特別編 If

If-1. バレンタインデー

・夏葉の場合

 

 「ねぇせんせー、今日が何の日か知ってる?」


 「バレンタインか?」


 短時間で勉強を終えてからプレイしていたゲームにひと段落ついたところで、いつものように教え子から唐突な問いかけをされた。俺もこの流れは慣れたもので、特に困ることもなく答える。年頃の男なら今日という日を意識しないわけがないだろう。


 「そうそう。だからこれあげるね。えっと……一応手作りだから味の保証はできないけど。おいしくなかったら捨ててもいいから」


 机の上に隠すような状態で置かれていた可愛らしい包装の箱を差し出し、恥ずかしそうに手作りということを告白する夏葉は可愛い。そう、すげえ可愛いのだが、俺にはこれが演技だと分かってしまう。あざとさが隠しきれていないのだ。


 けれど俺も大人だ。いちいち気になる点を指摘したりはしない。


 「そんなことするわけないだろ。ちゃんと全部食べてお返しするよ」


 「あ、せんせー、そのお返しの件なんだけどさ!」


 ……あ、解答間違えた。この待ってましたと言わんばかりの表情と物言いには覚えがある。簡単なトラップに引っかかってしまった獲物の気分になるこの感じ。掌で踊らされていた気になってくる。


 「……嫌な予感しかしないんだが」


 「去年の芽衣へのお返しは二人きりで温泉旅行だったらしいし、アタシもそれがいいなぁ」


 芽衣のやつめ、いらないことを言いやがって。仲良くなったのは嬉しいが、どういうわけか俺が困る情報ばかり二人で共有している気がするんだが。


 というか、温泉は芽衣が勝手に予約して半ば強制的に連れて行かされただけで、俺の意思ではないのだ。それに妹だから問題なかっただけで、夏葉と同じように旅行するのは大いに問題がある。


 「いや、それは無理だ。犯罪者になりたくないぞ、俺は」


 「芽衣はよくてアタシはダメなんだ……」


 「そんな顔してもダメだからな。芽衣は妹だから問題なかったけど、夏葉の場合は完全にアウトだし」


 「……このシスコン変態家庭教師」


 言葉の棘が痛い。視線も痛い。あと、教え子に罵倒されることで何かに目覚めそうな自分が怖い……。


 とはいえ、犯罪者になることの方が恐ろしいのでここはきちんと断っておく。


 「何を言われても無理なものは無理だからな」


 「むぅ、分かってるけどさぁ……。あっ! それならうちで徹夜ゲーム大会しよっ!」


 「……それなら大丈夫、なのか?」


 名案が浮かんだ様子で一気に機嫌を良くした夏葉。こういうところは年相応に可愛いんだよなぁ。いつもはいろいろ分かった感じであざといけど。


 でもまあ、こんな顔をされたら断れない。たぶんこの案なら警察案件ではないはずだ。


 「大丈夫だって! 家にはおじいちゃんたちもいるし!」


 「はぁ、分かったよ……」


 それもそうだよな。家庭教師の延長みたいなものだし、問題はない。うん、きっとない。


 「よし、決まり! なにしてあそぼ―かなぁ」


 その日を想像して色々とプランを考えている教え子の可愛い姿を見つめながら、俺はどこかふわふわした気分で手元のチョコレートから感じる温かさを噛みしめるのだった。



・眞文の場合

 

 「あ、あのっ、結人くん! いつものお礼にチョコレート作ったんだけど……も、貰ってくれますか?」


 いつものバイト終わり。店じまいをして夕食をご馳走になろうかというタイミングで、ふみちゃんからバレンタインの手作りチョコを手渡された。恥ずかしそうに、けれど勇気をもって差し出された天使のギフトに感動しつつ、心が浄化されていくことに気が付いた。


 ただ、ここで期待していなかった振りをしてしまうのが俺である。本当は貰えるかどうかドキドキしていたにも関わらず、まるで今日という日を意識していなかったかのように振舞ってしまう。我ながら情けないが、ふみちゃんに対してはかっこつけたいのだから仕方ない!


 「あ、そうか。今日って……」


 「……うん、バレンタインだから」


 ああ、マジで可愛い。天使だ。


 一つ一つの動作がいちいち可愛いのは何なんだろうか。緊張した感じで視線を下に向けて小さく頷きながら「バレンタインだから」って。


 かっこつけて知らないふりをした自分が恥ずかしくなってくるくらいの純真さだ。


 だが一度かっこつけると決めたのだからそれを貫くつもりの俺である。


 「もちろん有難く頂戴するよ。ふみちゃんは料理上手だし、見た目も美味しそうだ」


 「……そ、そうかな? でも美味しく食べてもらえたら嬉しいな」


 「うん、ホントにありがとう。それで、お返しなんだけど、何か希望とかあるかな?」


 「えっと、そんな特別なこととかしなくても普通にクッキーとかチョコレートでいいよ? 私のはいつものお礼だし……」


 「それでも嬉しいからさ、何かふみちゃんの望むお返しをさせて欲しくて」


 「結人くんがそういうなら……。あ、そうだ。また涼介の練習見てあげて欲しいかな」


 願いを口にしてくれたのは嬉しい。でもそれはふみちゃん自身の望みとは言えなかった。


 「……俺でいいならいつでも見るけど」


 「うん、そういうことでお願いするね」


 「…………」


 「私はいつも結人くんにたくさんのものをもらってるから……だから、ね?」


 何をどのように伝えればいいのか分からず黙ってしまった俺に、母が子を諭すかのような優しい笑みで語りかけるふみちゃん。そこには遠慮や我慢といった感情などなく、本心からそう思っていることが伝わってきた。


