第6話 夢を見た後で 幸せな当たり前な日常
そっと目を開ける。まだ頭がぼんやりとしていた。それなのに夢で見たあの泣き顔を僕はハッキリと覚えていた。
どうにも寝覚めが悪い。枕元に置いていた充電中の携帯電話のディスプレイを見ると、ちょうど朝の五時を過ぎたところ。
僕はベッドから這い出てリビングに向かうことにする。
時間的にはもう少し眠ることも出来たけど、どうにもそうする気にはなれなかったのだ。
ヨタヨタとリビングに足を進めると、見慣れた後ろ姿。
「おぉ、今日は早いやんけ。 どないしたんや」
「おはようございます、長さん」
そう。僕は訳あって長さんの家にお世話になっている。
長さんも一人暮らしで部屋が余っているからちょうどいいとのことで快くここに置いてもらっているのだけど、仕事上の上司と一緒に住むっていうのは緊張しっぱなしだ。
「コーヒーでも飲むか? あと冷蔵庫に牛乳も入っとるぞ」
新聞に目を向けたまま彼はそう呟く。まだ出勤には早い時間だというのに、綺麗に剃られた髭、そして頭髪のセットはビシッと決まっていてどこからどう見てもいっぱしの営業マンという雰囲気で隙がない。
表向きの仕事はどうなっているのか、今のとこを全然知らないのだけれど、今度機会があれば尋ねてみよう。
彼からかけられる言葉から端々に気を使ってくれているという印象を感じて、僕は微笑みながらそれに応える。
「はい。じゃぁ牛乳もらいますね」
そう言いながら冷蔵庫を開け、中に収められた牛乳パックを手に取り、グラスに注いでいく。
手に伝わるひんやりとした感触が心地良い。これを一気に飲み干したらどれだけ快感なのだろう。そんな想像しながらグラスに口を付け飲み干していく。
思った通り、喉を通り抜ける冷たさは言葉に出来ないほどの心地よさがあった。
「良い飲みっぷりやな」
新聞を折り畳み、ニヤリと笑う長さん。
「いや、無様な姿見せてすいません」
「いやいや、褒めとるんやんけ」
苦笑いを浮かべてコーヒーを啜る。
カップに入っていた残りを一気に飲み干すと、長さんはゆっくりと立ち上がり僕にこう告げた。
「今日は何もないはずやからな。しっかり勉強に勤しむんやぞ」
そのままスーツを片手に、彼は玄関に向かって歩いて行った。そう言えば昨日の案件の処理も、全部三人組と長さんに任せたままだったことを思い出し、少し焦りを覚えながら僕は彼の後を追う。
「――長さん! すいません、昨日の案件なんですけど」
僕が声をかけた時、長さんは革靴に足を通していたところだった。彼はこちらに視線を向けながら落ち着きはらった声で、
「ん? あぁアレな。もう事後処理も終えたしやるべき事は終わったな」
そんな事もあったなと、思い出すようにそう告げた。
「すいません。すっかり忘れていて……」
僕の謝罪に長さんは眉間に皺をよせる。
「……カナ。この間も言ったんやけど、忘れてもうたんか」
重い響きを含んだ言葉。
あぁそうだ。長さんは僕のこうゆうとこが、すぐ謝るところが嫌いなんだ。
「まぁ……気を使い過ぎるとこもお前の美徳やけどな」
それ以上長さんは語らず、玄関を開ける。
そこから入り込むのは朝の白い光。
聞こえてくるのは車の行きかう音。
僕たちの住む団地が大通りに面しているからだろうか。まだ朝も早いというのに音は鳴り止むことはなかった。
「学生の本分は勉強や。俺らがやれることはやっといたる。それでも俺らの手が足りん時は頼むわ」
そう。学生の本分は勉強。それを盾にされてはもう何も言うことは出来ない。
ただどうしようもないほどに大事にされているということはハッキリと感じることが出来て、嬉しくて堪らなかった。
長さんを見送り、一気に静かになってしまった部屋の中はどこか居心地が悪い。
色々と学校に行く為の用意を済ませ時計を見ると、まだ出発の時間まで二時間は余裕があった。
「ちょっと……見に行くかな」
制服のまま、鞄を持たずに部屋を出てエレベーターホールに歩く。
時間的に出勤の時間帯に重なったからだろうか、スーツ姿が数人、既にエレベーターの中に乗りこんでいた。整髪料の匂いで染められた室内に一歩足を踏み入れて、「おはようございます」と声のボリュームを小さめに挨拶をすると、軽い会釈で返してきた。
以前、挨拶は全てにおいて基本であると教えられたことがあるから、身近に住んでいる人や関わりを持つ人に対する挨拶だけはきちんとしようと心がけている。
