第16話 人を傷つけるということ
「で……一体何をすればそんな風にボロボロになれるのだ」
「ん、ちょっと待って。もうすぐ写し終わるから」
放課後。
カフェオレに口をつける僕に問うのは、言わずもがな我が友人の鉄ちゃん。
一週間も学校を休んでいては、授業の内容も分からない部分が増えてくる。仕方がないので鉄ちゃんと龍馬にノートを借り、必要である部分を写させてもらっている最中である。しかし怪我をした身体ではたかがノートを写すだけでもしんどい。
確かに、先日の件で僕はかなりの傷を負っていた。全身打撲だの脱臼だの、あと骨折だの色々と言われたのだが、あまりに多過ぎたため覚えるのをやめた。とりあえず無理をしないでくださいという、お医者さんからのそのワードだけはシッカリと心に焼き付けて入るのだが。
とりあえずこうやってわざわざボロボロの身体に鞭打って右手を動かし続けている訳なのだが。
「あ~ボコボコのグチャグチャだなぁ~。あ、何か良いの浮かんできた」
結構ショッキングな絵面だなと呟きながら、龍馬は抱え込んでいたギターで何やらメロディーを奏で始めた。
この食いしん坊、実は両親ともに音楽家らしい。
龍馬自身もその才能を受け継いでいるらしく、放課後三人になるとギターを片手に何やら作曲をしているようだった。
いや、それにしても僕の怪我をした顔を見て思い浮かぶ物って。僕、泣いちゃいそうなんですけど。
「ーーッと。いやね……まぁ色々あるわけですよ。男の子ですから」
苦笑いを浮かべながら、とにかく話の流れを変えるべくあれこれと考えてみるのだが、なかなか思い浮かぶものでもなく、席に残った鉄ちゃんと僕の間には気まずい沈黙が流れた。
そんな沈黙か、僕の不甲斐なさに耐えかねてか。鉄ちゃんは真剣な瞳を僕に向ける。
「なるほど。言うことが出来ないと」
そう。コイツが真剣な瞳を見せる時は危ない。
危ないというか、色々まずい。
「ならば勝手に推測するしかあるまい!」
こんなこと言いだすから危ないというよりは、すごく面倒臭いことになってしまうのだ。
彼はブツブツと呟き、そして時折重要だと思われるワードをメモしている。この集中力をもう少し他の事に活用出来ないのかと内心ツッコミを入れる。
そしておそらく今日一番良い笑顔を浮かべてこう言い放った。
「なるほど! カぁさんはトぉさんと喧嘩するだけでは飽き足らず、他所でも女と喧嘩しましたよと。そう言うわけだな?」
「いやいや、もう話が明後日の方向に飛んで行っちゃってるから! てかカぁさんって呼ぶのやめてくれない? それに何度も言ってるけど、戸田にも怒られるよ?」
もう鉄ちゃんの勢いにはついていけない。というか僕のツッコミもツッコミになっていないし、折角ボケてくれているのに面白くツッコミ出来ていないという、ある意味二重のダメージが僕に見舞われる。
コイツ、本当は分かってやっているのではないかとたまに疑ってしまう。
「と、とにかくさ、今回の件はこれで水に流して……」
再度話を変えようと、あれこれ考えてみる。学食のお姉さんたちの話とかどうだろうか。
しかしそれも鉄ちゃんにはお見通しだった。
「何をいうのだ! そもそも戸田の一件でお前はこちらに借りがあることを忘れてしまっているようだな。お前が我々を見付けた時のあの安堵の表情、忘れたとは言わせんぞ!」
ドンと机を叩き、いかにも怒っていますのアピールをしながら、鉄ちゃんはこちらを指さし、スラスラと言い放った。
うん。多分用意してたよ。この人、このセリフ言うタイミングを窺ってたよ。
それを示すように、彼の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
まさに、今日の仕事は終わったと言わんばかりの清々しい表情で。
「た、確かに。本当にすまんかった!」
