第2話
暑い。
蝉がうるさい。
いや、蝉じゃない。周りの人間がうるさいのか。
もっと静かにして欲しいな。
でもこんなにうるさいのになんだか眠気が襲ってくる。
目蓋がどんどん重くなっていく。
眠るのだったら楽しくて素敵な夢が見れるといいな。
あぁ、やっぱり熱い。
俺は倒れた彼女のために急いで自動販売機に水を買いに行き、屋上まで戻ってきたところだった。
「…ぅぁ、あれここは?」
少女がゆっくりと目蓋を上げたことに気づいた。
「お、もう起きてたのか。」
「あれ、私…どうして。」
先ほどまで眠っていた彼女は突然の目覚めに戸惑っている様子で、
目を泳がせながら今までの記憶を振り返っているようだ。
「えーと、俺の前で急に倒れたんだよきみ。保健室まで連れていければ良かったんだけど、女の子でも意識がない人を運ぶのはきつかったし、今日は保険室に先生いないらしいからさ。とりあえず日陰までは運んだんだけど。あ、あとこれどうぞ。」
簡単に状況だけ説明し、手に持っていた水を彼女に手渡した。
ちなみに彼女を運べなかったのは本当だが、それは女の子にどう触れればいいか戸惑ってしまったことも原因の一つであることは彼女には言えない。ごめん、ちょっと引きずる形になったから制服が汚れていると思う。
「そっか、ありがとう。」
彼女はお礼を言い、俺から受け取った水をごくごくと勢いよく飲み込む。単純に喉が渇いているのだろうが、その飲みっぷりの良さはそういった飲料のテレビCMのような爽やかさがあった。
「あれ?でも、そもそもなんで私倒れたんだっけ?」
まあ、そう思うよね。俺は彼女が倒れる直前の状況をあえて説明していない。あんな恥ずかしい記憶を思い出してもらいたくないし、俺だってそれは気まずくなるからやめて欲しい。
「あ。」
なんだか嫌なことを思い出したような声が聞こえた。
「ああぁぁ、ううぅぅ、あわあわあわ。誰もいないと思ってたから…」
あーこれは完全に思い出してるよね。慌ててあわあわ言っている人なんて初めて見たし、表情がころころ変わって忙しいな。いや、そんなことよりタイミングが悪かっただけであってもとりあえずは謝るべきかな。
「あーいや、ほんと申し訳ない。俺も人がいないと思って気分転換に来ただけなんだけど。でも、すごくきれいな声だと思ったし歌も上手いよね。」
「うぅぅ、ありがとうぅぅぅ、でもぉぉ。」
どうやら複雑な感情らしい。恥ずかしいのやら嬉しいのやらで不思議な返答をしていることがとても伝わってくる。
「いやでも、恥ずかしがっちゃだめだよね。こんなのじゃ人前でなんてできっこないし。」
彼女はなにやらぼそっと言ったが、人前で披露する予定があるらしい。
「カラオケ大会か何かに出場でもするのか?それで歌ってたとか。」
「あ、いやそういうわけじゃなくて、自分の歌をいろんな人に聞いてもらいたいんだ。私歌うの好きだし、どうせなら誰かのために歌いたいじゃん。」
「へえそれはすごいな。歌手志望みたいなものか。」
こんな年からやりたいことがあるのは素直にすごいと思う。それに彼女の歌声は本当にきれいだと思ったし、遠すぎる夢でもないのではなかろうか。まあ、才能ってやつなのかもしれないな。
「それにしたってぶっ倒れるまで歌ってるなんて無茶しすぎじゃないか。」
「いやぁ、歌えるのが楽しくってつい時間を忘れちゃってね。でも夏休みだし、人が来るとは思ってなかったけど。」
「まあまあそれはね…。ところできみって3年だよな。見覚えがないんだけど俺とは別のクラス?」
そういえば初めに見たときに疑問に感じていた。こんな小さな学校でまったく見覚えがないことは珍しいのだ。
「え、えーと、私転入してきたばかりなんだ。日向(ひなた)です。覚えてないかな。」
転入生…か。
あ、確かに3年になって転入してきた珍しい人がいた気がする。
「今思い出したよ。でも申し訳ないけど顔まで覚えてなかったな。」
「まあそれはしょうがないよね。でも私はあなたのこと知ってるよ。」
え、どういうことだ?なんで彼女が俺のことを一方的に知っているんだ。
「佐藤くん。なんか変な出会いだけどこれも何かの縁だよね、よろしく。」
日向はとびっきりの爽やかな笑顔で俺に出会いの挨拶をしてくれている。人から逃げるようにこの屋上にやってきたのに、こんな変な出会いがあるとは人生わからないものだ。でも不思議と彼女との出会いは不快には感じられず、むしろ惹かれるものがあった。のだが、