エレベーターから降り、軽く腕を回す。
今日の日差しは燦々と照りつけていたが、身体に纏わりつく空気は若干の冷たさがあった。
一日の時間の中で、この時間帯と夕暮れ時が自分の中ではお気に入りの時間帯かもしれない。
下に視線を移して靴紐を確認。僕は一路歩き始める。
目的の場所は昨日僕があの男と一悶着あった公園だ。
そう。僕たちの住んでいるのは住芳。昨日の案件は僕たちの自宅の近くで起こっていたのだ。
「全部終わってるって言ってたけど……」
長さんは確かにそう言っていた。
でも昨日の事を少し思い出してみる。
照りつける日差し。赤々と地面を穢す男の痕跡。
人に見られずにアレを処理するなんて、簡単に出来ることではないだろう。
確かに長さんには気にしなくていいと言われたのだが、一度この目で現場の状況を確認しなければ彼の納得することが出来なかった。
悶々と自分しながら数分歩いて、僕は昨日の公園に到着した。
『中央公園』
入り口には擦れかかった文字で木にそう刻まれていた。
そんなに広くない公園には既に老人が数人、カセットデッキから流れる音に合わせてゆっくり、ゆっくりと身体を動かしていた。
何かの武術の動き。かなり経験を積んでいるのだろう、それに参加する人はみな姿勢正しくそして流れる動きには目を見張るものがあった。
今老人が強く足を踏みしめた場所。あそこで僕とあの男は接触したのだ。確かに男は自身の手から夥しい血を流していたのだが、完全にそこには痕跡などは残っていない。
アレは夢だったのだろうかと、少し現実逃避を試みるがそんなことは許されない。
この手にハッキリと残っている。男を傷つけたという実感が。だから許されないし、それから逃れるつもりもない。
今、ここにいるのもそれを実感するためだ。
目を背けるのではなく、しっかりと受け入れるために僕はここにいるのだ。
「ぼーっとしてても、意味ないよな」
自分にそう言い聞かせながら再度肩をグルグルと回す。腕、肘、指先とゆっくり動かしていく。
長さんからよく言われている事の一つに、「準備だけは怠るな」というのがある。
何をする時でも、特に僕らの場合は力を使う時は、関わるもの全てをしっかりと機能するようにしておかなくてはならない。
その言葉に従い、丁寧に腕の筋肉を動かす。
準備はオーケー。いつでもいける。
手近に何かないだろうか。公園をグルリと見渡すとベンチの横に適当に捨てられた缶コーヒーを見付ける。
全く、みんなが使う公園だと理解していない輩が多過ぎると苛立ちを覚えながら、それを拾い上げる。
言わずもがな中身は空っぽ。ならばここから零れ落ちるモノなどは何もない。
ゆっくりと少し勢いをつけ、上空にそれを放り投げる。
かなり上空に昇ったのだろう。最早黒い影にしか見えないが、位置としてはちょうど顔の真上。何もしなければスチール缶が顔に衝突してしまうだろう。
間違いなく、いける。
根拠はないがそんな確信があった。
腕、そして指先を伸ばし降りかかる缶にその先を向ける。
外的な準備は終了。あと必要なモノは一つ。
ただ『穿つ』という意志だけ。
ガン
鈍い音をたてて、指先に缶が接触する。それと同時に指先が缶の内側へと侵入していく感覚。
そう。昨日男に見舞った時と同様、僕は対象に穴を穿った。
ただ違うのは、より鋭く的を絞って穿てたという事実。
少しずつではあるが力の使い方のコツが分かってきたような気がする。
その手がかりが少しは見えたので、今朝はこれで終わりにしておこう。
「よし……じゃぁ帰ろうかな」
僕は指先に刺さる缶を慎重に引き抜き、ゴミ箱にそれを投げ込んだ。
うん、やはりゴミはゴミ箱にしっかり捨てなければ。
「そう言えば、ちゃんと準備出来てるのかな」
知らず知らずの内にそんなことを口にしていた。
手首に付けた時計をチラリと見る。時間帯にして七時を過ぎた辺り。
そろそろ学校に出発しなければならないのだが、僕は確認しておかなければならないことがあったのを思い出していた。
一度部屋に戻り、鞄を肩に掛けて外に出る。そのままエレベーターホールに行くのではなく、僕と長さんのすぐ右隣の部屋のインターフォンを押す。
しかし一度、二度、三度……何度押しても返事はない。
「起きてないのかな」
不思議に思い玄関のドアノブに手を触れグイと回すと、扉は何の抵抗もなく開け放たれた。
きっと昨日の晩も鍵を閉め忘れたのだろう。
仕方がないなと苦笑いを浮かべながら、屋内へと侵入していく。
