したイリアの言葉が頭を過ぎる。確かに良くない事が起きそうだと思えた。
しかしだ。この雲行きであるが、前にも似たような時があり、その時イリアはこう言っていた。
「こう言った雲は、一見雨が降りそうにも思えるけど、実際は積乱雲が出来ておらず横に広がっているだけだから、これ以上天気が崩れる事は無いわよ?」
その見分け方としては幾つかあるが、ハッキリと判る分には、まず雲が黒ずんだ色になってないかどうか。雷雲が出来ていないかの判別は簡単で視認でも判るらしい。
次に雲が低い位置にあるかどうか。雲が落ちてこないのは上昇気流の影響で吹き上げられている為に落ちようにも落ちれない状態でいるのだが、低い位置にある場合は上昇気流の強さが雲の重みより弱い時にそうなるようで、その場合大半は大きい積乱雲が出来ている事が多いらしい。その為、雨や雷が近い時間にくる判断基準になるのだとか。
後は、風に湿度を感じるかとか土の匂いがするだとか……そういった要素で時間の判断も出来るが、これらは感覚的に覚える方が早いとの事である。
今回の場合、見た感じ雲は低い位置にあるわけでもなく、黒ずんでいる感じでもない。よって、雨の心配は無さそうであった。
また、イリアは他にもこんな事を言っていた。
「この分だと夜には雲もはれて、夜空が綺麗に見えるかもしれないわね」
知識や理屈っぽいかと思いきや、感覚的な事にも詳しいイリアは、頭が良いってだけじゃない気がする。
そんな事を思いながら歩いていると、気がつけば指定された場所の近くにまで来ていました。
指定された場所は、人目の付かない裏路地で、その先は袋小路になっていた。
迂闊にそのまま行くのは危険だと思い、まずはこっそりと柱の影から覗き見る。誰かいたのなら、それはそれで良かったと思う。しかし、残念な事にそこには誰の姿も無かった。
指定された時間には数分あるとはいえ、普通は呼び出した手前早めに来ているものであろう。
……と、なると、普通の呼び出しでは無いと理解出来た。きっと、そういった類のものだろうと思い、周囲に気を配り辺りを見回した。だが、自分の周囲に気配は無く、ここまで来る道中も後を付けられていないかと警戒はしていたが、その気配も感じなかった。
ここまで来ると、単純に悪戯の線も出てくる。もしくは、宿舎から人を追い出す為の罠とも取れる。
色々と悩みつつも、気がつけば指定された時間になっていたので、一先ず警戒しつつ指定場所へと顔を出した。
――数分待つが誰も来ない。
やはり悪戯か何かの線なのか? と思っていたその時、一つの音がこちらへと近づいて来るのに気付く。この感じは足音だろう。単純に遅れてきたのか、それとも時間差で警戒が薄れた所を狙ったものか。色々思う所はあった。
……だけど。
生憎、音の聞き分け方はイリアの特訓カリキュラムの一つに入っており、既に習得済みなのです。
イリア曰く「王女とかなると、色々そういった話もあるでしょうから、覚えておいて損は無いわよ?」……との事です。
この音からして、人の足音で間違いないわ。それも一人ね。音の近づく感覚が早い……と言うより、広い? 歩幅が大きいのね。背の高い人か男性あたりかしら?
その音は遂に曲がり角付近にまで差し掛かっていた。そこで、歩みを止め様子を窺うような態度を取るならば、逆にその隙を見てここから脱出しよう。
そう思っていたのだが、その足音は歩みを止めることなく曲がり角を曲がってこちらへと顔を出して来た。
「おや? アンジェリーヌさん?」
曲がり角から出てきた顔は、予想外の見覚えのある人物であった。
「ハドレット先生? どうしてここへ?」
その人物は、定期的に検診へ行っている診療所の、私の担当治癒術士であるハドレット先生であった。高身長で黒い髪にモノクルのメガネを掛けた知的な男性である。
「いえ、この付近を通りかかった時に偶然アンジェリーヌさんらしき姿を見ましてね」
ハドレットは自身の事の顛末を説明する。
「こんな人気の無い所に向かって行くものですから、気になって追いかけてみたんですよ。見間違いならそれに越した事はありませんしね」
「そうでしたか、わざわざすみません」
「いいんですよ、お気になさらず」
ハドレットは扇ぐように手を振る。
「……ところで、こんなところに何用で?」
「……えぇ、それはですね――」
私はハドレット先生に手紙の件について話をした。
「……ふむ、なるほど」
ハドレットは顎に手を当て、眉を
「やはり悪戯か何かかもしれませんね」
「そうですか……」
「まぁ何もないのならそれに越した事ありませんよ?」
「そうですね」
引っ掛かりはあるものの、結局よく解らないままであった。
「……あぁ、そうです」
不意にハドレットは声を上げる。
「折角ですしお聞きしますが、最近体調の方は如何ですか?」
「そうですね……」
最近の体調について少し考えてから口を開く。
「特に変わりなく過ごせています」
「そうですか……それは重畳、とても良い事です」
ハドレットはそう口にし、笑顔で頷いた。
「では帰りは私がお送りしますよ」
「そこまでお気遣い頂かなくても……」
「いえいえ、何があるかわかりませんからね」
「そうですね……ではお願いします」
一礼をし、背を向けたその時、ハドレットはぼそりと何かを呟いた。その瞬間、アンジェは全身の力が抜けたかのように、ドサリと地に倒れ込んだ。
「……えぇ、道中何があるかわかりませんからね。私が直接お送りしますよ」
地に伏せるアンジェを見下しニヤリと口元を歪ませる。
「準備は整ったようですし、時は満ちたようですね」
そう呟くと、アンジェを抱えこみ呪文を詠唱すると、足元に紋様が浮かび上がる。その瞬間、二人の姿はその場から消え去っていた。
……その場所には何の気配も感じない。唯一つ、小さな物音だけが辺りに鳴り響いていた。
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