「いや違うんだけど。」
「ん?何が?」
「いや自信満々に言ったけど。俺は佐藤ではないのだけど。」
彼女いや日向はなんで?みたいな顔で俺を見ているのだが、逆になんでそんな自信しかないのかこちらが不思議でしょうがない。
「あ、あっれー?あなたに似ている佐藤さんがいるから間違っちゃった…かなー」
理由がなんか苦しくない?あとそこで一番多い苗字を出してくるあたり当てずっぽうにもほどがある。
「~~~これにてご免!あ、お水ありがとね!」
日向は逃げるようにいや本当に逃げていってしまった。忙しい子だったな。
次の日。
学校に来た俺はまたあの歌声が聞こえてくることに気づいた。どうやら日向は今日も懲りずに屋上で歌っているようだ。
「昨日みたいに倒れなきゃいいけどなあ」
ガコン。気づいたら俺は自動販売機で2人分の水を買っていた。
そしてそこに行くことが当たり前かのように屋上に向かい扉に手をかけた。
「――――――――――――」
太陽が高い夏の空の下で日向は歌っていた。その眩しさは夏のせいなのか彼女がそうさせるのかわからないが、眩しすぎて彼女がはっきりと見えない。
しかし聴こえる彼女の歌声はやはりきれいだと素直に感じる。それに流行りの曲ではないがなんだか耳になじむメロディーだ。彼女がこの歌を楽しんで歌っていることが声だけでも伝わってくる。そんな彼女の歌に聴き入っていると
「うわっ!びっくりさせないでよ。昨日の光景思い出しちゃったじゃん。もう!一言声ぐらいかけてよね佐藤くん。」
「いや、ごめん。ちょっと聴き入っちゃって。あと俺は佐藤ではないって。」
日向は俺が差し入れに持ってきた水を受け取りながら、「そうだったね、ごめんごめん」とすぐさま水を勢いよく飲み始める。本当に覚えているのか、この子は。俺のことを水配給係の佐藤として記憶しているのではなかろうか。
「ところで佐藤くんはなんでまたここにいるの?暇なの?」
「ごめん」から5秒で名前を間違えるだけでなく失礼をさらに重ねる発言だった。もうこういう子なんだなと割り切れる大人なのだ、俺は。ここはあえて冷静にスルーした。
「歌声がまた聞こえたもんで。また無茶して倒れるんじゃないかとちょっと様子を見にきたんだよ。」
「なるほどね。でもそれだったら声はかけてよね。またいつのまにか歌を聴かれてたら恥ずかしいんだから。」
様子を見に来たというのも間違いではないが、歌を聴きたくてきてしまっているのが本音ではないかと自分の中で問いかける。実際聴き入ってしまっていたし、まったく否定はできない。
「ごめん、でも聴き入っていたのは本当で、なんかきみの歌を聴いてると安心できるというか。前向きだけど焦らなくてもいいと思わせてくるような…って恥ずかしいな忘れてくれ。」
なんだか変な気分になってしまっている。俺は疲れているのだろうか。
「そっか、なんかありがとう。私の歌で感情を動かしてくれた人がいるだけで嬉しいよ。お、お客さん第1号だね…。」
日向は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに照れ笑いしながらそんなことを言った。こっちまで恥ずかしくなってしまってお互いに黙ってしまう。気まずい…
そんな静寂を切り開くように日向が声を上げた。
「あ、そうだ。佐藤くん、お客さん第1号として私の歌を聴いてくれない?」
「もう聴いていると思うけど。」
「そうじゃなくて、今までは不意打ちだったでしょ。私まだ人前で歌うのは苦手だから、正々堂々、真正面から私の歌を聴いて私が人前で歌えるように練習に付き合ってほしいの。」
日向からの急な提案だった。確かに荒療治かもしれないが、人前で歌うのが苦手ならば経験で克服するのは手っ取り早いだろう。でも俺は…
「いや、俺受験生だし。勉強しに学校に来てるから、そんな時間は…」
「でも、屋上に来てるじゃん。勉強してるの?」
それは確かに…。図星すぎて返す言葉もない。
「それに本当に勉強やりたい?私はあんまり好きじゃないけどな、歌は飽きないからいいんだよね。」
「俺だって別に好きなわけじゃない。でも俺はやるべきだと思うからやってるんだ。良い大学に行ったほうが将来的に選択肢が広がるし、高校とは比べ物にならない人やものとの出会いもある。そうすれば、いつか本当にやりたいことだって見つかるはず。」