 俺なんかが何かをあげられているのだろうかと、本気で思う。でもまっすぐな瞳でそう言ってくれるのなら、ふみちゃんにとってはそうなのだろう。だから彼女の願いをただ叶えればいいのだと、そう思った。


 「よし、さっそく涼介くんに言ってみるか! 前見たのは高校入学前だったし、どれだけ上手くなってるかな」


 「あんまり分からないけど、もう試合には出てるみたいだからそれなり……なのかな?」


 「……うん、何を教えられるか分からないけど頑張るよ」


 もともと上手かったけど、やっぱり成長が早いなぁ。あんまり年は離れていないはずなのに、いかに自分がおっさんになったか理解させられる。


 もう教えられることはないかもしれないなぁ、と思っていると、その俺を見たふみちゃんが可愛い小さな笑顔でフォローしてくれた。


 「涼介の方から頼みたそうにしてたから練習に付き合ってくれるだけで喜ぶと思うよ。結人くん忙しいだろうからって遠慮してたけど、前見てくれたときに色々教えてもらえてうれしかったみたい」


 「これでも高校時代にはコーチっぽいことしてたから頑張ってみるよ」


 「うん、お願い!」


 この笑顔を裏切ることはできない。だからこそ本気で涼介くんの力になってやろうと決意する俺。


 溶けてしまわないように貰った袋の端の方を強く握りしめながら、これ以外にもきちんとお礼をして日頃の感謝を伝えなければならないと思った。


 バレンタインに関わらず、こういう行事だからこそ伝えられる思いがあるのだと、今まで妹からチョコを貰うだけだった何でもないこの一日を、俺は少し好きになったのだった。



・穂香の場合

 

 「はぁ、やっぱり頭使った後は甘いものに限るよね!」


 「……本当にお疲れさまでした」


 俺の所属する大学ではバレンタインデーの時期に卒論・修論の発表会が開催される。今年はその日が平日であり、世間が多少賑わうこの日が発表会当日となった。もちろん教員は参加することが義務であり、来年に卒論を控える俺も先輩方の発表を聞くために参加した。聞くだけの俺はともかく、桜井先生は質問もしなければならない立場である。


 今年から指導学生を受け持った彼女は卒論の指導が来年からで、今回はそれほど忙しくない。それに加えて学生と年が近いため、周りの先生から質問を求められていたのである。


 「来年はもう少し楽かなぁ」


 「自分の指導がありますよ?」


 注文した甘味が来るまでにはもう少し時間がかかりそうなので今は雑談タイムである。


 「四条くんのことは心配してないよ。今日だって他分野の発表も理解してたみたいだし、いろいろ突っ込みたそうにしてたから、あれくらいなら簡単にこなせるよね?」


 「……はい。でも他人と自分は違いますよ。ダメ出しは誰にでもできますし、上手く伝える技術をきちんと学ばないとどれだけ自分で理解していても意味がないですから」


 「ホント、四条くんって大人びてるよねー」


 「……」


 何度も言われたことだが、俺は年齢詐称などしていない。いろいろあって精神的に成長しただけだ。とはいえ、からかうようなこれはいつものやり取りである。先生だって本気で年を誤魔化しているとは思っていないはずだ。


 「お待たせしました。こちらチョコレートパフェとガトーショコラです!」


 そんなことを考えていると、明るい女性店員が頼んでいた料理を運んできた。


 「ありがとうございます」


 「ごゆっくりどうぞ」


 微笑ましいものを見るような感じと、どこか羨ましそうに見るような感じが、その店員から漂っている気がする。カップルだと思われたのかもしれないが、事情を知らなければそう思われても仕方ないだろう。


 今日はバレンタインデーで、注文したのもチョコ系だし。


 いや、仕方ないじゃん。お店がここぞとばかりにチョコレート推しなんだから。


 そんな感じに店先で大々的な広告がされているため、先生もそういう意識はあったようだ。


 「あ、そういえば今日ってバレンタインだよね。いつもみたいにおごるから、これが贈り物ってことでいい?」


 「え、まあ、はい。先生がそう言うならそれでいいと思いますよ」


 教員からチョコレートを貰うのも変なので、こういう形でチョコを貰えるのは有難い。ただ、あまり異性にチョコを貰った実感は湧かなかった。それが表にも出てしまい、少々そっけない返事をしてしまったせいか、ジト目で非難されてしまう。


