5. 書店でのひと時

 「そういえば、結人さんっていつまで姉ちゃんのこと さん 付けで呼ぶんですか?」


 書店の営業時間終了後、片づけを終えて星宮家で夕食をご馳走になっていたときのこと。夜のシフトに入るときは定番となってきた星宮家の皆さんと囲む食卓で、俺は唐突に疑問を投げ掛けられた。


 声の主は星宮家の長男で眞文さんの弟である涼介りょうすけくんだ。現在高校一年生で、野球部に所属しているスポーツマンでもある。礼儀正しく元気で活発な明るい少年だ。今日もハードな練習終わりだというのに、疲れを微塵も感じさせない様子でどんぶり飯をかきこんでいたが、そこに若さを感じてしまうあたり、俺もそろそろ年なのかもしれない。


 その涼介くんがどうしてこのような問いをしたのかは想像しかできないが、おそらくバイトを始めて二年以上経っているのに さん 付けで呼んでいるのは距離感が遠いのではないかという意味だと思われる。此方としては、敬語で話していたのを止めて普通に話しているだけでも距離は縮まったと思っていたのだが。


 「いつまでって聞かれると難しいなぁ。最初からそう呼んでるし、今更変えるのも違和感があるというか……」


 「姉ちゃんは四条さんから結人さん、結人くんって距離感詰めてますよ?」


 最初はまともに話せなかったことを思えばかなりの進歩だ。率直に眞文さんと普通に話せることは嬉しいし、眞文さんの努力もあって徐々に人見知り自体が改善していることも凄いと思う。眞文さんの方から呼び方を変えて近づいてきてくれたこともかなり嬉しい。


 しかし、一度定着した呼び方を変えるのには勇気がいる。もし距離が近くなったと思っているのが自分だけだった場合、「急に下の名前で呼ぶとか馴れ馴れしいんですけど。何? ちょっと優しくしただけで勘違いした感じ?」とか言われかねない。


 これは一例に過ぎないが、そういうことがある恐ろしい世の中なのだ。ん? 実体験かって? そ、そんなわけないじゃないですか。SNS でそういう話を見かけただけです。はい。


 そういうわけで、俺が自発的に女の子との距離を縮めるアクションを起こすなど有り得ないということだ。


 「確かにそうなんだけどさ、ほかに適切な呼び方が思いつかないんだ」


 「もう、涼介。結人くんを困らせちゃダメだよ」


 とっさの言い訳を聞いて助けてくれる眞文さん、マジ天使。


 いや、待てよ。実際のところこういう機会でなければ呼び方を変えるなんてことは不可能だ。別に今のままでもいいのだが、ここは涼介くんに乗っかってみるのもアリでは?


 いつか眞文さんに相応しい異性が見つかったとき、お互いの呼び方で困るという事態を避けることもできるだろうし。俺も一応男なので、呼ばれ慣れするには打ってつけかもしれない。


 「はぁ。これだから姉ちゃんは……。そうだ、いろいろ試してみましょうよ! 案は俺が出すので、結人さんはしっくりくるか試してください。姉ちゃんもこれがいい、っていうのがあればちゃんと言うこと。いいね?」


 そんなことを考えていると、涼介くんは呆れたといったような表情で眞文さんを見てから、名案を思い付いたといった様子で手を叩き、自らの意見を口にした。


 「ち、ちょっと涼介!? 勝手に決めないで!」


 弟の提案に動揺する眞文さんも可愛いが、実際のところどう呼ばれたいとかあるのだろうか?


 あたふたしているところを見ると、嫌というよりは恥ずかしいという感情が強いのだろう。嫌がられていないなら、俺としてはそれだけでいい。


 「まあ、一度やってみればいいじゃないか。眞文だってその方がいいんじゃないか?」

 「そうね。せっかくのチャンスなんだから、やってもらいなさいな。結人くんさえ良ければだけど」


 ここで二人のご両親から追撃が入った。


 お二人ともおおらかで優しく、所詮アルバイトの俺を一家の食卓に誘って美味しい食事を出してくださる聖人だ。人が良すぎて心配になる部分もあるが、だからこそ俺はその信頼に応えなければと思っている。


 そんな両親が賛同するという展開に、眞文さんも反論できなくなったようだ。此方に助けを求めるような愛らしい視線を向けているが、今は心を鬼にしてやるべきことをやる。


 「確かに良い機会だし、やってみましょうか」


 「結人くんまでっ!?」


 裏切られたという叫びに心は痛むが、それすらも可愛いので止めはしない。


 眞文さん以外の賛成を得た涼介くんが、生き生きした様子で最初の呼び名を口に出す。


 「それじゃ、まず最初は今と近いところから、『眞文ちゃん』で」


 「ま、待って。まだ心の準備が……」


 可愛いのがきたなと思いつつ、展開についていけずオロオロしている眞文さんがスタンバイできていないことを承知の上で、言われたとおりに呼びかける。


 わざと声を低くし、少し大人らしさを演出したのは、ノリノリだったということで許してほしい。


 「眞文ちゃん、これはどうかな」


 「あ、あの、その…………」プシュー


 もともと色白な肌をリンゴなど比にならないくらい真っ赤にして、眞文さんは動かなくなった。その様子を見て、やっぱりこうなったかと呟いた涼介くんが、姉の心配をすることなく俺に言った。