しかしここは流れを断ち切る。
素直に謝罪の言葉を述べ、次の話題に移ろうと言葉を探す。
何時もここで鉄ちゃんのペースに乗せられてしまうから、貧乏くじを引く羽目になるのだ。とりあえず、さっきスルーされた学食のお姉さんたちの話題でいいだろう。
腫れた顔を擦りながら話を流すため口を開こうとした時、アイツが口を開いた。
僕の調子を狂わせるもう一人の友人が。
「あ~アレなぁ。トぉさんってば女の子とは思えないほど力強いから、止めるのに苦労したよな~」
ギターのバッキングに口笛でメロディーをつけていたはずの龍馬は、ふと思い出したようにそう呟いた。
普段は素っ頓狂なセリフばかり口にするくせに、こう言う時に限って真面目に会話に参加してくる。
本当にこいつは怖い奴だ。
「おい、龍馬……お前まで悪乗りすんなよ」
溜息をつきながら龍馬に注意するのだが、とぼけた顔をしながら彼は首を傾げる。
僕たち二人のやり取りを見て、あぁと一言。何かを思い出したよう掌を合わせる。
「いやいや。戸田のあだ名の件については、しっかり許可をもらって使ってるからな」
「こないだからすごく仲良しになったんだもんな~」
「……ま、マジですか?」
予想外だよ。戸田と二人は簡単な会話する関係というのは知ってたけど、まさか数日でそんなに仲良くなっていたとは。
戸田もだけど、トぉさんってあだ名、良く許可したよな。
「でも、停学とかならなくて良かったな。どうやったのか、また教えてくれ」
きっと僕の怪我の事を言っているのだろう。
まぁ学校への説明は長さんが軽く済ませてくれたらしいので、そこは気にしなくても大丈夫なんだろう。
言うまでもなく鉄ちゃんや龍馬、他の人にも『くみあい』の事は口に出来ない。
要らぬ心配をかけてしまうだけということは既に分かっているし、何より関係ない人を巻き込んでしまったらと考えるだけで気が気でない。
「それは……秘密ってことで」
口にするのはいつものような言い訳。
普段ならばこれで話を流せるのだが、今回ばかりは鉄ちゃんの眼はそれを許そうとはしていない。これで龍馬まで鉄ちゃんにのってしまうと、
「あ〜違う。ここは細かく刻んで……」
と、全くそんな心配をする必要もなかった。
相変わらずのとぼけた表情で、でも真剣に机の上に置いた五線譜に後を残していく。
全くとぼけているのか鋭いのか、本当に分からない奴だ。
それでも、何時も救われているというのは、変わらないんだけど。
「でもな、本当に心配したんだ……こんな怪我してくるなんて、今までなかっただろう」
「そうだな。ちょっとキャラ忘れて取り乱しかけたんだな」
うん。ホントいい奴らだ。なんかキャラがどうとかいう声が聞こえてきたのだが、今はスルーしておこう。
腰かけていた椅子に改めて座り直し、二人の表情を正面から見る。
無愛想な表情、とぼけた顔。傍目から見ればあまり友人には選びたく人種なのかもしれないけど、コイツらが本当に友達で良かったと僕は思う。
だから日ごろの感謝をこめて、いつものように言葉を送ろう。
「ホント、ありがとうな」
「まぁ友達だからな」
「そうだな~からあげ友達!」
「いや、からあげは関係ないでしょ?」
ワイワイと三人で他愛のないやり取りを繰り返す。
三人馬鹿話を、そして時には龍馬のギターにのせてみんなで歌っていると、廊下を通った教員から煩いとお叱りの言葉を受け、帰宅するように促された。
ちょうど今から他の人と約束があったので、ちょうど良いと言えば、ちょうど良かったのかもしれない。
「……とりあえずその腫れた顔を、もっと腫れさせて来い」
この後誰と会うのかを知っているのか、ニヤニヤといやらしく笑う鉄ちゃんの瞳は早く行って来いと暗に僕に言っているようだった。
「ん。すごい不安なんだけど……二人はどうゆう内容か聞いてないの?」
