33 非常識と常識の境界線はどこ?

「ごめんなさい。誤解を解かなくてはいけませんわね」


 アリスは形の良い眉を落として申し訳なさそうに言った。


「わたし達はレッドスコーピオンを倒してはおりませんの」


 大切なことを伝えた刹那、白雪姫の毒殺を企む恐ろしい王妃を思い出させる険しさで陰っていたローランの顔が豆電球でも食べたかのように明るくなる。仏頂面が過熱されたバターのような早さでほぐれた。初めて見た時は感情表現が乏しい人物なのかと思ったが、彼の感情と表情筋はとても豊からしい。


「そ、そうよね! いくら転移者トラベラーでもレッドスコーピオンは」

「わたし達が倒したのは精霊ですわ」


 ローランが明るい顔付きのまま停止し、シャルルマーニュが噴き出した。

 二人の反応をそのままにアリスは可哀想なレッドスコーピオンを脳裏に思い返しながら祈るようにそっと続ける。


「自然災害ドライアドと呼ばれていた悪い子が、か弱いレッドスコーピオンを貪ったのです。わたし達は許せず……」


 アリスはポケットに両腕を突っ込み、中を漁るとそれを取り出した。

 小さな手に抱かれて掲げられたのは、頭蓋骨程度の大きさを有すただただ紅い、朱い、赤い――新鮮な臓物色をした結晶。

 赤薔薇の花嫁が絶命した際に生み出された遺物。


「首を刎ねてしまいました」


 自然災害ドライアドの魔核コアをてろりと頭上からの照明に輝かせ、アリスは二人に真実を伝えた。

 自分が真に手を下した相手を。

 自分が首を刈り取った相手を。

 自分が摘み取った赤い薔薇を。

 アリスは伝えた。


「……?」


 ふ、と。

 アリスは肌を撫でる張り詰めた空気に気が付いた。


「……なにか?」


 糖蜜を滴らせたように潤んでいる白銀の瞳が、ぱちくりぱちくり、と愛らしい瞬きを数回。

 誰も返事を返してくれない。

 時間の流れが止まっているのだとアリスはすぐに理解した。ので、手を叩く。


 パンッ!


 と、陶器よりも滑らかな手が甲高い破裂音を店内に響かせ、他の者の鼓膜を揺らすと同時に止まっていた時間を再生させた。


「なにか?」


 アリスは再度。

 無垢に問う。

 時間は動き出したものの、やはり二人はすぐに返事を返してくれなかった。

 一拍の後、シャルルマーニュが足音なくカウンターの内に戻る。無言で席につき、紅茶を啜り、眼鏡を薬指で押し直してから、咳払いをひとつ。

 咳払いに反応したローランが肩を落としながら大きな溜め息を吐く。焦燥を含んだ大きな大きな溜め息は外の世界に出られない人魚姫がつく溜め息以上に大きかった。

 二人の、特にローランの纏うそれが困惑だというのは即座に感じ取れたが、なぜここまで困惑するのかがアリスには分からなかった。

 確かにウッドペッカーがこの世界では自然災害と称される精霊の生み出す魔核コアは魔獣とは比べものにならない貴重な物だと言っていた。ゆえに迂闊に見せると狙われると注意されていたが、彼らは治安維持組織である教団の一員。しかもローランに関しては、アリスには聞き慣れない肩書きだがそれなりの地位だというのは明白。なので退魔師エクソシストである彼らになら見せても問題ないと判断し、あわよくば買い取ってくれないかと願ったのだが、予想外の妙な反応にアリスは少し困ってしまった。

 沈黙。

 遠くで機械音が呻く。


「ローラン」


 紅茶を一気に飲み干したシャルルマーニュが微笑む。


「仕事が減って良かったですね」


 空のティーカップとソーサーをカウンターの下から取り出した銀のトレーに片付けると、シャルルマーニュはトレーをローランに差し出した。


「内線。使うのならついでに」

「あ……」


 シャルルマーニュにトレーで軽く小突かれローランは糸を引っ張られたピノキオのようにハッと肩を跳ねさせた。そのせいで余計にトレーと身体が強く触れ、上に乗る茶器が音を立てた。ローランが慌てて、しかし慎重にトレーを受け取る。