 「こうなったらしょうがないですね。姉ちゃんの反応は気にしないで、結人さん基準で決めましょう」


 「……それでいいのかな?」


 「はい、問題ないです。次は呼び捨てでお願いします」


 仲がいいということで片づけていいものかは疑問だが、この姉弟はいつもこんな感じなので気にしないでおこう。姉のことを思っての行動かもしれないし、まさか自分だけ楽しんでいるということもないだろう。だぶん。


 さて、呼び捨ては妹の芽衣や教え子の夏葉を相手にしているので慣れている。そのときと同じ感じで、尚且つあまり上からにならないような声音を心がける。


 「眞文、大丈夫?」


 「……」


 反応がない。まるで……。


 「次はあだ名でいきますか。姉ちゃんの幼馴染の麗華さんはまふまふって呼んでるので、それでいきましょう」


 どんどんいくなぁと思うと同時に、言いづらいニックネームをチョイスしてきたことに焦ってしまう。予想外の呼び名すぎて、もはや工夫のしようがない。というか響きが可愛すぎて、マジで恥ずかしい。


 「なんか恥ずかしいし、言いづらいんだけど」


 「そうですか? とりあえず言ってみましょう」


 その笑顔は楽しんでるやつが浮かべるものだぞ。乗っかって楽しんでいる俺も大概だが、弟にこれだけ遊ばれている眞文さんには同情する他ない。


 そして俺も一度始めてしまった以上、逃げるわけにはいかない。


 「ま、まふまふ。さっきから返事がないけど体調でも悪い?」


 「……」


 ああ、恥ずかしい。無反応だから余計に。


 「うーん、これはなんか結人さんに合ってませんね。じゃあ次は……」


 俺に言わせなくても合わないってわかっただろ。やっぱり遊んでるな、この子。


 「も―――めて」


 「「「「?」」」」


 涼介くんが次にいこうとして、これまでまったく応答のなかった眞文さんが小さく何かを呟やいた。それを上手く聞き取れなかった全員が疑問符を浮かべる。


 次の瞬間、眞文さんの中で何かが爆発した。


 「もうやめてっ!! 私これ以上は耐えられないっ!」


 これまでに聞いたことがない大きな声をあげて、涙目になりながら自室へと走り去った眞文さん。それを見て申し訳ないという気持ちよりも可愛いなと強く思ってしまった俺はやはり変わっているのかもしれない。


 「あれ、部屋に逃げ込んじゃいましたね。残念ですが、今日はこれで終わりですね。結人さんはやっぱり今のままが呼びやすそうですか?」


 「まあ、そうかな」


 正直なところ、俺としては眞文さんのためになるなら呼び方は何でもいい。今回こうして話に乗っかったのも、それが眞文さんのためになるからという理由が最も強く、自分がどうとかはおまけの理由に過ぎない。


 最近教えられたことだが、俺の選んだ道は他人から見ればおかしいものだろう。でもまあ、今日は俺自身も楽しかったしどうでもいいか。今はそんなこと。


 「今日もありがとうございました。夕食もごちそうさまです。少し日が空いてしまいますが、土曜日もよろしくお願いします」


 「こちらこそいつもありがとう。大学も大変だと思うけど、次回もよろしく頼むね」


 「はい。それでは失礼します。お疲れさまでした」



 昼間の雨や夕方の曇り空が嘘かのような月と星が輝く空の下、岐路についているとメッセージを受け取ったスマホがポケットで光った。


 「眞文さんからメッセージ?」


 『今日はごめんなさい。大きな声出して逃げちゃって。呼び方は今まで通りでお願いします。おやすみなさい』


 律儀だなあと思いつつも、連絡がきたことには少し驚いた。性格的にさっきの行動が恥ずかしくて連絡どころではないと想像していたから。


 「返事は・・・。『分かった。おやすみ、文ちゃん』でいいか」


 今俺の顔は相当気持ち悪いだろうなと思う。自己評価は中の上の顔だが、きっと今警官が俺を見れば職質されるに違いない。


 その後返事はなかったが、そもそも返事を期待していないのでノーダメージだ。


 街灯の少ない夜道を照らしてくれている月が、どうしてかいつもより眩しく見えた。そのせいで満月に近い大きな月の中にも、俺は何も見いだせない。


 「よし、明日も頑張ろう」


 明日も予定は詰まっているし、退屈な夏休みとは言わせないぜ。





 このときの俺は知らない。この夏休みが確かに退屈ではないが、順調に進むこともないということを。


 ただ、それは誰も知らないからこそ面白いのかもしれない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 「えっ!? 文ちゃんってどういうこと!? ……結人くんが考えてくれたのかな?そうなら特別感あって嬉しいなぁ……」


 結人からのメッセージを見て、自室で驚きやら喜びやらで忙しくしていた眞文は、先ほどまでの羞恥心など完全に忘れていた。だからこそ、文字と実際に呼ばれるのではインパクトが違うということに気が付けなかった。


 土曜日、彼女はそのことを、身を以って体験することになる。

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