そう。この後僕が会う約束をしているのは、共通の友人だ。
この間会う約束をしていたのを反故にしてしまったこともあるので、断ることは出来なかったのだが、やはり不安で仕方がない。
「カぁさん、気楽に殴られて来るといいよ~」
「無視ですか……はいはい。じゃぁちょっと行ってきます」
龍馬の声に右手を振りながら応える。
僕は席を立ち、鞄を片手に教室の出入り口へと移動していく。動く度に身体は悲鳴を上げるが、こればかりは自業自得と飲み込んで付き合っていくしかないだろう。
「おーい、カナタ!」
ちょうど出口の扉を閉じようとした時、声を張り上げて僕を呼び掛けたのは、鉄ちゃんだった。
振り向くと、目に入ったのは手を振る二人の姿。
「ん、まぁ気をつけて行って来い。ここには戻ってくるなよ」
「あ~またな~!」
彼らなりの励ましの言葉が聞こえる。
不器用な僕らは、相変わらずこんな感じで付き合っていくのだと思う。
「うん、ありがとな。二人とも」
まぁそれはそれで僕はこの距離感が好きだったりするのだ。
「……やっぱり、階段キツイなぁ」
怪我をしている身体に登り降りの運動は、かなり拷問に近いものがある。
ギシギシと身体は相も変わらずの悲鳴を上げ続けている。
もう完全下校時間も近いためだろうか。この階段を登っている途中、誰一人としてすれ違うことはない。
こんな時間に待ち合わせするなんて僕にとっても初体験なことなので、どうゆう風に対応したらいいのかあまり分からないのだけれど。
「何で、わざわざ……こんなところに呼び出すかなぁ」
思わず口から悪態が飛び出していた。
全て自分が原因だというのに、何かにそれを押し付けてやらないと気が済まない。
まぁ完全に子どもの理論なのだが、それが口についてしまうくらい是非ともご勘弁いただきたい。
目的の階に到達し、深く息を吐き出す。登って来るのも非常に疲れるものだった。
本当に、すごく緊張してしまっているのだ。
「……ホント。そんなボロボロの身体でご足労どうも」
今からこの子と話すと思うと、
「言うなよ。皮肉にしか聞こえないって」
今から戸田夢乃と話すと思うと、胃が痛くなってしかたがないから。
戸田との約束を破ってしまった。
真白ちゃんとの喧嘩に遭遇してしまった。
現場で怪我をして、すぐに学校に来ることが出来なかった。
何だかんだと色々重なってしまい、戸田と話をする時間がとれず、その機会が今日までずれ込んでしまった。
何よりほとんど彼女が何を言わんとしているかを、真白ちゃんとの会話の中から読み取ってしまっているから、こんな感じで二人きりで、面と向かって話をするのはかなり気恥ずかしいものがあるのだけれど。
彼女が待ち合わせ場所に選んだのは七階。ちょうどこの間僕が身を潜めていた場所だ。
しかし時間帯が時間帯だからだろうか。夜の闇が廊下を侵食している。
「……こないだは、ゴメンね。すごく取り乱しちゃって」
戸田がポツリと呟いたその一言が、廊下に反響して、くっきり形を残すように響いていった。あまりに暗い中では目が利かないので、大きな窓の近くまで彼女を誘導しながら、歩いていく。
校庭の灯りが差し込み明るいくらいの窓際。
そこまで移動して、ようやく戸田が気恥ずかしそうに顔を真っ赤にしているのが見て取れた。
そう。昇降口でのあの一件以来、校内では僕と真白ちゃん、戸田の名前が噂で囁かれるようになっていた。
何でも僕が二股をした末、女同志が僕を取り合って掴み合いの喧嘩をしたという具合になかなか面白い形で噂は周っているようで。
しかしこれを積極的に否定して回っても、噂に尾ひれが付いてしまうだけだと予想するのは容易だったので、否定はしなかったのだが。
「いや。元々約束してたのに無視した俺が悪いよ」
素直に頭を下げ、彼女に詫びる。『くみあい』の仕事に行かなくてはいけないといっても、一言戸田に言ってから出発すれば良かったのだ。
