春にして君と出会い

 過ぎ去った季節は、年を追うごとに美しく輝きを増す。


 本当はきっと良いことも悪いこともほぼひとしくあったのだろうが、思い出せる光景は、どれも幸福なひと時の記憶として彼の傷を撫でる。傷痕ではない、今も血が滲み続ける切り傷は心に深く刻みつけられ、片時も彼を赦してはくれない。



 幼いながら、泉は「彼ら」が特別な子供たちであることを理解していた。


 匂い立つ紅梅のように華やかで、しかしどこか可愛らしく少女のような、日高。


 白梅のように凛として、いとけない年の頃から冴えた美貌の片鱗へんりんを覗かせていた妹、吉美きび


 二人の美しいひめに隠れるようにしていた少年、迦琉かるは日高の三歳下であったが、その後二十代半ばで世を去った。


 そして彼らの従兄弟、永屋は、精悍な顔立ちと溢れる才気で存在感を放っていた。


 子供たち、といっても泉が彼らに出会った頃、彼らは既に大人になりつつあった――日高二十三歳、吉美十八歳、永屋二十歳の時であり、泉はまだ十歳の誕生日を迎えたばかりであった。

 永屋はこの年、正四位上しょうしいのじょうの位階を授けられたのだった。高貴な出自の者は、最初から高い位階を与えられるのが常ではあったが、永屋はそういった者たちの中でも特に優遇されていた。


 一方、当時の葛城氏はといえば、遥か昔に遡れば皇族の血を引いているが、権力の座からは程遠い一氏族である。泉は当主の次男で、葛城氏の頂点にすら立つ見込みのない存在であった。そんな泉が彼らと関わることになったのは、彼が幼くして比類なき学才と、医術、陰陽術への興味を示した神童であったからに他ならない。

 父親は泉を大学寮、典薬寮てんやくりょうそして陰陽寮の学生に立ち混じらせ、講義を受けさせた。どこかの寮の専属にするには惜しい人材であった。


 ある春の日、病弱な迦琉を内薬司ないやくし――当時、典薬寮の医師くすしが治療対象としたのは官人たちで、天皇と皇族は内薬司の管轄であった――の医師が診察しに行くというので、泉もついていくことになった。内薬司は典薬寮と関わりが深く、この医師はやたらと泉を買っていた。


「今日はお顔色も良いようだったな」

 診察が済み、板張りの床を歩きながら、内薬司の医師は上機嫌で言った。泉はこくりと頷いた。

 華やかな宮中にはもはや慣れっこになっていた泉であったが、帝の居所に入るのは初めてだ。

「何だ、まだ緊張しているのか?」

 泉はぶんぶんと首を横に振った。

「ほお?」

 医師は口の端を釣り上げる。いつになく子供らしい顔をするものだなあ、と医師は笑いを堪えながら言った。泉は悔しくなって唇を引き結ぶ。


 そこに、ころころと丸いものが転がってきた。


「……毬?」


 蹴鞠に使う鞠より小ぶりな毬だ。なぜこんなところに。

「あっ、ひめみこさま、なりませぬ!」

 女の甲高い声が聞こえたかと思うと、少し離れた衝立の後ろから人が飛び出してきた。


 その光景を、泉は今もはっきりと覚えている。


 泉は息を飲んだ。


 毬を追って豊かな黒髪をわずかに乱し、頬を上気させた、しかし美少女というにはろうたけた妖艶な姿に、目を見開いたまま固まってしまう。


 ……まるで、天女ではないか――そう思った瞬間、泉は毬を拾い上げ、脱兎のごとく逃げ出した。


「おい!」


 医師が抗議の声を上げたが、構っていられない。


 泉は庭にまろび出たが、何せ宮廷の庭である。十歳の子供にはあまりに広く、走り回っているうちに、自分がどこから来たのかわからなくなってしまった。



「そこで何をしている」


 背後から咎めるような声を投げかけられ、彼は肩を竦めた。





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