第3話 僕らの日常2


 ようやく公園を出て僕たちは、先程真白ちゃんや三人組が口にしていた『長さん』の元へと向かっているわけなのだが、辛いのは言うまでもなくここからなのである。

 僕たちがこのような仕事を受け持っているこの地区、住芳(すみよし)は街の中心から少し南に外れたところに位置している。

 大きな通りを真っ直ぐ北に進めば都市の中心にも簡単に行くことの出来る便利さと、豊かな水を湛えた一級河川の流れる長閑さを併せ持った地区だ。

 朝方の通勤ラッシュの時間帯には電車そしてバスも20分と待たずに利用することができるのだが、お昼も近くになってくると本数も少なくなってしまう。

 言わずもがな、今日は物の見事に一番近くのバス停からの出発は50分ほど先だったのだ。ただ幸いにも僕たちの居たバス停から40分も歩けば、目的地に到着できるはずなので、とりあえず徒歩で行くことにしたのだけど僕らはすっかり失念してしまっていたのだ。


「ね、ねぇ~カナタ君……暑くない?」

「いやまぁ、待ち時間も長過ぎたし、他の移動手段じゃお金がね……」


 そう。この炎天下のことをすっかりと忘れていた。

 いや、甘く見ていた。

 歩くだけでも体力を奪われるのに、その上日差しが更にそれに拍車を掛けている。

判断の誤りが多過ぎるなと内心反省しながら、真白ちゃんに対してハハハと笑ってみせた。


「む~カナタくん、無理してるでしょう」

「この暑さの中ですから。そりゃしんどいよ」

「これなら護送車に乗せてもらえればよかったじゃん~」

「そうだよねーそれが一番楽だったかも……ってあの三人のこと苦手だって言ってたの、真白ちゃんですよ?」


 あの三人と一緒でも良かったのかと彼女に聞いてしまう。

そうすれば涼しい車内でこんな暑い思いをせずに済んだのにと付け足しながら。

ヤバい。この暑さでついつい彼女に対して意地悪をしたい気持ちを抑えられなくなってしまっている。僕の悪い癖の一つだ。

「もぉ~カナタくん、意地悪すぎだよぉ」

これはお怒りを受けるかもと覚悟していたのだが、返ってきたのは僕が予想もしていないものだった。何より意外だったのは彼女が疲弊しきっていることだった。


 あの公園での彼女のダンスを思い出してみる。

 小柄な身体からは考えることも出来ないくらいの大きな動き。

 流れるような細やかなで軽やかなステップ、そして大きな跳躍。

 何よりもそれを蝉も押し黙るあの暑さの中で、辛そうな表情一つ見せずに身体を動かし続けていたのだ。

 普通に考えれば誰もが驚愕するほどの体力を有しているのかと思う。

 しかし実際はそうではなく、同年代の女子学生と差があるわけではないらしい。結局疲れることを忘れてしまうほど、彼女がダンスに夢中になっているのだということは想像に容易かったので、これ以上考えることはやめにした。

 むしろこれ以上考え事をしていては、外と内からの熱のせいで頭が沸騰してしまいそうだった。

それより何より、彼女を元気づけなくては。


「そう言えばさ、真白ちゃんのダンスっていわゆるバレエなの? 前にテレビで見たのとは色々違ってるような気がするんだけど……」

「ん~ん、私のは違うかなぁ~。確かに小さい頃はバレエの教室にも通ってたけど、向いてないって先生に言われてたし、トウシューズを履くのも苦手だったし。でも踊るのは好きだったから基礎はしっかり教えてもらったよ~」

「じゃぁ詰まる所、バレエではない、ということでしょうか」

「え~でも基礎はそこにあるし、でも考えてみたら即興で振り付けとかも考えてるし……あ~でも一応踊る前から組み立ててはいるんだよ? でもこう、良いなぁって思う動きが急に頭に浮かんだりして、それを取り入れたりしてるから……」


 こういった感じで、ダンスの話題を振ってみると急に饒舌な彼女に変わる。

 暑さに疲弊しきっていた様子がまるで嘘だったかのようにウンウンと悩む彼女の姿は、眺めていて全く飽きることはなかった。

 そうそう。以前彼女の踊りを見た時に色々調べてみたのだが、枠にはまっていない動きなどを見るに、彼女のダンスは新しいダンス、いわゆるコンテンポラリー・ダンスというのが正解なのかもしれない。

