第7話 エリート会社員と少女の目

『ごめんなさい』

 その言葉で、春がもう一度未来を育てることは無いだろうと分かった。未来のことは愛してはいる。だが、夫と未来を天秤にかけた末、夫が勝ったのだろう。この家族について分かったところで、幸太は改めて言った。

「俺は、ただ近くを通りすがっただけの男で、未来ちゃんとは全く関係がありません。ですが、この短い間であの子がどれだけ優しい子なのかは理解したつもりです。改めて、あの子を養子として引き受けさせてもらえないでしょうか?」

 ほんの僅かな沈黙の後、春はその細い腕と小さな手で、幸太の手を握った。

「私の力不足と、判断の鈍さが招いた事です。あの子には本当に悪い事をしたと、重々理解しています。ですが、今の夫と別れ、あの子とまた2人で暮らせると言えるほど、私は自分に自信がありません...。佐久間...幸太さん。あの子をお願いします」

「俺が引き取ると言っても、あの子の本当の親はあなたしかいません。これは、揺るぎない事実です。一緒には暮らせなくとも、会う事ならできますよね?成長していくあの子を、一緒の家にはいなくても、見守っていて下さい」

「あと...」と、幸太は続けて言った。

「見た通り、まだ若い男なので、わからない事がありすぎます。その時は、是非力を貸して貰えるとありがたいです」

 ずっと下ばかり向いていた春が、この時に始めて幸太と目が合った。そして、その瞬間、目から涙が溢れ出した。

「....はい。ですが、私があの子に会う事は出来ません。してはいけません」

「お互いに会いたいと思っていてもですか?」

 春はゆっくりと頷いた。

 幸太には、この感情が理解できなかった。お互いに会いたいと思っているのに何故会わないのか。会えない訳では無いのに。

「...羨ましい話ですね」

 幸太が1人で呟いたその言葉は春には聞こえなかった様だった。

「では、今後のことも考えて、連絡先だけ教えていただいてもよろしいですか?」

「分かりました」

 そう言って春は、鞄から携帯を取り出した。その画面には、顔に土をつけたまま笑顔でピースをしている未来が写っている。

 それを見たからか、春はまた涙を流した。



 幸太は春と別れてから、そのまま病院に向かった。苗字が不明だったという事で、仮で『佐久間未来』となっている病室に入ると、ベッドの上で座っていた未来が、こちらを向いて笑った。

「お兄さん!こんにちは!」

 ここ数日たっぷり寝たおかげか、未来は出会った頃よりも明らかに元気になっていた。これがこの子の本当の姿だと思うと、少し胸が痛くなった。

「こんにちは」

 相変わらず笑う事が出来ない幸太は、周りから見たら犯罪を犯している様に見えるであろうその顔で、出来るだけ優しく言った。

「...」

 未来はその顔をジーっと見つめた。

「どうしたの?」

「大丈夫だよ。いっぱい寝たから。この前は疲れてただけだから」

 この子の真っ直ぐな目には、全てを見透かされていそうだ。幸太はその目に負けて、少しだけ下を向いた。

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