そんな簡単な事をしなかった自分が、今回一番ダメだった。
「一個聞いていいか?」
「えぇ。なにかしら?」
戸田の様子を窺う。とりあえずの謝罪を口にしたからだろうか。
赤く色づいていた頬も落ち着きを取り戻し、いつもの利発で冷静な表情が戻っていた。
今の彼女になら、聞いても大丈夫だろう。
「戸田はさ……なんで真白ちゃんの事知ってたの?」
彼女の前で、真白ちゃんの名前を出すか、正直迷った。
でも自分にも、彼女の中にもわだかまりを残さないためには、余すことなく聞いておこうと思ったのだ。
「あぁ。そのことか」
しかし彼女の表情を見れば、わだかまりなんて杞憂だったかもしれない。
彼女はすごく晴れやかな表情をしていたから。この間の、茫然とした泣き顔が嘘のように。
「単純に東くんの傍にいる人だったから……かな」
そう。きっかけはやはり僕だった。
「気付いてなかったと思うけどさ。わたし結構東くんのこと見てたんだよ。そうしてるとさ、結構あの人の姿見かけて、タイの色とか見てたら先輩なんだっていうのは分かったんだけど……」
思ってみれば登下校に遅刻と早退、何をする時でも真白ちゃんと一緒が多かったように思う。何より戸田がそう言うのだから間違いはないだろう。
今まで、鉄ちゃんや龍馬など、他の友達には聞かれたことがなかっただけに、完全に意識から抜け落ちていたのかもしれない。それくらい真白ちゃんと一緒にいるのが当たり前になっていた。
しかしそれに気付くくらい僕の事、見ていてくれたのか。
戸田は色々と話をしてくれるのだが、嬉しさと恥ずかしさが同時に頭を駆け巡っていて、にやけ顔を抑えるのに必死だった。
「名前は、ついこの間初めて知ったよ」
アハハと彼女が笑う。
言い終わる頃には何故か少し元気がなくなっていた。
どうしたんだろう。それが胸に引っかかって、今すぐ歩み寄りたいのだが、彼女の雰囲気がそれを許していなかった。
まるで、勢いだけで行動するなと暗に示されているような。
「そう、か」
だからかもしれない。本当に簡単な言葉でしか彼女に返答できなかった。
戸田は僕の言葉に少し笑いながら、少し胸を張って、その中心に手を持っていく。
緊張した時に彼女が良くやる仕草。
ようやく本題を切りだしてくれるようだ。
「でね。あの時言いたかった言葉、今聞いてくれる?」
静かに、しっかりとした口調で呟く。
一瞬、すごくドキリとした。
光の差し込む加減が変わったのか。
それとも彼女が今までに見たこともないような真剣な眼差しを向けてきたからだろうか。
思わず、見惚れてしまった。
踊っている真白ちゃんに向ける同じ感情を、今僕は戸田に向けてしまっている。
「おぉ。別に、構わないけど」
努めて冷静に、慎重に言葉を返す。喉がカラカラになって、今すぐ水分を摂取したい。
ドクドクと僕を駆り立てる鼓動が、未だかつてないほどに早鐘を打つ。
分かっている。分かっているんだ。彼女が本当に何を言おうとしているかは。
この間は面と向かって立ってから、答えを決めようだなんて横柄な態度を取ろうとしていたのだが、何を言っているのだと僕は僕を殴ってやりたい。
女の子が真剣に言葉を伝えようとしてくれているのに、その場の勢いで決めていいわけがないじゃないか。
本当に戸田の事を大事だと思うのならば、真正面から言葉を受け取って、そして答えを出してやろう。
でも、僕はもう既に選んでしまっているのに。
自分が出来る一番真剣な表情で、彼女の言葉を待つ。
ガタガタと手が震える。現場で危険な状態に陥っている時以上に緊張しているのではないだろうか。
「……やっぱりいいや」
あれ……おかしいな?
想像していたモノと全く違う響きが耳に届いて来た。
おかしい。全然覚悟していなくてもさらっと受け流せるワード、ってもういいってどういうこと?