 「もっと嬉しそうにできないかなぁ。異性にチョコ貰ったんだよ?」


 「いつもありがとうございます。嬉しいんですけど、先生と飯にいくと毎回おごってもらうのであんまり特別感がなくて……」


 事実を述べたところ、それもそうかと納得した様子で考え込む先生。だがふと何かを思いついたのか、美味しそうにパフェを食べていたその手をこちらに向けて差し出した。


 つまりパフェを食べさせようとしてきたのである。


 「そ、そういうことならこれでどう? はい、あーん」


 「……なにやってるんですか?」


 いや、まじで。失礼だがアホかと思う。それほど大学から離れているわけでもない喫茶店で誰が見ているかも分からないのに、よくもまあこんなことができるな。


 「食べさせてあげれば特別感出るかなって」


 「……はぁ」


 思わずため息がこぼれてしまったが、こればかりは許してほしい。この指導教員は考えが甘く、立場的に俺は強く言えないのだから。


 「憐みの目でため息つかないでよ! これでも少し頑張ったんだから!」


 「はいはい、分かりましたよ」


 とはいえ、差し出されたなら受け取るのが礼儀だ。可愛く怒る、年下にも思える指導教員が頑張ってやったことなら、俺が逃げるのは失礼というものだろう。


 目の前にあるスプーンへと口を持っていき、そこに乗ったパフェを口に含む。うん、甘いけど美味い。ガトーショコラも程よい苦みと甘みのバランスで美味しいが、こういうのもたまにはいいと感じた。


 「……ホントに食べるんだ」


 「何か問題がありましたか?」


 自分からやっておいて呆けるのはおかしい。確かに少々気恥しかったが、先生のダメな部分を知っているせいか何でもありな気がしていた。


 「な、なんでもない! と、とにかくチョコ上げたからホワイトデーのお礼期待してるわ!」


 慌てて言葉を並べても動揺は見え見えだ。しかしお返しの話題を出したのは運がよかったかもしれない。俺はそういう部分をきっちりさせたい人間なのだ。


 「欲しくないもの渡してもお互い不幸なので、どういうお返しがいいか教えてください。もちろん自分にできることに限りますけど」


 「じゃあ四条くんのチョイスでいい感じのバーに行って美味しいお酒飲ませて!」


 弱いのにどうして飲みたがるのか。ストレスは分かるが、このまま逃げていても解決はしないというのに。そして何よりも、ここ最近は毎回泥酔しているというのに。


 「お酒は構いませんが、それならバーではなく先生の部屋にしましょう」


 「ふぇっ? ななな、なんで私の部屋なのっ!?」


 「飲み会の度に介抱して送り届けるこちらの身にもなってください。どうせ送りに来るならこの方が楽なんです」


 「そ、そういうことね。それなら私好みのお酒を用意してほしいかな」


 何を想像していたのかは予想できたが、俺にそんな度胸はない。というか、何度も部屋まで酔っぱらいを送り届けているのだから、そういうことをやろうと思えばいつでもできたわけで、そろそろ人畜無害であることを理解してほしい。


 とはいえそれを直接伝えるのも面倒なので、自ら地雷が埋まってそうな話題には飛び込まず話を続ける。


 「まあだいたい先生の好みは分かっているので、色々調べて準備はしますよ」


 「……どっちが年上か分からないわね」


 「先生のそういうところ、可愛いと思いますよ。まあ先生らしくもっとしっかりしてほしいこともありますが……」


 「……むぅ、年下のくせに生意気な学生ね」


 こんな感じで他愛もない会話で盛り上がっていると、周りから見ればカップルに思われてしまうのかもしれない。さっきの店員さんもチラチラ様子を窺っているし。


 まあ学生と指導教員が仲良しでも問題はないだろう。一応周囲を確認しているが、大学関係者もいなさそうだ。先生の立場が悪くなるような状況になれば問題だが、そうならないように立ち回ればいいだけである。


 バレンタインのチョコであるガトーショコラをときどき口に運びながら、送り主の話に耳を傾ける。端から見たとしたら甘いこの空間で食べるガトーショコラは、何故かいつもより苦い気がした。


 ただ、こうして誰かと一緒に食べているせいか普段よりも美味しく感じられて、現状を少し特別に感じた俺は、目の前の指導教員に気付かれないよう小さく口元を緩ませたのだった。



・芽衣の場合


 「今年はたくさん貰えたみたいだけど、ワタシには関係ないからいつも通りあげるね!」


 「……ありがたいんだけどな、毎年言ってるけどたくさんあっても食べられないから」


 「……お兄ちゃんが妹の愛を受け止めないなんてありえないよね?」


 「と、当然だろ! 可愛い妹が作ったものを食べないなんてことあるわけがない!」


 「よかった……。今年も頑張った甲斐があったよ。はい、ハッピーバレンタイン! お兄ちゃん!」


 「……毎年ありがとな、芽衣」


 妹の愛が重たいなんてありえない。そう、ありえないのだ。お返しにとんでもないことを要求されたとしても、それは兄妹のスキンシップなのだから問題ない。


 そう信じながら、俺はしばらく三食チョコレートを食べる生活を送ったのだった。

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