ハイテンション過ぎてついていけない昭和「明殺」事件ものがたり
@okazaki-kouki
第1話 犯行
恋人に「一緒に死のう」と言われたことはあるだろうか。あったところで人生なんの足しにもならないが、もし言われれば、大抵の人は困惑するだろう。私自身、毎日生の喜びを噛み締めたり、生きとし生けるものはその姿こそ美しいなどと感じたことすらないが、そうだった。
まず、漠然と概ね七十歳くらいは生きて迎えるか怪しい、といった程度の死への自覚はあるが、今日現在ここであの世に逝くことは、まったく念頭にない。
それに第一、埋めがたい「温度の差」が存在する。
ここはうらぶれた山奥の二人の他に宿泊客もない温泉旅館。外からは冬の透き通った月明かりが障子越しに畳を照らし、長い影をつくる。先方としては、これまで内心に様々な葛藤を秘め、舞台も整い、満を持しての「死のう」であることはなんとなく理解した。
しかし当方としては、夕食は山の珍味と地酒を堪能し、露天風呂にまで四合瓶を持ち込んで雪見酒ときめこみ、「ああ極楽極楽」とばかりに布団へひっくり返っているときの「死のう」であるから、ムードもクソもあったものではない。死にたい死にたくない、という話題そのものが不適切である。
「いいから寝ろよ」が本音ではあるが、なにせ先方は太宰治の小説にでも入り込んだ気分になっているので、そう簡単に引き下がらず、また、こちらが先方の頭の中の台本どおりに動かないのでイライラしているようで、いつ実力行使に出ないとも限らない空気が漂う。
どうも卑近な話から始まってしまったが、歴史的な事件もそうである。一方が大真面目に思い詰めていればいるほど、もう一方との「温度差」は免れない。
史料や証言というものは人に「読まれる」ことを前提にしているので、ドラマティックに話や描写を「盛る」ものであり、そういった意味で、純然たる「ノンフィクション」は存在するか怪しい。本稿は、ある程度史料にもとづいてはいるが、筆者による「いやまあ、色々言われているが、こんなものだろう」といった「ものがたり」として読んでいただければ幸いである。
明治神宮本殿前に、一人の陸軍中佐が雲の切れ間より八月の湿気でややボンヤリとした顔をのぞかせる月明かりを浴びながら、軍帽を右手に持ち、深々と四十五度の最敬礼をしている。
浅黒く四角い顔のこの男は、憲兵隊の人定調書によると、相沢三郎四十七歳、本籍地仙台市、出生地福島県白河町、住所広島県福山市、陸軍中佐、前科はない。
夜のこととて他に詣でるものもなく、ただ独り、じっと、いや、時折明治生まれには珍しく、五尺八寸、百七十センチメートルは優にある長身を震わせながら、頭を垂れ続けていたが、やがて小さくも腹の底から絞り出すかのような声でうめいた。
「明治大帝の御霊、自分の考えに誤りがなければ、天誅を下し給え……我にその力を与え給え……」
言い終えると最敬礼のままさらに首を深く下げ、暫くしてから顔を上げた。何か大切なものをもらったかのような晴れがましい顔は、涙をためた目だけが月光を浴びて光っている。
この翌日、正確に言えば昭和十年八月十二日、陸軍省軍務局長永田鉄山少将は新見東京憲兵隊長より、どうやら蘇我入鹿を中臣鎌足がぶち殺した大化の改新になぞらえたらしい、「昭和の入鹿を討て」だのといった物騒極まる「粛軍に関する意見書」なる文書の解説を聞きながら、少し前に来た「招かざる客」を思い出していた。
陸軍部内の一部から人気が高く、豪傑を気取りつつも政治的な「生臭さ」の強い真崎教育総監が解任された数日後、軍務局長室に一人の陸軍中佐が永田を訪ねた。
なお、「軍務局長」というのは、トートロジーに近い解説を加えると、中央官庁の局長である。東大法学部を卒業し、今で言う国家公務員試験総合職に合格し、まずまずうまく出世を重ねること三十年、ついにたどりついたぞという程度の役職である。民間企業で言えば、誰でも知っている大企業の役員、といったところだろうか。
一方の来客といえば、階級こそ二つしか違わぬ中佐ではあるが、連隊附といえば、まあ出先機関の課長補佐くらいのものであろう。死者の課長補佐だかが本社の役員室にやってきたのだから、常識的に考えると永田としては私的なつながりのあるものの関係かと考えたが、どうやらさにあらず。
(何の用だろうか)
永田が訝しんでいると、相澤は直立不動の姿勢をとり、やけに改まった口調で話し始めた。
「学科、ズブンは、ホンズツ、陸軍ダイズンならびに軍務局長学科に、ズショクを勧告にやって、参りますた。ズブンは、ただそれだけを、それだげを目的とすて、福山から出で来だのであります」
このように書くと怒られそうだが、実際のところこんな調子だったのだから仕方がない。
永田は訥々とした語り口と訛りに気が取られそうになったが、趣旨としては「お前辞めろ」という話であり、穏やかではない。少し混乱しながらも、努めて冷静な口調で座をすすめると、相澤は案外おとなしく席についたので、永田も少し安心した。
「なぜ私と陸軍大臣が辞職せねばならないのですか」
当たり前の質問であるが、相澤は待っていましたとばかりに勢い込む。なお、以降相澤の台詞は読みやすさの意味から、原則として標準語翻訳版とする。
「皇軍の現状は、実に憂うべきであります。天皇機関説はけしからんのであります。軍務局は政府と結託して、日本の国体は尊皇絶対である、このようにしっかり農民に教えてやっていないのであります。日清戦争のとき、明治大帝は天皇絶対の思想を説かれました……」
――わからない。が、一つだけ確かなのは、相澤が極めて真面目なことである。世の中これほど怖いことはない。
このときは適当な返事をして追い返したが、そうそうこのような珍客に目をつけられては困る。
永田がボンヤリとそんなことを考えていると、軍務局長室のドアが案内も乞わずひとりでに開いた。入ってきたのは、幽霊ならぬ正しくその相澤である。
ただでさえ人相の良くない逆三白眼が完全に座っており、右手には抜身の軍刀を引っさげている。おそらくこんなに怖い幽霊はいない。
永田が反射的に腰を浮かせた瞬間、
「ナガダ、天誅!」
相澤が叫びながら軍刀を振り下ろし、永田は身を昼害しながらも右肩をまともに後ろから斬りつけられた。痛いのかわからないまま、とにかく難を逃れようとの一心で隣の課員室へのドアの取手へ手を伸ばそうとすると、軍刀の切っ先が自身を貫き、ドアへ突き刺さるのを見た。
(検挙へ続く。相澤はここからが本番である)
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