12. それぞれの土曜日-1

 「ふう、なんとか起きれたな」


 目覚ましをセットする余力すら残されていなかった昨夜から考えると、朝の 10 時に目を覚ましたことには自分でも驚きである。


 「風呂入って、バイトの支度して、っと」


 全身を襲う倦怠感で体重が二倍くらいあるような錯覚に陥るほどに肉体は絶不調で、正直このまま寝ていたい。しかし、今日は昼からバイトなので気合を入れて鉛のような体を動かした。



 「まあでも、なんとなくスッキリした気分でもあるんだよな……」


 汗を流してリフレッシュし、冷房の効いた室内で文明の力の有難さを噛みしていると、昨日まで考えすぎによってショート仕掛けていた頭の中が綺麗さっぱり爽快な状態になっていることに、俺はふと気づいた。


 「昨日みたいな非日常が逆に良い刺激になることもあるんだよな。ああいうバカみたいなトラブルがときには必要ってことか?」


 人間、同じような毎日の繰り返しでは精神が疲弊してしまうのかもしれない。考え方次第な部分もあるが、潜在意識的に俺は今の生活をパターン化していたのだろう。


 大学に行く。アルバイトをする。一人暮らしをする。大別してこの三つのパターンで俺の生活サイクルは成り立っていると言っていい。そこで関わる人間は最少人数であり、その小さい人間関係で何らかのイベントが起こったとしても、そういうものだと割り切っていればどんな出来事も三パターンのいずれかに収束する。


 今回のように精神的ダメージを受けることを避けるために人間関係から逃げている俺としては、眠れなくなるほどメンタルが砕かれたのは久方ぶりであり、それによってこの生活パターンが壊れたのだろう。


 「タイミング的に、ある意味ではベストな飲み会だったんだろうな」


 壊した原因が非日常なら、それを修復するのも非日常なのかもしれない。指導教員の本質的な部分を見せられ、呆れながらも介抱して家に送り届ける。こんなことは間違いなく俺の日常になかった。


 「あ、そういえば先生に連絡するの忘れてたな」


 ふとやるべきことを思い出し、スマホを手に取る。するとメッセージ受信の通知が視界に入った。相手の名前が表示されないように設定しているため、アプリを開いて相手を確認する。


 「夏葉から? 今日の家庭教師のことか?」


 それともこの前のゲームのことか?と少々ビビりつつ、六件ほど溜まっているメッセージに目を通す。


 『今日の飲み会楽しかった?』


 『綺麗な先生と二人きりなんて、せんせーにとってはチャンスじゃん』


 『酔っぱらった先生を家に送り届けて、アタシのことたまにいやらしい目で見てるせんせーはどうしたの?』


 『まさかビビって何もできずに帰ったとか?』


 『ねえ、教え子の連絡に既読もつけないなんて酷くない?』 


 『   』


 こっわ!最後とか空白だし……。まあ確かに家庭教師として異性を相手にしているんだから、その家庭教師が女性関係でだらしないというのはマズいだろう。


 夏葉の文章だけ読めば、俺をからかいつつ状況を知るためのものだと予想できるのだが、後半明らかに不機嫌なのは俺がそういうダメな男だと認定したからに違いない。いつもの俺ならこんだけ煽られたら確実に何か言い返しているため、何も返信しないのは明らかに異常であり何かあったと受け取られてもおかしくない。


 「はあ、どうするかなぁ……」


 ここでの返信の仕方によっては、夕方からの家庭教師のアルバイトが地獄になりかねない。ただでさえ夏葉からはゲームのとき以外見下されているというか、からかわれたり面白がられたりしているのだ。ここで上手く誤解を解かなければ、学長の依頼を果たせずクビを切られるかもしれない。


 「ただまあ、その学長から漏れたんだろうし、それはそれで仕方ないかもなぁ」


 昨晩俺が桜井先生の住所を聞くために電話した相手。それは夏葉の祖父である学長先生だ。流石に本人の同意なしで教えるのは渋られたが、先生のためだと説得しつつ絶対に過ちは犯さないという誓約を交わして情報を入手した。


 時間的に家にいたであろう学長が電話で何やら話しているところに夏葉が居合わせ、孫に甘い学長が俺の状況を漏らしたに違いない。


 「とりあえず事実だけ伝えとくか……」


 『返事遅れてすまん

 詳しいことは家庭教師で家に行ったとき話すけど、夏葉の思っている通り俺に寝ている女性に手を出す度胸なんてないぞ

 学長には俺の大学生活をかけて頼んだし、誓って何もやましいことはしてない』


 我ながら情けなくなってくる文章だ。これで分かってくれるかは微妙だが、夏葉はきちんと話を聞いて状況を判断できる人間なので、直接説明すれば大丈夫なはず、いや信じている。