俺は何を言っているんだ。良い大学なんて興味もないし、友達100人作りたいなんていうアクティブな人間でもないくせに。でもそんな自分を変えたいと思う自分がいないわけじゃない。もっとも変えたいなら今すぐにでも行動に移すべきところを踏み込むのが恐いと感じてしまう自分がいることも分かっているのだが。そもそもやりたいことだけやるやつは才能のあるやつだ。才能があってうまくできるから没頭できる。できないことは楽しくないからやめてしまうのが凡人だ。俺だって昔からやりたいことはあった。自慢ではないが大抵のことはすぐにうまくできてしまっていて、コツを掴むのが上手かったのだと思う。しかしいつも壁にぶつかる。そこでできないことを悟りいつの間にかやめてしまうのが俺の人生だ。そして日向は才能のある側の人間なんだろう。
「本当にやりたいことね…じゃあ今本当に好きでやりたいことはないの?」
「ないよ。そんなものがあるやつの方が少ないと思うけど。」
「じゃあやっぱり私の歌を聴くのに付き合ってよ。」
「いや、意味わからないから。」
本当に意味のわからないことを言っている。やっぱり彼女は人の話を全然聞いてないのではないか。
「だってあなたは少なくとも私の歌には心を動かしてくれた。それって好きみたいなものだよね。」
まあ否定はしない。彼女の歌声は素直にきれいだと思うし、歌だってすごく上手い。それに惹かれる部分があることも嘘じゃない。でも、だからなんだというのだ。
「それにあなたは大学に行けば出会いがあると言った。でも今だってその出会いの一つだと思わない?先ばかり見なくても今そういう出会いがあるじゃん。」
「ま、まあ…それで?」
「人生はいつ急に終わるかも分からない。だったら好きなことをできるときにやったほうがいいし、少しでも私の歌が好きだと思ってくれてやりたいことがないならそれに付き合ってみるのも悪くないと思わない?無駄な時間にはさせない…つもり。」
なんだか語るのが好きなオヤジみたいだな。よく年下に今のうちにやっとけみたいなことを言う人がいるが、あんなのもう過ぎたことだから言えるのだ。オヤジにとっての過去は若者にとって今だ。未来なんて他人事みたいなものだ。だから先のために今を変えようという気もないし、やはり一歩踏み出すのは恐ろしいのだ。将来のためだとか言ったけど、俺だってそんなに未来を見据えてはいない。でも…
「悪くはない…か。少しなら付き合ってもいいかな…」
そう思わせてくれる不思議な説得力と活き活きとした笑顔が彼女にはあった。俺だって好きなことができたら楽しいと思う。でも壁があることをもう知っている。未知が恐いことも知っている。でもそれをモノともしない彼女と居れば何か変えられると少しどこかで期待しているのかもしれない。
「良かった~~。苦手を無理やり克服しようっていうんだから嫌なのに頑張らなきゃって思って変な汗かいちゃったよ。」
「そうなんだ。ところで今更だけど本当に俺でいいのか?そもそもこんなところで歌ってるなら俺と同じように見に来る人がいてもおかしくないと思うんだけど。」
「歌い始めたのは夏休みからだし、人が少なかったのかも。それに夏は楽しいことがいっぱいで忙しいからね。人にかまってる余裕なんてないよ。佐藤くんは私の歌をす、好きと言ってくれてるし、それに2日連続で来てるしね。」
そうなんだろうか。それじゃまるで俺が夏休みなのにわざわざ人にかまっているほど暇なやつと言われている気がする。
「あ、でもあの人はたまに来てたよ。えーと、そうそう数学の夏目先生。」
「はあ?夏目?」
嫌な名前を聞いた。わざわざ屋上まで生徒の歌を聴きに来るとか暇なのかあいつは。というか屋上とか危ないから注意する立場なんじゃないか。
「いつも来るときは水持ってきてくれるんだよね。なんか佐藤君みたいだね。」
「やめてくれ。ていうか俺はやっぱり水配給係とでも思われていたのか。」
「そんなことないよ。でも明日も水よろしくね!」
「ちゃっかり要求してるじゃないか。まあいいや、チケット代みたいなものだと思えば、じゃあ明日からよろしく。」
こうして明日からの夏の習慣が一つ増えてしまった。しかしこれには子どもの頃に感じたことがある何かが始まったという少しばかりの高揚感を思い出してしまっていた。こぼれそうな笑みを隠すように汗をぬぐった。
夏の陽気のせいかもしれない…
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