コロコロ表情が変わっているのだろう。
こちらを見ていた戸田が顔に手を当てながら声を殺して笑っている。
いや、全然声上げて笑ってくれてもいいんだけど……いやそれにしてももういいって!
「え? おいおい! 僕、戸田の話を聞くためにここまで登って来たんだよ?」
情けない声を出しているのは重々承知。
僕はドラマに出てくるような、リアクションの大きいアメリカンのように右手をばたつかせてみる。
こうなったら自棄だ。自分の出来る最大限のボケでこの場を乗りきってやる。
まぁこれ以外ネタがないので、どうしようも出来ないのですが。
「う、うるさいな!」
「良いから言えよ~なぁトぉさん~!」
最初のように真っ赤な顔をしながら、彼女が怒り口調で返してくる。
照れ隠しなのだろうか……ダメだ。どうしても色眼鏡で見てしまう。
鉄ちゃんと龍馬が良く使う戸田のあだ名を呼びながら、冗談っぽく詰め寄ってみたが、僕の声が届いた瞬間、今まで以上に顔を赤くし、ズイと僕に近付いてきた。
「――東くんはそのあだ名で呼んじゃダメ!」
ポカポカと戸田の小さな手が僕の胸を叩く。ホントこれ、狙わずにやっているんだろうな。
これは本当に照れ隠しなのだろうが、こんなことをされていては、僕の理性自体が持たない。
とりあえず怪我に響くからと適当な言い訳を盾にして、彼女から離れた。
「な、なんで? 鉄ちゃんと龍馬はいいのに!」
痛そうに胸を痛そうに擦りながら、恨めしそうに戸田に聞いてみる。
彼女は顔を赤くしたまま、少し頬を膨らませて、少し考え込む仕草を見せる。
「絶対にダメ! 東くんはダメ!」
「そか~分かった。とりあえず了解です」
しかしやはり返ってきたのは少し棘の含んだそんな言葉。
うん。どうにか戸田の雰囲気も和らいできたみたいだ。
「で、やっぱり、聞かせてもらえないの?」
もう一度真剣な表情で彼女に問いかける。
少しびっくりしながら、彼女は顔を伏せてしまう。
いきなりこんな顔をするのは反則ないけれど、彼女が折角呼び出してくれたのだ。
その勇気にだけは、報いなくてはらなない。
「……ダメな気する」
ポツリと、彼女が呟く。それは先日教室で聞いた言葉と同じ。
「ん? すまん、聞き取れなかった」
とぼけた風に彼女に聞く。
少し笑いながら、でも彼女の眼は真剣だった。
もう冗談は通じないのだと理解し、ゆっくりと紡がれる彼女の言葉を待つ。
「東くん……今わたしに申し訳ない気持ちでいっぱいでしょ?」
「そんなこと、分かんないけどさ……」
「そうなの! そう顔に書いてるの!」
ちょっと予想もしていなかった。
申し訳ない気持ちがない……とは言い難かった。
この間の約束を違えたことも、真白ちゃんを優先して戸田を後回しにしたこと。その全ては僕の中で申し訳ないという気持ちで溢れていた。
確かに、言われるまでは全くそんなこと気が付いてもいなかった。
「そんな気持ちで聞いてもらっても、それで答えをもらっても、きっと……本当じゃない気がするから」
きっとこの言葉は彼女のギリギリ精一杯の言葉だろう。むしろ、その言葉を言わせてしまった自分があまりに不甲斐ない。
申し訳ない気持ちで、勢いだけで気持ちを受け入れられても、それは本人からすれば喜ばしいことではないのかもしれない。
それはきっと、その言葉をくれる戸田に対して失礼だからだ。
それを少なからず僕も理解しているつもりだから、これ以上はもう、何も言うまい。
「あぁ。そうか」
短く、彼女の精一杯に返す。
それ以上の言葉が浮かばないのだ。
僕のせいで、僕のせいでまた彼女を傷付けているということは分かっているから。
気まずい沈黙が二人の間を流れていく。
沈んだ態度に気付いたのか、戸田が少し不安げな顔を見せる。
こんな時にまで迷惑をかけてしまうのかと、
「分かった。また聞かせてくれ」
今言える精一杯はこれだけだった。
