4. 夏休みと指導教員
人はどうして感情を持つのだろうか。
その命題に正しい答えなど存在しないことは分かっている。しかし、今この研究室の現状を把握した俺にとっては、どうしても考えずにはいられない疑問であった。
(よくもまあ、こんな人間が教授として大学にいられるよなぁ……)
俺は現在、三年生の後期から分属することになった研究室へと挨拶に訪れている。流れとしては、大学の学生用メールアドレスに指導教員から連絡が来たため、連絡を取り合って顔合わせの日時を決定し、まだ夏休みだというのに大学に来たというところだ。
正直なところ、雨が降り蒸し暑い中徒歩で登校するのは億劫だったが、約束をしたのだから仕方ないと諦め、重たい足を動かした。
こうして苦労して訪れた割に、指導教員との顔合わせはすぐに終わった。
もともと担当の講義を受講していたし、研究内容を詳しく知るために分属先を決める前にも話をしていたのだから当然といえば当然か。
ただ、大きなくくりでの研究室には俺の指導教員の他にもう一人、近しい分野の研究を行う男性教授がいて、その人にも指導教員を伴って挨拶をすることになった。
その教授のことももちろん知っていたが、まったく興味がなかったため会話をしたことがなかった。そういうわけで彼の人間性については今日初めて触れたのだが、まさかここまで分かりやすくダメな人間だとは思わなかった。
(ほんと、醜い感情が見えすぎて気分が悪くなる。感情を持つことは勝手だけど、それを他人に押し付けて思い通りにしようとするのは人として間違っているとしかいいようがない……)
簡単に説明するなら、この教授は俺の指導教員である
海外の大学を飛び級で卒業後、大学院に進学して博士号を取得。しかも日本では考えられない 24 才の若さでというのだから驚きだ。そのエリートがどうしてこんな地方の大学で講師を始めたのかは分からないが、とにかく彼女は立場的に上のおっさん教授に嫉妬からくる嫌がらせを受けている。
今年の春からこの大学で教鞭をとっている桜井先生からすれば既に約 6 か月の月日が経過しているが、俺が見る限り春から何かに悩んでいる様子はあったため、今思えばこの嫌がらせはその頃から始まっていたのだろう。
会話の一部始終は以下の通りだ。
「桜井先生。あなたはついこの間まで学生だったんでしょう? そんなあなたが四条くんのような優秀な学生をきちんと指導できるんですか?」
「……はい。大学院生のときには後輩の指導もしていましたし、せっかく私の研究に興味を持ってくれた学生が来てくれたのに私の方から指導を拒否することはできません」
「ほう。それなりに自信があるようですね。流石、その若さで博士号を取っただけはある。しかしそれも本当にあなたの実力かどうかは疑わしいですがね。どうせあちらの教授に媚びを売って、もしかしたら身体まで売って取り立ててもらったのでしょう?」
「そんなことはしていません」
「口では何とでも言えます。いや、でもそうか。あなたの貧相な身体ではよほどの物好きじゃない限り買い手なんていないでしょうね」
「……」
「まあこれからは学生の指導教員としてしっかり励んでくださいよ。それでは、僕はこれから会議なので失礼」
この会話を目の前で聞かされた俺の身になって欲しい。五十路を過ぎた独身ハゲデブ教授が偉そうな態度で、若い女性講師に難癖をつけてセクハラまでする。これから研究室に入る学生の前で普通そんなことするか?
しかもその動機が嫉妬って。桜井先生を見るあの目は憎悪といってもいいくらい嫉妬の闇に飲まれていて、どれだけ学歴コンプを拗らせたプライドの塊なのだろうかと思わざるを得ない。
親子くらいの年齢差がある女性に敵意むき出しで感情のまま嫌がらせをする。この状況を見たからこその、この疑問だ。
人は何故感情を持つのだろうか。
考えても答えは出ないが、今は何か考えに耽っていたい状況なのだ。
「もう、なんなのあのクソオヤジ! ねえ、君もそう思うよね、四条くん!」
さっきから目の前の指導教員が愚痴ばかり言ってきて鬱陶しいから。
「自分のところに分属になった学生が休学して結局今回誰も入ってこなかったからって、こっちに絡んでくるんじゃないわよ」
「……そうですね」
適当に相槌を打つのも失礼かもしれないが、相手が特に気にしていないようなので此方も気にしない。
指導教員の言葉を補足すると、うちの大学では教員一人に対して最低限一人の学生が分属することになっている。そのためクソオヤジこと
正直この桜井先生には男が集まりそうなものだが、講義での態度や研究内容の難しさ、若すぎて抵抗があるなどの理由で人が遠ざかった感じだ。
今の様子を見たらその評価が覆り、学生も近づいてきそうなものだが。
年齢相応の態度で、愚痴を言いまくる今の姿は親しみが持てないこともない。