「起きてないんですかー? もしもーし」
間取りは僕と長さんの部屋と同じだ。同一の団地で部屋ごとに間取りが違っていれば、その方が問題だよなと一人笑いながら足を進める。
玄関には今朝彼女が準備したのであろう通学用の鞄、あとは彼女お気に入りのミュールとローファーが数足。廊下には何も置いていない。
簡素といえば聞こえはいいが、生活感がないというのがここで選ぶべきワードだろう。
そしてリビングに足を踏み入れる。
真っ先に目に入って来るのは壁面に置かれた大きなオーディオセット。その両サイド、そして周辺にはCDやLPレコードが散乱していた。
そしてその前、ヘッドフォンを付けて音楽に浸る女の子が一人。
楽しそうに目を瞑りながら音に身を任せる姿は踊っている時の彼女と似て、見ているこちらも楽しくなってくる。
「真白ちゃーん、そろそろ学校行く時間だよー」
ここは真白ちゃんの部屋。僕と同じ事情で長さんと暮らすことになったのだが、さすがに年頃の女性が同年代の男と同居するというのも、あらぬ誤解を生むだろうということで、長さんは隣にもう一部屋借りるという形で事を治めた。
それにしても生活能力がほぼ皆無の真白ちゃんを一人にするというのは、それはそれで度胸がいる。
まぁそこをフォローするために、僕が毎日彼女の部屋にやってきているんだけど。
彼女を見ると、僕がアイロンをかけておいたシャツに袖を通し、既に学校に行く準備は出来ている様子だった。
おそらく僕が呼びに来る少しの時間を利用して音楽鑑賞をしようと思っていたんだろう。でも完全に音楽にのまれている。
真白ちゃんらしいといえば、そうかもしれないが。
仕方がないので近所の迷惑にならないくらいの声で呼びかけてはみたが、踊っている時と同様全く反応はない。
「おーい。速く気付かないと実力行使に出ますよー」
肩に触れながら、再度呟く。相変わらず反応はなし。
さすがに身体に触れられて、リアクションを起こさないのは危険だ。
溜息をつきながら彼女の背後に立つ。少し離れた位置からでも聞こえてくヘッドフォンからの音漏れ。確かにこれではインターフォンなど聞こえるわけもない。
出来ればもう少し小さな音量で音楽を楽しんでもらえないかなと、最大限の譲歩を心の中で提案しつつ、僕は彼女の装着しているヘッドフォンに手を触れ、一気に彼女の頭からそれを外した。
密閉されていた音が周囲に零れ出す。弦楽四重奏の音源だろうか。クラシックの音色がささやかに僕の耳に届く。
「ふえ? 音……あれ、聴こえ……あ、カナタくん、おはよう」
少し困惑気味に周囲を見回した後、ようやく僕の存在に気付いた。
「おはようございます。どうでした、朝の音楽鑑賞は」
「いや~朝だからこそ味わえる感覚ってあるよね。とても勉強になりました」
こちらを向きながら彼女はニコリと笑う。
少しは注意しないといけないのに、何故か彼女の表情を見ると何も言えなくなってしまう。
「そろそろ行かないと間に合わないですから」
パンパンと手を叩き、出発の合図を鳴らす。
僕の手の音に合わせて立ち上がりながら、グッと伸びをする。
「お、もうそんな時間なの~? 行きましょうか~」
彼女は意気揚々と出ていこうとするのだが、出ていく前にやらなきゃいけないことがあるでしょう。
リビングを出ていこうとする彼女の肩を掴み、動きを止める。
「どうしたの~、学校行かなきゃでしょ」
「いやですね。色々片付けないといけない物があるんですけど、気付いてます?」
そう。先程まで彼女が聴いていたオーディオセットの電源、部屋の照明、それに部屋中に散らばっているCDやLPレコードの山。
少しは片付けておかないと帰って来てからが辛いはずだ。
「片付け……ます」
苦笑いを浮かべながら、散らばる音源類を纏め始める。
「ん、じゃぁ僕も手伝いますね」
鞄を廊下の方に持っていき、CDのケースを一枚一枚集め始める。
以前LPレコードを手に取ろうとした時、扱い方が荒いと彼女から指摘を受けたので、自分からは積極的には触れることはしない。
あくまで真白ちゃんから言われた時にしか触らないようにしている。しかし所狭しと置かれている音源の数々を手に取る度、彼女がかなり幅広いジャンルの音楽を聴いているのだなと少し感心してしまう。
クラシックに始まりジャズやポップス。あとはどこかの国の民族音楽やクラブミュージックもある。ジャケットに記されたアーティストの名前を見ても、知らないものが大半を占めていた。
