45. 想定外と視線

 鼓膜を震わせたその声に、一瞬心臓が止まりかけた気がする。高校生のときに何度も聞いた、当時の思い人が奏でる美しい声。


 最後に聞いたのは、恐怖に染まった視線を俺に向けながら、俺にはまったく心当たりのない罪を告発した、小さく震える弱々しい声だった。


 すべてを覚えている。いや、俺は何も忘れられない。どれだけ願っても、何もかもが記憶に残ってしまうのだから。


 同時にフラッシュバックした最後の姿と、振り向いた先で此方を見る彼女の姿が重なる。容姿に変化はなかった。少し色素の薄い灰色の瞳は濡れているのか、街灯の光を受けて輝いてみえる。同じ色の髪は右耳の上で結われ、どこか不安げに揺れていた。


 思わず視線を釘付けにされたのは、その表情に本物の意思と覚悟を感じ取ったからだ。


 俺の視線を受けた彼女が、あのときとは異なる揺れを伴った声を発する。


 「御影の声、覚えててくれたんだ……。君のことたくさん傷つけて、たくさん騙した声なのに。聞きたくもないはずの、嫌な女の声なのに」


 「……」


 一人称が苗字というところも変わっていない。最初は違和感があったものの、いつの間にかそう思わなくなっていたなぁと懐かしい気持ちになる。


 ただ、どうしても彼女の言葉に返事ができない。声を出そうとしても、あのときと同じように空気が漏れるだけ。そんな俺を突き動かしたのは、目の前に立つ美しい女性の瞳に宿った、儚げに揺れる炎だった。


 「あ、あの、御影ね、四条くんに謝って、それから話がしたいの。だから、その、今から一緒に家まで行かせてもらえない、かな……? 帰るところなくて、その……お、お願いしますっ!」


 俺だってあのときから成長している。彼女の言動に嘘偽りがないことはすぐに分かった。そして彼女もまた、ここまでにいろいろな経験をして成長したのだろう。そうでなきゃ、こんな提案を受け入れようなどとは思わない。


 「そっか、御影さんも……分かった。……蓮も、いいか?」


 「……オレは結人がいいなら反対しない。そもそも結人の部屋だし」


 「ありがとな」


 おそらく内心では反対しているのだと、顔を見れば分かる。それでも俺の意思を尊重してくれたのは、蓮も彼女の変化に気付いているからこそだろう。


 俺の言葉と、親友との短いやり取りから状況を察したかつての思い人は、ホッとした表情を見せてから頭を下げた。


 「……えっと、あ、ありがと。それと、突然押しかけてごめんなさい」


 「うん……。それであの、御影さんはいいの? 男が二人いる部屋に泊まるなんて」


 「正直ちょっと不安はあるけど大丈夫、かな。それに、昔のこと考えたら何されても文句は言えないというか……」


 例の件を思い出しているであろう御影さんは暗い影の落ちた表情で過去を悔いているようだった。あの瞬間から今まで顔を合わせてこなかったため、彼女がどのような道を歩んだのかは分からない。けれど、長い月日が過ぎた中で謝罪をするために行動したというのは尊敬できる。蓮との約束を破ってまでこの街に来たことで、現状を手繰り寄せたと言ってもいいだろう。


 「……変わったね、御影さん」


 「そう、かな? 変われたなら、それはきっと四条くんのおかげだよ」


 「……?」


 あれ以降顔を合わせていないのに、俺のおかげとはどういうことなのか。あのときから、御影さんは間違いなく俺の視界に入っていない。


 冷静さを保っているつもりだが、アルコールと急転直下の出来事のせいで正常な思考能力を失っているのかもしれないなと思っていると、眼前の美女は小さく笑いながら俺に近づいてきた。


 「四条くんにとっては当たり前のことだったのかもしれないことが、御影には特別だったってこと、だよ……?」


 「っ!?」


 小さな手が俺の手を優しく包んだ瞬間、心臓が跳ねた。驚いたせいか、それとも別の理由か。それも考えられないほどに鼓動が早くなっていく。交わった視線の先にあるのは、美しいグレーの輝き。彼女の瞳から、これまでに感じたことのない熱が溢れている気がした。初めて俺自身を見てくれている気がしたのは、きっと気のせいではない。


 「なぁ、取り込み中悪いけど、タクシーきたみたいだぞ。帰ってもらうのも申し訳ないし、でかい荷物もあるから乗って帰るだろ?」


 「あ、ああ。そうだな」

 「う、うん。お願いします……」


 どこか生暖かい目で俺たちの様子を見守っていた蓮が声をかけてくれたおかげで、御影さんともども現実に引き戻された。


 夏の蒸し暑さの中でもめちゃくちゃ良い香りがするのは何故だろう。一瞬何かが吹っ飛んでしまいそうだった……。


 いやはや、それにしても不思議なもので、自分でも驚くほどに彼女と話せている。もっと精神的にやられてもおかしくないはずなのに、今はもう普通に話ができるのだ。これもみんなのおかげで前進した証なのだと、俺は確信を持ったのだった。



 短い距離なのに呼び出してしまったことを運転手さんに謝罪しつつ料金を支払い、アパートの前に到着した俺たち三人。車内では蓮が御影さんの暴走をたしなめるという場面もあったが、とにかく部屋に戻ってきた。妹の芽衣が泊まりにくるという事態に備えて広めの部屋にしてよかったと、学内に友人ゼロで人を招いた経験のない俺としては本気でそう思う。


 ようやく本領を発揮しはじめた我が城も、さぞ嬉しいに違いない。ただ、今後ももっと誰かを呼べればいいのだが、あいにく知り合いは異性ばかり。今の俺にはハードルが高い。すまんな……。


 これからどうするべきか悩みつつ現実逃避をしていると、紅一点の御影さんが頬を赤らめて恥ずかしそうにしながら口を開いた。


 「あ、あの……シャワー使わせてもらってもいい、かな……?」


 「「えっ……?」」


 親友と見事なシンクロを決めた俺はさぞ間抜けな面をしているだろう。イケメンの蓮ですら普段は見られない感じだし。


 でもまあ、そりゃあ汗かいたまま過ごしたくはないよな……。


 再び現実逃避しようとしたが、どうしようもない男の性がそうはさせてくれない。


 既に決まっている答えがなかなか口から出ない俺を、二人の視線が射抜いていた。

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