49 開幕の合図は高らかに

 憤怒に支配されている獣の気配が緩む。

 オオカミは力んでいた頬を焼いたマシュマロほど柔らかくした。

 仔山羊達すら騙す美しい声音を有した声帯を震わせて、彼女は微笑んだ。


「ありがとう」


 お姫様と紛う眩い笑顔を真正面から目にしたアリスは、オオカミに騙されてしまう者の気持ちが分かった気がした。悪とは心の隙をついてくる。

 気を付けなければいけないと思ったが、オオカミが自分達を騙そうとしているわけではないと知るアリスはオオカミにつられて柔らかな笑みを零した。

 彼女はもう悪ではない。


「?」


 突然頭になにかが触れ、アリスは顔をもたげる。

 ギラつく太陽光を背負った桃太郎の手がアリスの頭を撫でていた。

 逆光のせいで翳った桃太郎の表情は見え辛かったが自分の頭を撫でる籠手の無機質さを感じさせない優しい手付きから伝わるものは温かく、表情が見えなくても彼がどんな顔をしているかは安易に想像がついた。

 なのでアリスは大人しく頭を撫でられ続けた。


「嘘でもなくジンはどっかの竜巻の中に悪魔憑きと一緒にいる」


 と、オオカミが猟銃を肩に担ぎながら言った。

 喉を焼く熱気の中に雨雲のような嘆息が落とされ、アリスオオカミに注目し直す。


「嘘でもなく何度も何度も竜巻を消して突っ込もうとしてんだが、数が多い上に消してもすぐに戻りやがる。それもこれも、竜巻の中で悪魔憑きはずっと前からジンに助けてって言ってんだ。嘘でもなくそれだけしか言ってねえ。だから半端に願いが叶えられ続けていて」

「奇異な竜巻を無数に生んでいるのでござるな」

「桃の兄さん大当たり。ジンはどんな願いも叶えちまうがそれが曖昧なもんだと曖昧に作用する。昔はこうじゃなかったみたいだが、トンチンカンになってからは、な?」

「なんでも、と言うのも難儀でござるな」


 桃太郎の手がアリスの頭から離れていく。彼は腕を組んで三秒ほど沈潜。「まずは、ある程度見極めねばならぬか」と、穏やかに口角を持ち上げた次の瞬間、場から消えた。


「……え?」


 アリスには桃太郎が消えたとしか思えなかった。が、動体視力の良い獣達は口を半開きいて呆けたアリスとは異なり既に遠くを凝視している。

 オオカミが口笛でも吹くふうに犬歯を軽快に鳴らした。


 桃太郎が立っていた地面では残骸が弾かれた様子で舞い、それらが地に落ちる前に地雷が爆発したと勘違いしそうになる重い地響きがアリスの全身を揺らした。アリスの銀の焦点が現実を改めてとらえる。


「っ!」


 鼓膜が痛み、激しい耳鳴りに襲われた。平衡感覚が狂う眩暈に頭と視界がぐらつく。爆音は止まらない。


「吾輩ちゃん……なーんであんな化け物とやり合おうと思ったんだよ。三歩下がっても昔の自分が分からないよ」


 長い尻尾を腹の下へ隠し入れた領主が耳をペタリと下げる。オオカミが「嘘でもなくお前良くやったな」と領主に対して肩を揺らした。


「まさか!」


 ようやく勘付いたアリスは真上に跳躍。

 廃墟のような壊れた柱時計の影から飛び出した瞬間、暴風に炙られた。

 錆と油の臭いが霧散。

 風に絡む残骸達の悲鳴。

 遠くでうねる竜巻が真っ二つに避けた。痛快なほど。


 黒龍と紛う猛々しい暴力の塊が瞬く間に両断され、だがしかし消え切る前に新たな竜巻が生まれた。

 猛然と駆け回る竜巻の真正面。

 勇ましく仁王立つ黒髪の青年は落ち着いた様子で抜刀していた刀を鞘に戻す。

 片脚を引き、座り込んでしまうのかと勘違いしてしまうほど深く深く腰を落とした。


「桃太郎お兄さま……!」


 アリスの悲鳴が上がるのと、飛び上がってきたオオカミと領主が彼女の左右に着地したのと、桃太郎が己を喰らわんと突っ込んできた竜巻を居合術で両断したのは同時だった。


「じゅうー……二? 悪い。嘘かも。あー……十四、いったか? 嘘でもなくそっから先は見えない。領主は?」

「多分? 吾輩ちゃんもそこまでだよ」


 二匹が確認し合う内容が、居合術に連なり繰り出された斬撃の数だと気付くまでにアリスは瞬きを五回は繰り返していた。

 五回目の瞬きが終わった時。


「オレ様は嘘でもなく一発」

「二裂きだよ」


 アリスの左側でオオカミが猟銃を。

 アリスの右側で領主が己の爪先を。

 構えた。


 発砲音と、

 風切り音。


「きゃあっ!」


 真っ白な髪とリボン、エプロンドレスが衝撃に激しくたなびく。肩紐は両方が落ちた。はしたなく大口を開けて内側を晒そうとしたスカートをアリスは慌てて押さえつける。


 オオカミが放った一撃と領主が放った二撃の余韻が消える前に、アリスの真正面に二匹の攻撃によって逃げ道を確保して移動してきた桃太郎が音もなく着地した。刀はもうしまってある。

