52. 進む道
「それで? この匂いはなに? お兄ちゃん?」
上裸の俺に、妹がニコニコしながら問いかけた。何か罪でも裁かれているような気になってくるが、実際に隠し事をしている身なのであながち間違いでもないか。
とはいえ、今の状況で美咲のことを話すわけにはいかないため、ここはとにかく嘘をつくしかない。
「蓮が買ってきた海外のお酒がかかったんだよ、確か。汗で濡れて匂いが出てきたのかもしれない。酔っててよく覚えてないけど……なあ、蓮?」
「あ、ああ! そのはずだ」
芽衣に視線を向けていた親友に話を振ると、上ずった声で返答がきた。そこまで動揺することではないだろうに、やはり先ほどから様子がおかしい。だがここでこっちまで慌てると誤魔化しきれなくなる可能性もある。
苦しい言い訳だと自分でも分かっていたが、頭をフル回転させて言葉を選ばなければならないと決意を新たにして訝し気な芽衣へと向き直った。
「ふつう背中にかかる? というか、それならなんで着替えてないの?」
「酔っぱらってたからいろいろおかしなことになってたんだよ」
便利な言葉だとは思いつつ、酒のせいにしているようではまだまだ大人にはなれてないなと痛感させられる。うちの指導教員が酒で暴走する姿を見ていることもあり、こうはなるまいと改めて思った。
そんな俺の曖昧な返答に、やはり妹は疑わしいという感情を隠さずに此方をジッと見つめてくる。すべてを見透かされているような気になるが、まだそこまでボロは出していないはずだ。
「ふ―ん……。じゃあそのキャリーバッグは何?」
チラッと白いキャリーに視線を向け、次の問いに移行した芽衣。その隣で夏葉は部屋を見渡しているが、それは何かを探しているというよりも単純な興味という理由のようだった。チラチラと俺の方を見てくる理由は分からないが、何か部屋に思うところがあるのだろうか。
「オレが酒とかいろいろ持ってくるのに使ったんだ。泊まる予定もあったしな」
思考を夏葉に傾けたせいか質問への返答が多少遅れそうになったが、ここは協力的な親友が受け答えをしてくれるらしい。
「へぇ、あの蓮さんが白を使うなんて、海外で心境の変化でもあったの? これまで真っ白な色のモノなんて使ってこなかったのに」
「そ、そうだっけ?」
「うん。それに、何度かニュースで空港にいる写真とか見たことあるけど、黒を使ってたじゃん」
誰に似たのか、無駄に観察眼の鋭い我が妹に親友は劣勢だ。確かに蓮は白一色のモノをもっていない。ただ、芽衣がニュースサイトで蓮の写真を見ていたということには少々驚いた。蓮の口ぶりからすると、あの件以降はあまり会話がなかったようだし。
まあでも悪いことじゃないからいいか。なんだかんだ蓮も嬉しそうなんだから。
「い、家にあったやつを適当に持ってきたんだよ」
「じゃあ蓮さん、中身みせて?」
「それは無理だな。お、お子様には見せられないモノも入ってるし……」
何かを決意したかのような様子を見せた後にとんでもない発言をした親友に、いつもの完璧なイケメンオーラはまったく感じられない。というか何故そんな自爆戦術みたいなことしたんだ?
「は? お兄ちゃんにおかしなモノ見せてないよね?」
「も、もちろんです!」
笑顔が完全に消え、汚物を見るような冷たい視線を蓮に向ける芽衣。背筋が凍り付いてしまうほど極寒を感じさせる瞳に対して震えあがり、ガクガクと振動しているわが友。気のせいであって欲しいが、ビビりながらもどこか恍惚とした表情が垣間見えている。
マジで何があったんだ、こいつ?