それにしてもこの部屋、オーディオセットと音源以外に何もない。冷蔵庫すら設置されていないのだ。
僕は確認したことはないのだが、生活に必要なものは、彼女の寝室に収められているとの事らしい。
この前その部屋の掃除を手伝うと言ったら、確か『女の子の寝室にはいるなんて!』とか『デリカシーがない』とか『鈍感男は馬に蹴られてしまえ!』などとやたらと怒られた。
綺麗になれば嬉しいはずなのになぁ。
「またCDの量、増えましたよね」
「そうだねぇ~この前お買いもの行った時に、また手を出しちゃった」
ハハハと申し訳なさそうに笑う彼女であったが、これもいつもの事なので指摘するのは止めておこう。
また収納用のラックを買ってきてあげないと思いながら手を動かしていると、いつの間にかある程度の片づけが終わっていた。
まぁこれなら問題ないだろう。
「さて、じゃぁ行きましょうか」
「よ~し! では出発だ」
パッと晴れやかな笑顔に戻る真白ちゃんは、俺の手を引き廊下へと歩き始める。
「そ、そんなに急がなくても大丈夫ですから」
「はいはい~分かってるよ~」
玄関でローファーを履き、爪先をトントンと数回。準備万端と鞄を手に取り、玄関の扉を押しあけながらこちらに振り向く。
「ねぇ。今日も楽しいかな」
「そうですね。多分そうだと思いますよ」
玄関から差し込む光が眩しくて、少し目を細めてしまう。
ここでキザっぽく、彼女の笑顔が眩しかったからだなんて口にしてしまったら、少しの間彼女とろくに口もきけなくなってしまうだろう。
自己嫌悪に頭を抱えながら、彼女の後に続いて僕も玄関を出ていく。
もう真白ちゃんはエレベーターホールの方に走って行っていた。いやいや、玄関出て一番やらなきゃいけないことが残っているでしょ。
「ちょっと、真白ちゃん! 鍵閉め忘れてるよ」
「あ~ゴメン! すぐ戻るね~」
「ホント、ボチボチそうゆうところ直しましょうね。今朝だって玄関の鍵開いたままだったんですから」
こちらに駆け足で戻りながら、ポケットの中に収められていた鍵を取り出す。
ちょうどそれを鍵穴に指した時、何かを思い出したようにこちらに顔を見せる真白ちゃん。
「そ、そうだ! 乙女のお部屋に無断で入るなんて、いけない人なんだ!」
そう言えば許可も得ずに部屋に入ったんだった。
もう毎日の事過ぎて、気にも留めていなかったのだが、確かに紳士的な行為ではない。
まぁ言い訳はこれ一つに決まっているんだけど。
「いや、そうしないと遅刻しそうだったし、長さんからも許可はもらってますから」
長さんの名前を聞くと、ウッと恨めしそうにこちらを見つめる真白ちゃん。
僕と同様に長さんには恩があるので、彼女も彼には逆らうことは出来ない。
だからある意味必殺の一言なのである。
「う~カナタくん、意地悪な言い方し過ぎだよぉ」
彼女は頬を膨らませながら鍵を回し、踵を返してエレベーターホールに向かう。
少しやり過ぎてしまったかもしれない。
「ごめんなさい……今度から気を付けるんで許してもらえないですか」
彼女の後姿を追いながら、そんな言葉をかけてみる。
背中から拗ねているのがハッキリ伝わってくるのだが、それでも何か言いたげな様子で、
「今度から意地悪な言い方しないよね?」
そう口にした。
表情は見えないけど、そんな言い方をされたら肯定せざるを得ないじゃないか。
「は、はい、もちろん!」
「……まぁ鍵閉め忘れたのは私のミスだし、お片づけ手伝ってもらったし」
ようやく機嫌を取り戻してくれたのだろう。クルリとこちらに向き直る真白ちゃん。
表情はいつも通り、僕に幸せをくれる可愛らしいほんわかとした笑顔。
「今回はお互い様ってことで……それでいいよね」
僕はもう、彼女がいないと生きていけないんじゃないか。この笑顔があるからどうにかやれている。そんな事を考えない日はないくらいに。
「そうですね。 さぁ早く行きましょうか!」
照れ隠しをしながら、エレベーターの中へ彼女を誘う。
これに乗ればいつもの現実が始まる。朝のこのささやかな時間の終わりを意味している。
二人でいた時間が少し名残惜しくもあり、今日という一日の流れが楽しみでもある。
今日は一体どんなことがあるのだろうか。
僕は心躍らせながら、その流れに身を投じて行った。
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