またと、問題を先延ばしにしてしまった。だけど言わないと決めた彼女の決断、そして僕の今の言葉。
またきっかけがあればいつでも、この話は出来るけど、ここ最近のやり取りから、聞いたと同じようなものなのだから、以前のようにただの友達として接することは少し難しいかもしれないけれど。
「そうね……また落ち着いてからかな……」
戸田が悲しげな笑顔を浮かべる。
男ならここは抱きしめてあげるべきなんだろうけど、今の僕らの距離はあくまで友達だ。
だから、だから今は笑顔には笑顔で返そうと思う。
そもそも彼女の言葉の端々や、行動から見えてくるではないか。
申し訳なさや勢いから来る行動では、本当に喜ぶことなんて出来ないと。
「あぁ。約束な。また何時でも声かけてくれよ」
調子の良いことだけはすぐに口から出るんだなと自己嫌悪しながら、僕はもう一度彼女に笑いかけた。
「そうだ! じゃぁ一つだけお願い聞いてくれない?」
「あぁ。別に構わないけど……」
パンと両の手を合わせ、戸田が何かを思いついたように言葉を発する。
何か無茶なことではないかと少しビクリと身体が震えたのだが、ここは内緒にしておこう。しかし一体お願いとは何だろうか。
「わたしね、あの二人の事なんだけどね」
「鉄ちゃんと龍馬の事?」
「そうそう。あの二人の事、名前で呼ぶことにしたのよ」
「そか。仲良くなったんだな」
「うん。だからわたしも呼んでいい?」
「ん。二人の事ならそう呼べばいいじゃん?」
「――ホント! やっぱり鈍感ね!」
「ちゃうやん? 主語がないと分からんから!」
思わず長さんの言葉訛りが映ってしまう。
かなりイントネーションが違うような気もしたのだが、思った以上に僕も動揺しているようだ。
また鈍感って言われたよ。気持ち、気付いてるんだけどな。
何より今、戸田自身がかなり動揺しているような気がするのだが、あえてそれにはツッコミを入れない方向で話を進めよう。
この提案するだけで頬を赤らめているもの、スルーな方向で。
とりあえず彼女は一度咳払いをして、ブツブツと今から言うセリフを繰り返していた。
小声でちゃんと聞きとることは出来ないのだけれど、とりあえず彼女の言葉を待つことにしよう。
「よし、良い? ちゃんと聞いてね?」
ようやくリハーサルを終えたのか。ジッと僕の方を見て、口を開いた。ゆっくりと決して間違えないように。
「だから、わたしが、東くんの事、名前で呼んでいいですか?」
あまりの大声のためか、廊下に反響する戸田の声。
思った以上に声が出てしまったことが気恥ずかしかったからか、そのセリフに恥ずかしさを覚えたからか、今までにないほどに顔を赤らめる戸田。
聞いてるこっちも火照るほどに、顔が熱くなってしまう。何だか想像していた以上に恥ずかしい。
「おぉ、好きに呼べ! 好きにっ!」
照れ隠ししながら彼女の提案を了承する。
ま、まぁ友達と名前で呼び合うっていうのは、ある意味普通なことだから、そこまで気にすることではないだろう。
うん。きっと意識し過ぎているだけだ。
「そうね。あ、ありがとう……こ、今度からそう呼ぶね」
でも意識せざるを得ない。この表情を見ていると。
知らず知らずの内にまた動悸が激しくなってきてしまっているし、ホントこれ身がもたないんじゃないのか。
「で、東くんもわたしのこと、名前で呼んでよ」
ほら、落ち着いた頃にまたこの追い打ち。
もう本当に、この赤くしている顔も、実は全て計算尽くではないだろうかと思えてしまうほどに、彼女に翻弄されてしまう。
「ん、オーケー! オーケー! 全く問題なし! じゃぁ夢乃だから……ユメでいいかな?」
だから出来る限り、意識していないことを気取られないようにする。
僕らはまだ友達だ。こんなことくらいで意識しているようじゃ友達とはいえないだろう。
「なっ……」