多少引いてしまったが、おそらく気のせいだ。気のせい。今は優先させるべきことがある。
覚悟を決めてフォローしようとしたそのとき、思わぬところから助けの手が差し伸べられた。
「ねえ、芽衣は何をそんな気にしてるの? さっきからせんせーたちに質問ばっかしてるけど……」
「え、そんなの決まってるじゃん。二人が女を連れ込んでないかの確認だよ。なっちゃんは疑問に思わないの? お兄ちゃんの背中から女の人っぽい匂いがすること」
「嗅ぎなれない匂いってそういう……。まあなんというか、せんせーも大変だね」
呆れ気味に芽衣へと言葉を返し、憐みの目で此方を見る教え子。男二人の様子があまりに情けなかったのだろうか、助けに入ってくれた彼女はやれやれといった表情をしていた。
「え―、なっちゃんも手伝ってよ―」
「イヤ。というか、せんせーは早く別の服着て」
ここで協力されると負け確定であったが、教え子はそっけなく拒否してくれる。そしてそこに付け加えられた言葉に、今更ながら自分の格好を認識した。
ずっと上裸だったと。
「……あ、すまん」
小さな声で謝罪し、いそいそとクローゼットに向かって少しだけ扉を開ける。位置関係と角度的に芽衣と夏葉から中は見えないだろうが、急いで着慣れた T シャツを手に取り、蒸し暑い内部で待ってくれている美咲へと囁くような声で謝った。
「ごめん、美咲。もう少し我慢してくれ」
「う、うん」
扉を開けた瞬間に芽衣が言うところの女の人っぽい匂いが香り、まさかこの服にも匂いがついているのだろうかと少し不安になる。
というか美咲の様子は見えなかったけど、なんかすげえ艶っぽい声の返事だった気がする。
いやいや、今は目の前のことに集中だ。
頭を軽く振って煩悩を打ち払い、女子高生二人の会話に耳を傾ける。
「なっちゃんだってコレ匂ったら分かるって! ほら」
「なっ! ヤメッ……」
無理やり俺の着ていた服を鼻に押し付けられる教え子。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。とはいえ、これでほだされてしまう可能性もあるので気は抜けない。
「ね、これでわかったでしょ?」
「……確かにいつものせんせーの匂いじゃないけど、だからって飛躍しすぎ。というかせんせーと神堂さんって久しぶりに会ってるんだよね? そこに入れるような女の人とかいるの?」
「むむ……たしかにそうかも。二人と仲の良い異性とかワタシくらいだし、まさかそういうサービス使うとも思えないし、考えすぎだったかも……」
「さっきから話も進んでないし、何しに来たの? アタシも暇じゃないのに朝から連れ出されてるんだけど?」
ムスッとした表情で苛立ち気味に妹を糾弾する教え子が頼もしく、また少し怖かった。
夏葉にあんな感じで責められたら心が折れる自信がある。
とはいえ、やはり夏葉は頭が回る。芽衣から聞いたであろう話からここまで察することができるのだから。偶然の出会いがあったため結果としては間違っているのだが、俺は素直に感心した。
如何せん芽衣が暴走しているので、夏葉が冷静すぎるように見えてしまう。同い年なのかと思うほどに。しかしまあ仲良くしているのならそれは問題ではない。今もなんだかんだで雰囲気は悪くないし。
「ごめんって! お兄ちゃんの住んでるところ知れたんだからそれで許して?」
「べ、別に知ったところで何も変わらないし」
「やっぱりなっちゃん可愛いなぁ」
「うるさい! それで、結局何しに来たのよ……。無理言って掃除までしてもらって部屋にお邪魔して」
「う―ん、お兄ちゃんの様子見と、頼んでたものの受け取り。あとはなんとなくの違和感で突撃した感じかな? なんか蓮さんの様子が変だったから何かあったのかと思って……」
うん、いろいろ蓮のせいだということが分かったな。どういうわけかわが友は妹との距離の取り方を見失っているらしい。久しぶりに会ったこともあるかもしれないが、邪推してしまうのも仕方ない状況である。
女子高生二人のやり取りを眺めている親友を一瞥し、俺もそちらへと意識を傾けた。
「はぁ。もう少し周りに配慮とかないの? ホント、せんせーが絡むと芽衣はダメね。ほら、他になにもないなら帰ろ? 話ならアタシが聞くから」
「むぅ、なんかなっちゃんがお姉さん面してくる……。もう義姉気取りですか?」
「変なこと言ってないでほら、足を動かす!」
「……仕方ないかぁ。あ、蓮さん、例の件ありがとね。それとお兄ちゃんはもっと蓮さんと連絡とらないとダメだよ? 友達いないんだから大切にしないと! あとこの服は洗濯機に入れとくね―」
最後まで自由奔放で嵐のように場をかき乱していった妹は、夏葉に促されて仕方ないといった感じで出て行く際、おせっかいな助言と気になる発言を残していった。
「……余計なお世話だ。というか例の件って?」