 「よし、送信。次は先生だな」


 これまで連絡が着ていないということは、まだ起きていないのかもしれない。あれだけ酔っぱらっていれば今日はグロッキー状態のはずなので仕方ないが、休日の過ごし方としては最悪と言ってもいい。


 そんな状態からメッセージを確認してきちんと冷静に読めるようになるまでどれくらいかかるか見どころだが、ひとまず昨夜の顛末を要約して送信した。


 「よし、バイト行くか!」


 家にあるもので適当に昼飯を食べ、俺は星宮書店へと向かった。その道中、少し間が空いてしまい癒しが不足していたせいか、いつもより歩くペースが速いような気もしたが、癒しの女神と言える眞文さんと会えるのだから当然のことである。夏葉と会う前に少しでもメンタルを回復させておかないと、もしものときに耐えられない。



 始まったばかりの週末が既に慌ただしく、肉体的にも精神的にも忙しくなることは間違いない。しかし、それすらも今の俺には楽しめるという根拠のない謎の自信が芽生えていた。


 ちょっとした考え方の変化で何かが大きく変わることもある。その学びを胸に新しい日常を始めた俺はこれから、予想をはるかに超える数々の刺激的なイベントに直面することとなるのだが、癒しを求めて気分が高揚している現時点の俺はその苦労を知る由もなかった。


――――――――――――――


 「麗華れいかちゃん、ホントにこの時期に水着買うの?」


 とあるショッピングモールの水着売り場。困ったような眞文の疑問の声に、その幼馴染で親友の笹川麗華ささがわれいかが興奮したように答えた。


 「当たり前でしょ!? 明日のためにとっておきの水着を用意しなきゃ! それにまふまふだって今年は水着きてないでしょ? 閉じこもってたら何も起きないよ?」


 時期的な問題もあって周囲にはほとんど他の客がおらず、売られている水着もセール品ばかりではあるが、麗華は特に気にした様子もなく水着を物色している。そんな彼女の言う「明日」とは、結人が明日アルバイトするイベントのことを指しており、その作品の大ファンである麗華が眞文を誘ってイベントに参加しようとしているわけだ。


 人混みが苦手な眞文自身はそれほど乗り気ではないのだが、強引な親友が連れ出してくれるからこそ、これまで楽しい学生生活を送れているという自覚があるため強く断ることができない。ただ、今はイベントのことよりも麗華が後半に言った言葉が眞文には引っかかったようである。


 「別に私は何も求めてないというか、水着とか恥ずかしいだけだし……」


 「そんなイイカラダしといて恥ずかしがるんじゃない! それを武器にエロい水着をつけて彼のこと誘惑すればイチコロだよ、きっと!」


 普段はあまり露出の多い格好をしない眞文だが、その隠されたプロポーションを麗華だけは知っている。眞文も夏場はそれなりに涼しい格好をしているため、見る人が見ればそのスタイルの良さはすぐに分かるのだが、如何せん静かでおとなしいオーラを纏い過ぎていて、人の目に留まることがないのだ。特に、今日は明るくうるさい麗華が隣にいるため眞文の存在感は非常に薄くなっている。


 人の視線に弱い本人からすればそれは幸いなことだが、そんな彼女に大勢の人間がいる空間で露出の多い水着を着ることなどできるはずもない。


 「……そんなこと、できないよ」


 「今日彼とバイト一緒なんでしょ?明日のイベント誘えばいいじゃん!アタシは勝手に一人で盛り上がっとくし」


 麗華が手に持っている布地の少ない水着を自分がつけている姿と、それを結人に見られることを想像した眞文は、ゆでだこもびっくりの真っ赤な顔になって動かなくなった。


 「もう、可愛いなぁ、まふまふは!」


 楽しそうに笑いながらきちんと眞文に合う水着を手に持った麗華が、動かない眞文を無理やり引っ張って試着室に連行する。


 そんなやり取りをしている大学生二人を、一人の女子高生が眺めていた。


 「あのうるさい人も可愛いけど、もう一人の真っ赤な人はもっと……。せんせーの先生はどんな人なんだろ、はぁ」


 久しぶりに私服を着て外に買い物に出かけた夏葉である。


「まだ返信ないし、こんなことならメッセージ送るんじゃなかった……」

 

 昨夜、家で祖父が何やら電話で話しているところを偶然目撃し、聞き耳を立てていると相手が結人であると分かったため、夏葉はその内容を祖父に尋ねた。優しい祖父は、孫からしてもそれでいいのかと心配になるくらい個人情報をぺらぺらと教えてくれた。