名前を口にした途端に口籠ってしまう戸田。
恥ずかしいのは仕方がないことだけど、ここまで露骨に反応されてしまうと、割り切った自分がバカみたいじゃないか。
「どしたん? ユメちゃんの方が良かった?」
「は、恥ずかしげもなく……なんなのよ!」
仕方がないのでもう一度冗談っぽく苦笑いを浮かべる。
少しは慣れてくれないと、名前で呼ぶ度にこんな風になられては正直困ってしまう。
相変わらず慌てふためいた表情をしていたが、僕の意図がようやく伝わったのだろうか。
悔しそうな顔をして、深く溜息をついた。
「む? まぁいいじゃないか。てかユメも呼んでみ?」
「そ、そうね……じゃぁ呼ぶよ?」
ゆっくり深呼吸をしながら、僕の顔を真っ直ぐに見つめる。
その顔が凄く愛らしくて、見ているこちらはすごく嬉しくなってしまう。きっとこんなことを言ってしまうと、彼女は凄く怒るだろうけど。
「カ、カナタ、くん……」
しどろもどろになりながらも、ようやく名前を呼んでくれる戸田。いや、もうユメと呼ぶべきだろう。
なんとか噛み合ってきたことに安堵を覚え、笑い声が口から零れてしまう。
「そうそう。それでオーケー!」
僕は彼女の肩を叩きながら、とっておきの笑顔を作ってみせた。
「じゃぁこれからもよろしく。ユメ」
何度目かの名前を呼ぶ。意識しないように少しずつ自然に口にするようには出来てきたけど、やはりまだぎこちないかもしれない。それは彼女にも伝播した様子だった。
「じゃ、じゃぁわたし行くね!」
頬を染め、慈しむように自分の肩に手を触れながら、彼女はそう言って僕の脇を抜けて行った。
後から聞いたら、ただ恥ずかしかったからとしか言っていなかったけれど、あの嬉しそうな顔は別の感情も秘めていたような気がした。
「おぅ、さよ……またな」
手を上げ、この間長さんと真白ちゃんがやっていた、映画のネイティブアメリカンのように別れの挨拶をする。別れというのはあまりに寂し過ぎるそれにユメと新しい関係を築いていけるのだ。だから『さよなら』じゃなく、『またな』と告げる。
「カナタくん。早く怪我治すんだよ!」
階段の前からこちらに向けて、同じように掌をこちらに向けて彼女は手を振る。
笑顔を見せてくれているけど、どこか痛々しいと思ってしまった。ただ僕が彼女に対して後ろめたい気持ちを抱えているだけだ。
そう。彼女が本当に言いたいことを、僕の都合で言わせてあげられなかったのだから。
「……ゴメンな、ユメ」
彼女に聞こえないように呟く。
グッと自分の不甲斐なさに奥歯を噛みしめると、口の中に鉄の味が広がっていった。
本当に、ユメに対しては申し訳ないという罪悪感しか出てこない。
気持ちを知っていながら、受け止めてあげることが出来なかったから。何度も、彼女を泣かせてしまったから。
でも僕はその気持ちを受け入れること出来るほど大きくはなかった。
それはもう僕にはいるから。何を賭けても守りたいと思う人が。大事で、何時までも傍にいたいと思える人が。
「ん? なんか言った?」
思いの他、声が反響してしまったからだろう。僕の零した声は階段を降りようとしていた彼女にも届いていたようだ。
なんともナイスなタイミングで振り返るのだ。実は全部分かって狙ってるんじゃないのか。
「いや~なんもないですよ~また学校でな」
再度ダメ押しと言わんばかりに手を振る。せめて何もしてあげることが出来なくても、背中を見送ることくらいはさせてほしい。
歩き去る彼女を見送り、窓の外を見る。
広がっていたのは黒に染め抜かれた空と、団欒の用意をする暖かな街の色。
それを目にすると無性に彼女に、真白ちゃんに会いたくなった。
でも今はもう少しだけ、このまま……罪悪感に身を委ねておこう。
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