「それに、なんなのあのセクハラ発言! お世話になった教授を侮辱するような発言もそうだけど、ホントにむかつく! 私だってその気になれば男の一人や二人、簡単に引っかけられるんですけどっ! 確かにこれまで勉強と研究ばっかりで色恋沙汰には縁がないけど、本気出せばきっと……。そう思うよね、四条くん?」
ああ、めんどくせえ。
だが俺はそれを口に出したりはしない。こういう場合の正解は相手を肯定することだ。関係の浅い今の段階なら、何を言っても責任能力などないし本気で受け取ることもないだろう。
「桜井先生は美人だと思いますし、自分は知的な女性っていいなと思うので、大丈夫だと思いますよ」
これは俺の本音ではある。実際この指導教員は美人だ。青みがかった長い黒髪は美しく、それがよく似合うハッキリとした綺麗な顔立ち。身体はスレンダーだが、バランスが取れた美しい線をしている。大学教員としての立場からかフォーマルな服装をしているのもよく似合う。ただ、そのクールビューティーな容姿からは想像できないこの中身が残念に思えて仕方ない。
年齢的には 4 つ上ということで、海外で多くの経験を積んでいることもあってか大人びた印象をこれまでは持っていた。だが御覧のように中身は別だ。年齢相応というか、それより下というか……。
「そうよね! よし、これからは仕事も恋愛も頑張って幸せになるんだから! もしダメだったら四条くんが責任とってね」
「は?」
何言ってんだこの人。
唐突な振りに思わず声が出てしまった。
その俺の様子を見てほほ笑んだ指導教員の顔は、お世辞抜きで美しく可憐な花のようだった。
「ふふっ、冗談よ。四条くんって大人びてるし、どこか自分を隠してるように見えたから、少しからかってみただけ」
「……先生ってこういう感じの人だったんですね。講義のときと全然雰囲気違うじゃないですか」
「あれはまあ、学生に舐められないようにしてるだけだから。これからしばらく一緒に研究するのに話かけにくい教員じゃダメでしょ? あっ、でも、四条くんがあっちの私を好きでここにいるならあっちの態度で接するよ?」
冗談めかして俺をからかう指導教員は、もはや友達かのように距離感が近い。これも海外での生活のせいなのだろうか。
ただ、こういう人なのだと分かれば先ほどの失態を繰り返すことはない。冷静に対処することが可能だ。
「今のままで大丈夫です。自分としてはこっちの方が好みですし、先生だって大学でずっと気を張っているより、素を出せる場所があった方が楽じゃないですか?」
「……四条くんって、浪人生? 今年上かなって思ったんだけど」
失礼じゃないですかね、この教員は。
「現役ですが、もし先生より年上だったら自分は五年間くらい浪人していたことになりますね。自分はそんなにオジサンっぽいですか?」
「ねえ、その言い方だと私はオバサンってことになるのかな?」
「……そんな意図はありませんよ」
やはり言わんとすることは分かったか。まあでもお互い様だろう。
「少し返答に間があったのは気になるけど、そういうことにしておくわ」
ここでやり返そうと躍起にならないあたりは、流石に大人ということか。
そんなことを思っていると、指導教員はどこかすっきりしたような晴れやかな表情で口を開いた。
「今日はこれで終わりにしよっか。せっかくの夏休みだから遊びたいだろうし。雨の中来てくれてありがとね。研究室にくるのは後期が始まってからで、詳しいことも始まってから話す感じで」
その表情に見惚れいていたわけではないが、思わぬ言葉に少しだけ呆気にとられた。
「あの、自分としては明日からでも平日は来ようかと思っていたんですが……。予定もそのつもりで組んでいますし、早く環境に慣れたいので」
「やる気があるのはいいけど、もっと遊んでおかないと私みたいになるよ?」
そんなことを言われても、俺に遊ぶ友達はいない。
「それに関しては心配ないです。先生となら楽しく過ごせそうですから。それに、アルバイトでもいろんな経験をしているので、遊ばなくても案外充実した夏休みを送っていると思ってます」
「そういうことなら明日からでも来ていいけど、あんまり気合入れて早く来ないでね。私がいないかもしれないから……」
目線を彷徨わせてどこか申し訳なさそうにしている指導教員から、その理由を察するのは簡単であった。
「朝、苦手なんですね」
「に、日本が時間に厳しすぎるのよ! 大学教員に定時なんてないようなものだし、ゆっくり来たって誰にも迷惑かけないでしょ?」
そう言って言い訳を重ねる姿は、頼りなくもありどこか愛らしい。
(なんだかんだ楽しくやっていけそうかもな。ただ、それには一つやらなきゃいけないこともあるか……)
外はすっかり雨も止み、明るい太陽が顔を出していた。しかし、まだ太陽を覆い隠そうとする暗い雲が漂っている。
(ホント、どうして感情なんてものがあるのか。そのせいで俺も動かされる)
研究室を出て岐路についていると、どんよりとした暗雲を取り払おうとするかのように鋭い風が吹き始めていた。
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