 それ自体も定義づけされているものではないらしいので、本当の正解はまだ分からないけど。

 あれ。でも今バレエが基礎にあると言っていたから、一応バレエになるのだろうか。

 うむ。これはすぐには答えの出せない難しい問題だ。


「あ~難しいことは分かりません! 私のはただの踊りでいいです。難しいことは分かりません!!」


 と、真白ちゃん本人も同じことを二回言うほどに考え疲れているので、これ以上この話題を続けるのは無理のようだ。

 いじいじと拗ねてしまう彼女に謝罪の言葉を述べ、彼女が好きな音楽の話をしたり、長さんがどんな反応をするのか推測したり、まぁ取り留めのない会話をしながら僕たちはゆっくりとではあるが歩を進めていった。

 そんな風に疲れながらも話を続けていると、徐々に人通りも多くなり、一気に周囲が賑わい始める。

 人の話し声。車の行き交う音。そして見上げた視界を占めるのは大きな灰色の建物たち。

その中に一際無粋に、でもどこか輝きを放つ建物が目に入った。

 見上げた先にある青よりも視界を埋め尽くすその灰色は、僕たちの住むこの街の再開発の象徴であるらしい。

 確か以前に見たニュースでは、この国で一番高いビルとなるために、増改築をしているという情報を伝えていたと思う。


「ん~それにしても日増しにスゴーくなっていくねぇ。素晴らしきかな、人類の英知!」


 真白ちゃんも僕と同じことを考えていたのだろうか。そびえ立つビルを目にしながら感嘆の声を上げた。

 今にも踊り出してしまいそうな様子だったのだが、人通りも多くなってきたので、とりあえず止めておいたのは言わずもがな。

 もう少し眺めていたい気にもなったが、さすがにこれ以上寄り道をしていてはいよいよ大目玉を食らうことも冗談ではなくなってくる。


「名残惜しいですが、またすぐに見れますから」

「え~! あと少しだけ~いいじゃん」

「これ以上長さん待たせられないですからね~。さぁ行きますよ!」

 むくれる彼女の腕を引きながら、僕はビルの方へと歩いていく。近付けば近付くほどに威圧感を増すそれをうっとうしくも思いながらも、ビルの外周をグルリと周っていく。

 路地に入っていくと真っ先に目に付いたのは多くの人であった。

 つい数か月前、改装中のこのビルの道路を挟んで向かい側に大型のショッピングモールがオープンしたためか、平日の昼間だというのに人通りはかなりものだ。

 街が華やいでいくのは良いことなのかもしれないが、こうも騒がしいと煩わしいという感情の方が勝ってしまう。

 僕たちは人の行きかう中をすり抜け、相変わらずビルの外周を歩いていた。

 このビルの改装工事自体はまだまだ先まで掛かるらしいのだが、元々その建物が駅ビルであったため、地下には言わずもが公共交通機関が奔っている。一歩地下に降りると綺麗に整備された地下街があり、そこもかなりの賑わいを見せている。

 しかしその地下へと降りる出入り口の中で極端に人の行き来が少ない場所がある。それが今僕たちの居るビルの東側なのだけど、駐輪場もなければたむろするコンビニもない。しかも地下鉄の改札や、モールなどともかなり離れているため、利用する人が少ないのだ。

 その地下街へと降りていく階段を中腹まで降りていくと、目に飛び込んできたのは薄汚れた『業務用』書かれた扉。

 違和感満載のその存在が、たった一つ、『業務用』という言葉を添えられただけで違和感が霧散してしまうのだから不思議だ。

 ほとんどの人がスルーしてしまうのもそれが理由なのだろう。

 全く、この街に住む人は自分も含めてどれだけ鈍感なのだろうかと心中で嘆きながら、ドアノブをひねりゆっくりと手前に引く。

 見た目も古めかしい扉だ。

 ガタがきているのか、ギギギと鈍い音をたてながら扉は開いた。

 扉を開け放ってみると中から埃っぽい嫌な空気が外へと流れていく。さながら責められることから逃げるようだった。

 というか僕は今すぐにでもここから逃げ出したいのだけれど。


「やっぱり、怒られるのいやだな〜、なんて思ったり……思わなかったり?」


 一言真白ちゃんはそんなことを口走っていたけど、僕は反応を示さずに彼女の手を引き中に足を踏み入れる。

 室内に入るとすぐに目につくのは真新しい、綺麗に塗装された両開き鉄のドア。右の方にパネルがあり、それを見つける事が出来ればそのドアが何の役割を果たしているのかは想像に容易いだろう。