「頼まれごとしてたんだよ。結人が気にすることじゃないさ」
「? それならいいけど・・・」
どこか名残惜しそうに部屋のドアの先を見つめる蓮に、先ほどまでのおかしさは見られない。俺としては少し複雑なのだが、これは介入するべきではない事柄だと思った。妹の心情は分からないし、もう少し大人になってから考えるべきことだと感じたから。
思考に耽っていると、芽衣の退出を確認した夏葉が俺たちに謝罪してきた。
「久しぶりの再会なのに色々引っ掻き回してすみませんでした。せんせーは夕方から家庭教師よろしくね」
「あ、ああ。また後で。助かったよ、夏葉。ありがとう」
バイトに行くとき何かお礼でも買っていこうと決め、感謝を伝える。謝らなければならないのはこっちなのに頭を下げてくれた教え子は、俺と蓮の邪魔をしたと思っているのかもしれない。
優しい彼女はきっと俺のことを考えてそうしてくれたのだと、自意識過剰だと自覚しながら思った。この後に続いた言葉にもまた、そう思ってしまう。
「どうしたしまして。でもまあ事情はどうあれ疑われるようなことしない方がいいよ? せんせーのことを大切に思っていろいろやってくれてる妹なんだから」
「……分かってるよ。いろいろ気遣わせて悪いな。芽衣のこと頼む」
「はい、任されましたっと。じゃあまた後でね、せんせー」
「ああ」
向日葵のように眩しい笑顔で小さく手を振ってくる教え子に、救われた気がした。
蓮に語ったことは間違なく本心だと、改めて再認識する。
ドアの向こうに消えた教え子の背中を見つめながら、どうしようもない自分に内心でため息をつくことしかできない。
「助かったな……。あの子すげえよ。初対面だけどめっちゃいい子なんだって分かったぞ」
「ホント、そうだよな。だから俺はどうしてって思うんだよ……」
どうして俺なんかのことを思ってくれるのか、って思わずにはいられない。情けない話だが、俺にはまったく自信がないのだ。これまでの人生で積もった後悔と自己嫌悪が、己を認めさせない。認めてもらえると思えない。
「……結人。選択はお前次第だけどさ、そのためにもまずはお前自身が前に踏み出さないといけないぜ?」
その通りだ。美咲と和解して多少前に進めている気はしているが、根本的な問題はほとんど解決していないのだから。
弱い俺の隣で支えてくれる友人の優しさを、改めて大切にしなければならないと思う。そして同時に、俺も親友を支えられるようになりたいと、切に思った。
「ああ、そうだな。いまの俺じゃあ答えは出せないし、出せてもそれが間違ったものになるって決まってるから……。でも大丈夫、前に踏み出す覚悟はできてるし、頑張るから」
「分かってるならいいや! あ、もう御影も出てきていいぜ? そこ暑いだろ」
「う、うん。でもそのまえに結人、シャツ一枚借りてもいい? 汗かいちゃったから」
当然だ。隙間はあるといっても、普段から締め切りなのでクローゼットはけっこうな温度になる。さっき少し開けただけで美咲の匂いが香ってきたことから、過酷な環境で待たせてしまったことは分かっていた。
「いいよ。サイズは合わないかもしれないけど、好きなのどうぞ」
「ありがと」
多少大きい俺のシャツを身にまとった美咲がもともと着ていた服で汗を拭いながら出てきた。少しその姿に見惚れてしまったのは男として仕方ないことだと思う。
冷房の効いた部屋の涼しさに表情を緩めいている彼女に、俺は真剣に謝罪した。
「美咲、ごめん。芽衣と話をつけられなくて。たぶん今のままじゃダメだと思ったのもあるけど、夏葉もいたからそれで……」
「分かってるから気にしないで? 御影も今じゃないって思ったから」
どこか影のある表情ではあったが、そこには覚悟のようなものが見て取れたため大丈夫だと判断する。ただ、きっと俺という人間はこうやっていろんな人を傷つけながら進むのだろうとも思った。
それでもこのままの状態だと絶対にみんなを傷つける。それなら前に進んで、自分なりの答えを見つけながら傷つける方がまだマシだ。好意に甘えている現状を打破するためにも、今は考えるより行動が大切なのだろう。
だからやりたいことを考えながらやっていく。これもそう。おせっかいだと言われても、俺は俺の在り方を貫いたうえで前に進みたい。
「そう言ってくれると助かる。よし、気を取り直して今後の方針会議でもするか」
「おう!」
「うん! 」
トラウマを植え付けらえた相手でも、困っているなら助けたい。できることがあるなら、力になりたい。初恋の人だからという理由は我ながらおかしな気もする。だけど、きっとそれも成長と変化に繋がる気がするのだ。
「あ、でもその前にシャワー借りていい?」
申し訳なさそうにそう告げられた俺は、もちろん縦に首を振るのだった。
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