医術研究室ヒーラーチームにも連絡をするのならどうぞ。詳しい話はオレが聞いておきますから……少し、禿げそうな頭を整理すれば?」

「あ、ありがとう先生」

「リンゴーン。真面目すぎる弟子を持つと苦労しますねえ。育毛剤を発注しなければ」


 皮肉げにシャルルマーニュは一笑を零すがローランはそれになにも返さなかった。ただ黙って、長い背を丸めてそそくさとカウンター後ろにある青い扉の奥へと消えていった。


「おや。存外きていますね。……つまらない」


 肩を竦めるシャルルマーニュ。


「……あの、わたし達……なにか、良くないことをしてしまいましたか?」

「ジリリー」


 シャルルマーニュはゆったりと椅子に体重をかけた。ギッ……と椅子がか細く鳴く。アリスも席に戻るようにと手で促された。

 戸惑いつつアリスはポケットにドライアドの魔核コアを戻し、それから高い椅子にひらりと飛び乗った。ローランが気になって青い扉に自然と意識が向いてしまう。

 青い扉は黙したまま。奥でローランがなにをしているのかは分からない。


「逆です」


 シャルルマーニュが言った。

 はっとアリスの目がシャルルマーニュに向く。


「お嬢さんはあれの仕事……いえ、教団の仕事を減らしてくれました」

「まあ! それは人様の役割を奪ったということですわよね? まったくもってなにもかも大丈夫ではありませんわ!」


 アリス達にとって役割にあった仕事をこなすことは大事なこと。

 知らなかったとは言え、他者の役目を取ったとなれば大変だと顔色悪く慌てるアリスにシャルルマーニュはくつくつと喉で笑った。


「ジリリー。死者が出る可能性のある仕事がなくなって喜ぶ者はいても、怒る者はいませんよ」

「死者が、出る?」

「はい」


 緩慢に頷きながらシャルルマーニュは「オレが現役なら後者ですが……」と双剣に視線を流しながら付け加える。


「ここ最近、禁忌領域ケイオスが騒がしくなっていまして、調査に教団は忙しくなっていたのですよ。レッドスコーピオンが境界線を越えて活動領域ホールまで侵入してきたり、ドライアドまで目撃情報が上がってあっちこっちにバタバタバタバタしていたところ……」


 青空の瞳がアリスまで落ちてきた。

「あ!」とアリスは声を上げる。「まさか……わたし達が出会ったレッドスコーピオンやドライアドは」

「リンゴーン。どちらも教団が討伐しようと躍起になっていた標的です」


 カウンターに両肘をつくとシャルルマーニュは突っ伏すように前屈みになってアリスへと顔を近付けた。


「あいつが零した異端審問官ジャッジメントというのは、精霊や悪魔憑きに特化した退魔師エクソシストです。上位魔獣や自然災害が動いているということで、連日異端審問官ジャッジメントは騒がしく動いていたのですよ。……で、今回悪魔憑きかもしれないというお嬢さんの話を聞いて」


 一度言葉を区切り、シャルルマーニュはアリスの背後に目線を移した。


「お気付きで?」

「ええ。ローランおじさまが来てすぐ。囲まれているとは思っていましたわ」


 声を顰めたシャルルマーニュに、アリスもカウンターに少し身を乗り出して囁く。

 ローランが店内に入ってくるとほぼ同時、店の周りに気配が増えた。彼らは身を潜めながらも店内を、正確にはアリスに強く注目してきた。しかも外に現れた者達は皆がローランと同じでなにかを己の内側に飼っている。ただ緊張感は含んだものの冷静で、殺意もないのでアリスは無視していた。


「いま外に配置されている奴らが、異端審問官ジャッジメントです。流石は転移者トラベラーですね。彼らは退魔師エクソシストの中でも精鋭。完全に気配は隠していると思うのですが……」

「とても隠れんぼがお上手な方々だとは思いますわ。けれど、いるものがいなくなることはありませんでしょう?」

「そうですが……やはりお嬢さんはよく分からない方ですね」


 アリスとシャルルマーニュはひそひそと言葉を交わして笑い合う。

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