 パネルの下の矢印を押すとポーンと耳に優しい音が響き、それに続いて鉄のドアの重々しい音が狭い部屋に広がり、僕らを招くように扉が開く。

 この低い響きを耳にする度に胃がキリキリとするような錯覚がするのだが、今度のお休みにでも病院に行ってみよう。

 一応身体が資本のこの仕事だ。体調管理も業務の一環という事で。

 開け放たれた室内に入り、パネルを見るとそこにはシンプルに『入口』『地下』という二つのボタン。『地下』のボタンを押し、扉が閉じられるとエレベーターの箱は下へと降下していく。

 全くと言っていほど騒音も聞き取れないそれに、最初に潜ったドアをもう少し綺麗にすれば良いじゃないかと心の中で悪態をついていると、ものの数分も掛からない内に目的の場所へと到達したのだろう、微かに聞き取れていた機械の音が止み、ドアが開放された。

 一歩外へと出ると数歩足を進めた場所に再び古びた扉があった。それを照らす裸電球も、今にもその役目を終えるのではないかと思えるほど弱々しい。

 だから何で変な所にお金を使わないのだろうか。それくらいのお金はあるはずなのに。


「……相変わらず、ここだけは暗くて怖い雰囲気だよねぇ」

「確かに。お金の使い方がなんだかチグハグな感じがするんですよね。ここもちゃんと明るくすれば良いのに」


そんな愚痴を呟いて今日二度目となる、出来る事なら開けたくはないドアノブを捻る。


「でもこの看板は可愛いかも」

「いや、この文字を書いたのは真白ちゃんですよ……自画自賛はいけない。ホントに! マジで!」

 そう。上と同様にこちらの扉にも、とある文字が書かれていた。

 それもひらがなで『くみあい』と何ともツッコミ難いもの。

 まぁ本人は本気で可愛いと思っているのだから、僕からは何も言うまい。

 彼女との会話で少しは気が晴れた。これでドアを引く手も少しは軽く……いや、やっぱり非常に重いです。

 何というか、開けてすぐに見舞われる言葉を予想出来るんだよなぁ。


「どんだけ時間かかっとんじゃい、お前ら!」

 ほら、棘のあるこの声だ。

「終了の報告受けて一時間以上経ってるんやぞ。どこほっつき歩いとったんじゃ!」

 細い体躯からは想像も出来ない野太い声。ドアを開けてまず目に入ってきたのは、出来ればすぐには会いたくなかった恩師の姿。

「いやですね、現場から歩いて来たんですよ。それに今日の暑さですし、足取りが重くなっちゃいまして……」

 タジタジになりながらも、彼に対して言葉を返していく。

 僕の後ろで短く悲鳴を上げた真白ちゃんがいなければ、何も考えずに平謝りしていたところだ。

見た目は決して怖くはない。どこにでもいるような中年男性だ。

しかし彼の醸し出す雰囲気だけは、同年代の男性のそれとは一戦を画するものがあった。

人生経験の浅い僕では言い表すことが出来ない。

これは威圧感と呼べばいいのだろうか。彼を取り巻く空気、彼に触れているモノ総てが彼の支配下にある様な、そんな印象を受けてしまう。

それがどうしようもなく、僕を恐怖させた。

「言い訳は聞いてない! 人に心配かけたら言わなアカン事があるんちゃうんか?」

 ピシャリと退路を断つ一言。

ダメだ。どれだけ強がっても僕らに非があることは明らかだ。

「す、すいません! すいませんでした、長さん!」

 そう。この人が長さん。

 僕と真白ちゃん、そしてあの三人組の上司に当たる人。僕を救ってくれた恩師だ。

「――まぁ事故もせんとよぉ帰ってきた。お疲れさん」

 素直に謝罪を述べると、彼の口から返ってきたのは労いの言葉と頭を撫でてくれる大きな手だった。

 大雑把な手つきだったが、温かみがあって落ち着く事が出来た。

 どこか気恥ずかしさもあってか、苦笑いを浮かべながらついついその手から逃げるように動いてしまう。

