閑話休題

梅花の宴

 天平二年正月十三日、このき季節に、大宰府だざいふ帥老そちろう――大伴おおともの多比等たびとおうの邸で梅花の宴が開かれた。

 穏やかな風がかぐわしい花々の香りを運んでくる。梅の白さと瑞々しい蘭草フジバカマの若葉の緑が目にも鮮やかな庭に、色とりどりのほうを来た官人たちが集って歌を披露する様は、さながら寧楽ならの都のようだった。



 その素晴らしく雅な空気を、はあっさりと打ち破る。



「世の中は常無きものと散る花も残るも同じ春の夜の夢」



 一見、花の儚さを詠んだような歌ではあるが、世の中は常に移り変わるものですから、散る花も残る花も結局同じですよ、というのである。

 つまり、「他人を蹴落としたところで、あなたの時代もすぐ移り変わりますよ」という穏やかならぬ解釈もできる歌に、一同は狼狽うろたえた。

「い、泉さま……」

 困惑した声が上がる。皆の披露した歌を書き留めていた男は、思わず手を止めて主催者――多比等の顔色をそれとなく窺う。さすがと言うべきか、老獪な多比等は落ち着き払っていた。にこにこと笑みを浮かべ、男に言った。

「おや、手が震えてうまく書けぬようじゃの」

「は」

 男は一瞬きょとんとしたが、この男とて魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする宮廷の末席に身を置く一人である。すぐに空気を察知し、気を取り直したように筆をしっかりと握り直した。



 彼――葛城泉かつらぎのいずみの歌は、書き留められることなく、歴史の闇に消えていく。



「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」

 多比等の披露した歌は、白い梅の花と、天から降る雪を重ねた美しい歌だった。その出来栄えは、皆が感嘆のため息を漏らす程だったが、内心でははらはらしていたに違いない。


 そんな人間たちの営みをよそに、梅の花はただただ今を盛りとばかりに咲き誇っていた。






 その日の夜更け、庭で飲み明かす者たちをよそに、泉は多比等の自室に呼び出されて説教をくらっていた。

「そなたという男は、何を言い出すかと思えば……早々に都へ戻るように、と勅命を受けておる身で、その振る舞いはいただけぬな」

「私は命など惜しくはないので」

 泉がふてぶてしく応じると、多比等は、ずい、と顔を近づけ少々ドスの効いた声で、


「そなたが惜しくなくとも、わしは惜しいのじゃ。わしが開いた、『去年哀しいことが起きたけれどもわしらは穏やかに梅を楽しんでますよ、謀反なんて企んでませんよ』の宴で、よりによってあからさまに死者を悼むなど言語道断!」


一息に言った。

「そんな趣旨の宴とはつゆ知らず、申し訳ないことをした」

「しらばっくれるな」

 泉はそしらぬ顔で、

「世の中は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち欠けしける」

と和歌をそらんじる。

 多比等の顔色が変わった。

「……」

「以前は多比等殿も堂々とあのような歌を詠まれていたではないか」

 世の中は空しいものだと伝えようとして、月は満ち欠けをするのだなあ、という、あっさりとした読みぶりだが、哀悼の意を表する歌と見れば、意味深長である。

「堂々とではない。そなた、どこぞへ漏らしてはおるまいな?」

 多比等は渋面を作る。

「無論」

 泉はすかさず言った。

「しかし今日の落梅の歌くらいであれば、書き留めて残しても糾弾はされぬであろう……さすがに多比等殿は策士だな」

「そなたとて人のことは言えんだろう。永屋王が絡むと少々周りが見えなくなるきらいはあるが」

 確かに表現の露骨さには大きな差があった。しかし同じく「散る梅」を詠んだ二人である。そのこころざし、追悼の念は同質のものだっただろう。

 泉は薄く笑みを浮かべたが、その笑みは幾分自嘲的であった。

「多比等殿にもいずれは都にとの話が来るであろう。太上天皇おおきみかどはむしろあなたをこそお望みであろうし」

 太上天皇、と口にする時の泉のやさしげな眼差しに、多比等はいつも胸がつまって仕方がない。思わず多比等は呟いた。

「太上天皇は、そなたのせいで永屋王が死んだなどとは思うておらぬ」

「多比等殿にあの方の御心がわかるのですか」

「わからぬ。わからぬが……日高ひだかのひめみこさまならば、あの明るく照り映えるようなお方ならば……そなたを」




 赦しませぬ。


 わたくしは、わたくしを赦すことはできませぬ。


 永屋王家を守り切ることができなかったわたくしを! 彼らもわたくしを赦しはしないでしょう。


 あの日。明朗快活な、という言葉が誰よりもふさわしい太上天皇の、いつになく孤独な言動に、泉の心は揺さぶられた。

 自然と一歩距離を詰めた泉から、彼女は一歩後ずさった。彼女は泉の目を見ずに、ただ首を横に振った。


 ならば私も、私を赦さずに生きていくだけです、


 その、暖かい思い出に満ちた懐かしい響きでさえ、今の彼女が抱える闇を薙ぎ払うことはできなかった。




「――畏れ多いことです」

 永屋王家の人々にも太上天皇にも、赦されようとも思わないし、赦されたとて自分は自分を責めるより他にない。

 永屋王の呪詛疑惑などでっち上げであった、と世間の人々も知っている。だが、敵に根拠を与えてしまった一因は間違いなく、陰陽道に詳しい泉を友としていたことだ。

 多比等と共に都から遠ざけられていた泉ではあるが、事実、永屋王の最期の直前まで行き来はあった。

 そんな泉の深い自責の念を汲み取り、多比等も言葉を失う。

「……」

 

 どう、と風が吹き、庭の梅があえなく振り落とされる。はらはらと散り急ぐ梅の、香だけが室内に流れ込み、鼻腔をくすぐった。

「失礼」

 泉はそのまま出て行った。


 多比等は庭の喧騒に耳を傾ける。



「散る花も残るも同じ、か……まことに、のう」


 ならばせめて、残っている間くらいは、楽しまねばならぬ。


 今宵は独りで飲もう、と多比等翁は酒とさかずきを取り出した。





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