 「若い女性講師と二人で飲み会ってだけでも危ない状況なのに、教員が酔いつぶれて家まで送迎なんて、何も起こらないはずないじゃん。おじいちゃんと約束したせんせーのことは信じたいけど、せんせーだって盛りの大学生だし。アタシのこともたまにいやらしい目で見てるくらいだし……」


 そもそも祖父に聞かなければこのように悶々とすることもなかったわけだが、過ぎし時は巻き戻らない。夏葉は水着売り場で商品を見つつ、スマホのメッセージに既読マークがつくのを待っていたものの、このまま店内を彷徨っていても埒が明かないと思い直してスマホをバッグにしまった。


 「せんせーのことは気になるけど、今はとびっきり可愛い水着選ぶことに集中しないとね!」


 本気になったらなったで、種類の多い水着の中から一つ選ぼうとすると目移りしてなかなか決められないものである。


 「うーん、客観的にアタシにはどんなのが似合うんだろ……。店員さんに聞こっかな」


 「うーん、似合ってるけど、まふまふはもっと大人っぽいやつの方がいいと思うんだよなー」


 誰かにアドバイスを貰うべきか悩んでうろうろしていた夏葉が試着室の近くを通った時、ちょうど試着室の扉が開いた。そこには夏葉の目から見てもあまりスタイルや雰囲気に合っていない水着を着た眞文が恥ずかしそうに立っており、麗華が的確な評価をしていた。


 「だって、私ビキニなんて着れないよ……」


 「あー、もうじれったいっ! 大丈夫だって言ってるじゃん! 男なんて肌出しとけばイチコロだって! もっと自信持てっ!」


 「あの、外野からすみません。この水着とかどうですか?」


 肌の露出を抑えたい眞文に対し、もっと大胆に攻めろという麗華。確かに麗華の言い分が正しいと見ず知らずの夏葉も思うほどに、眞文は素晴らしいスタイルの美人だ。今水着を買っている理由は知らないが、麗華の言い方から色々と察した夏葉は、自分と同じような背景でここにいるであろう眞文が困っているのを放っておけなかった。


 「ビキニタイプでも布地は多いですし、パレオもあります。それにこうやって上から羽織れるオーバーウェアを組み合わせれば、そんなに恥ずかしくないと思いますし、大人っぽくていいんじゃないですか?」


 普段は自分から他人に声をかけることなどしない夏葉だが、眞文に妙な親近感を覚えて思わず口を出してしまった。


 「おー、確かに似合ってるし、なんかエロい!」


 「もーっ、どうしてそんな言い方するの? せっかくいいなと思ってたのに」


 身もふたもない麗華の意見に、眞文が少し怒った様子で文句を言う。そんな様子も可愛いなと夏葉は思った。自分とは異なるタイプの女性だが、男の人はこういう女性に惹かれるものなのかもしれない。もしかしたら、と思わず自らの家庭教師を思い出してしまった彼女だったが、たとえそうでも今は関係ないと考えるのを止めた。彼の周りにはそれほど人がいないことを知っているために、このような美人が彼の近くにいるはずがないと、何故かまったく自信は持てないものの、彼女はそう思うことにしたようだ。


 そんな夏葉の心中など知らない年上の二人は、言い合いはありながらも仲睦まじい様子で水着が決まったことを喜んでいる。


 「冗談だって。ホントにぴったりだと思うよ。それに、まふまふがいいと思ったならそれしかないじゃん」


 「そ、そうだよね……。そ、それじゃこれ買おうかな」


 「おー、まふまふが乗り気になってくれた! これであとはしじょ――――」


 「あ、あの。ありがとうございました」


 名前を言いかけた麗華の言葉を遮るかのように、うるさい幼馴染を無視した眞文は夏葉にお礼を言った。人見知りなところがあるのか、照れながら頭を下げる姿も可愛さが滲み出ていて、それを正面から受け取った夏葉は年上の女性に少々ときめいた。だが、そのことを表に出すことなく笑顔で答える夏葉はかなりの演技はなのかもしれない。


 「助けになったならよかったです。でも、関係ないのにいきなり口出してすみませんでした」


 「いやいや、謝らないでよ! こっちは大助かりなんだからさ。あ、そうだ! まだ水着決められてないならアタシたちも手伝おうか?」


 人見知りな眞文の代わりにコミュ力高めの麗華が話を繋ぎ、水着選びの手伝いを提案した。眞文も同意見であるため後ろで頷いている。


 「え、いいんですか?」


 「もちろん! お礼したいし、かわいこちゃんが良ければだけど」


 「ぜひお願いします! 自分に似合うのってなかなか分からなくて……」


 そうして、水着選び第二ラウンドが始まったのだった。


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