 長さんは一瞬少し悲しそうな表情を作ったがすぐに普段の精悍なものに戻り、僕の後ろに隠れていた真白ちゃんに声をかけた。

「シロもお疲れさん。汗かいたやろ。はよ着替えておいで」

 彼女の頭をポンポンと優しく手を乗せ、優しい表情を作る長さん。

 この人は特別真白ちゃんには優しい。

 見てて凄く優しい気持ちになるのは、お互いに慈しみ合っているからだろう。

 しかし、これはチャンスだ。

「は~い。わっかりました~」

「じゃ、じゃぁ僕も~」

 彼女がパタパタと足音をたてながら長さんの脇を抜けていくのを後から追いかけていく。

 見逃してもらうことが出来たかと胸を撫で下ろしていたのだが、

「お前には色々と聞かんとアカンことがあるついて来るんや」

 案の定、襟を掴まれた。

「いや、僕結構汗かいてまして……着替えでもしたいなぁと」

「『いや』とか『でも』とか、その口癖直せって言ってるやろが!」

「す、すいません!」

 その言葉を聞くや否や、あっさりと襟から手を離し、長さんは部屋の奥へと歩み始めた。もちろん着いていかなければどんなお怒りを受けるか想像も出来なかったので、素直にその後ろ姿を追いかけていく。

 扉を入ると目測では測りきれないほどに長い廊下が真っ直ぐ伸びていた。

 僕たちより先に走っていった真白ちゃんの後ろ姿は、スゴく小さなものになっている。一体どんだけ足速いんだよと心の中でツッコミながら長さんの背中を追いかけ足を進める。

 それにしても長い廊下だ。

 きっと今僕が居る位置はあの増改築中のビルの真下くらいではないかとそんな想像をしていると、長過ぎた廊下から出て開けた場所へと僕たちは足を踏み入れていた。

 そこには会社のオフィスさながらに多くのデスク、そしてパソコンが並べられている。おかしな点といえば、その機械たちを扱う者たちが点々としか見受けられないことくらいか。

確かにここは現場が基本なので、常駐している人といえば長さんやサポートのメンバーくらいのものだ。

 画面を真剣に見つめる者、誰かと連絡を取り合っている者、隣の人と意見を交わしている人が点々と見受けられ、僕の姿を見つけた数人はこちらに手を振ったり声をかけてくれた。

 彼らに軽く会釈をしながら進み、一際大きなデスクの前で立ち止まる。

 デスクの上には長さんの本名が記されたプレート。そこにはこれまたひらがなで『くみあいちょう』というワードが彼女の筆跡で記されていた。

 うん。真白ちゃんには注意しておこう。

 執務用のデスクにこの手のいたずらはダメでしょう。

「ーーで、今日は何も問題なく、大丈夫やったんやな」

「はい。二人とも問題なしでした」

 デスクの前に用意された重厚な椅子に腰かける長さんの問いかけに、僕は努めて簡潔に答えを述べると、満足げに「そうか」と答えて長さんはニコリと笑みを浮かべた。

「あんまり危険なことはさせたないんやけどな。ホンマは今日も朝から学校行かなアカンかったんやしな」

 何だかんだと長さんは僕や真白ちゃんのこと、それに周りに人のことを気に掛けている様子だ。

 まぁ度が過ぎて過保護気味になってしまうところが玉に瑕なのだが。

「はい。それについては大丈夫です。彼女が戻り次第、すぐに向かうつもりですから」

「さよか。真面目にお務め果たすのは当たり前のことやけど難しいからな。……まぁ最近また俺らが動かなアカンような案件が増えてきてるからな。お前らには出来る限り学生の本分を果たしてもらいたいんや」

「確かに……多いですよね」

 ここのところ今朝のような事件が増加している、みたいだ。

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