 桃太郎はアリスの乱れた白いリボンを直しながら「呵呵々!」と肩を揺らす。


「駄目でござるな。数も多いが発生が速い。まとめて消してもすぐに他の竜巻が生まれるでござる」

「嘘でもなくそれな。一発はドデカくても連射がきついオレ様には数が厄介だぜ」

「吾輩ちゃんは十歩進むくらい連撃は得意だけど……竜巻はお爪を削るからいやだよ。爪切りは嫌いだよ」

「異物感はするでござるが……ふむ。どうも捕らえきれぬ。もしや悪魔憑きは移動しているでござるか?」

「嘘でもなくその通り」

「十歩進むくらい正解」

「いくら消してもあの速さで戻られる上、移動されておれば見つけるのは一苦労。なれば、まとめて消さねばならぬでござる」

「嘘でもなく」

「百歩進むよ」

「えっ?」


 むっつの視線が一気にアリスへと集中。

 アリスは思わず肩を跳ねさせる。

 落ちた肩紐をおずおずと直している途中で、アリスは自分に求められていることに気が付いた。


「あっ……え、ええ。できますわ。竜巻達の時間をまとめて戻せば良いのですわね?」


 途端に全員の表情が綻ぶ。

「でも!」と、アリスは慌てて続けた。


「ここには時間がいませんの! さっきもそうですが、時間をまとめて戻すのは難しく、竜巻の時間を操りましたわ。だからこの後も竜巻ひとつひとつの時間達に干渉しなくてはならなくて……わたし達でも竜巻が出てすぐというのは少し、慣れるまではほんの少し厳しいかもしれませんわ」

「ふむ?」

「んっ?」

「ニャ?」


 むっつの視線が持ち上がり、肩を縮こまらせるアリスの頭上で重なり合う。


「本当にここは時計の墓場ですわ。勝手に時計を葬送されてしまいますの。これでは時間も居心地が悪くていなくなるわね。ああ、いるのは個々の時間だけだわ。これじゃあ未来もいやしないわ!」


 ぶつぶつと文句を零すアリス。

 顔を見合わせる面々は疑問符を浮かべる。隠された双眼だけが再びアリスに意識を落とした。


「アリス殿にとっては時間はいるものでござったか?」

「ええ。しかしこの場の時間はいませんの」


 次いで硫黄色の瞳がアリスに落ちてくる。


「時間が操れないってことじゃないよな? 嘘でもなくさっきは竜巻を止めてくれたわけだし」

「はい。先程は竜巻の時間に関わりましたわ。だから時差が生じますの」


 最後に青磁色のアーモンド型の視線が落ちてくる。


「時間がないのに時差? さっすがは物語が狂う前から十分に狂っていた物語だよ! 何歩進んでも下がっても言ってることがおかし――ニャヒイッ!」


 隠された双眼に無言の圧で射られた青磁の眼が瞬間的に恐怖に潤む。

 尻尾を爆発させた領主は弱々しく髭を下げ、気まずそうに後脚で地面を掻いた。

 オオカミが領主を睨む桃太郎と必死に顔を逸らす領主を交互に見合い、咳払いをひとつ。


「嘘でもなくさっきと同じことをしてくれれば良いぜお嬢」

「多少の誤差があろうとも、某らが物理的に消すよりアリス殿に消して頂いた方が早いのは事実でござる故」

「時間がどうのこうのなんて吾輩ちゃん達には分からないよ」


 アリスはぐっと力む。

 背筋を伸ばして「はい!」と頷いた。


「アリス殿の援護は某と」

「吾輩ちゃんだよ。オオカミは」

「嘘でもなく今度こそジンを奪い返す」


 犬歯を鳴らしたオオカミ。

 それからむっつの視線に促されアリスは「お前! お前よ! わたし達の時間よ!」といつの間にか消えている懐中時計を呼んだ。

 刹那、アリス達の土台となっている壊れていたはずの巨大な柱時計が振動。

 止まっていた大気を大きく震わせた。

 柱時計から轟く音は‪三地刻‬魔蒸稼働都市で耳にした《オーバー》魔蒸機関スチームクロックにも劣らず、開幕を知らせる合図ブザーの如く鳴り響く。

 誰かがどこかで拍手をした気がした。

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