2. 夏休みとアルバイト仲間

 「おはよう、結人くん。凄く暑そうだけど、大丈夫?」


 「お、おはよう……。ハァ、ハァ。うん、大丈夫。ちょっと遅れそうになってダッシュしただけだから」


 可愛い妹からの尋問に精神は疲弊していたが、いまだにくそ暑い夏空の下、全力ダッシュで運動不足なりの快足を飛ばし、やっとの思いでバイト先の星宮書店へと到着した。


 そこで待っていたのは、この書店を経営している星宮さんの家の長女である星宮眞文ほしみやまふみさんだ。綺麗な黒髪を肩の下くらいまで伸ばしていて、前髪は多少目にかかっているが、大きな瞳をしているので隠れているようには見えない。顔立ちは非常に端正で整っているし、肌も雪のように白い。最初はその可愛さに狼狽えてしまい、話しかけるのにも緊張したほどだ。ちなみに年齢は俺と同学年、同い年で、近くの女子大に通っているらしい。


 そんな眞文さんは人見知りなところがあるため最初はお互いにコミュニケーションが難しいこともあったが、今ではそれなりに会話ができている。ときどき恥ずかしがって店裏に隠れてしまうこともあるが、そういう事情があって俺はこの店でバイトをしているといっても過言ではない。


 その眞文さんがあまりにしんどそうにしている俺を見て、心配そうに口を開いた。


 「め、珍しいね、いつも余裕をもって来てるのに」


 「今日は朝から予定外の来客と失敗があってさ。なんとか間に合ってよかった……」


 「次は何かあったら休むとか、遅れるとか、とにかく連絡してね。もし来れなくてもうちはあまりお客さんも多くないし、私が頑張ればいいだけなんだから……」


 ああ、やっぱり優しいなぁ。眞文さんみたいな女性と一緒にいれるだけで、すげぇ幸せな気持ちになれるわ。


 自分に難しいことだと分かっていても、強がりでも、誰かのために頑張ろうとする姿は尊いものだ。


 こういう可愛い女の子の前だと格好をつけてしまうのが男の性である。普段はあまり積極的に言葉を発する人間ではない俺も、物静かな眞文さんの前では少々口数が多くなってしまう。


 「ありがと、眞文さん。でもだいぶ前からシフトは決まってるし、約束を破るようなことはしたくないから、本当に無理そうなときだけ休ませて貰おうかな。あんまり眞文さんに無理もさせられないし」


 「うん、分かった。あの、その、ありがとね。……ちょっと待ってて。冷たいお茶入れてくるから!」


 はい、可愛い。恥ずかしそうにお礼を言ってくるとことか、照れ隠しで逃げると同時にこんな俺のために飲み物用意してくれるとことか!


 ん? なに? チョロいって? 女性経験のない俺みたいな男はそんなもんだろうよ。


 その童貞である俺が言えることではないと理解しているが、うちの妹とか教え子にも見習ってほしいものである。


 ……いや、自分で思ったことだけど絶対無理だったわ。


 あいつらの場合はあざとく見えるだけだからな。眞文さんは優しく穏やかな心根の人だからこそ尊いのであって、それを真似るだけではどうにもならないんだよ。


「……成長できてるのか? こんな俺でも」


 今となってはこういうことも軽く言えているが、昔はそうではなかったよなと、ふと過去を思い出して思わず言葉が漏れた。


 根深く残っているトラウマを植え付けられた過去の経験だって、そういう人の本質を見極める力がなかったからこその結果であることを忘れてはならない。


 「はぁ……」


 身体の熱さを忘れるくらいの冷たい思考に陥っていたが、あの経験があったからこそ今の自分があって、この環境を楽しめているのだ。


 「やっぱりここは癒しの場だよなぁ。眞文さんは優しいし、お淑やかだし、いろいろと可愛いし。でもこれから平日は夜しか時間取れないだろうし、家庭教師のバイトもあるんだよな。さて、どうしたものか……」


 これからのことを考えるとため息もつきたくなる気分だったが、それも眞文さんが麦茶を持ってきてくれたところまでだった。


 「おまたせ。ごめんね、遅くなって」


 この優しい表情を見ているだけで、心が軽くなるような気がする。


 受け取った冷たい麦茶を勢いよく飲み干し、仕事モードへとスイッチを切り替えた。暑さで暴走していた思考も落ち着き、いつもの冷静さを取り戻したように感じる。


 「ありがと、眞文さん。よし、今日も頑張ろう!」


 「うん。今日もよろしくね」


 美しいその返事を聞いて、きれいな笑顔を見て、俺は改めて思った。


 眞文さんには、いつか良い人と出会って幸せになって欲しいと。


 他人事のように、そう胸の内で願った。


 そのときの俺がどういう表情をしていたのかは分からない。しかし、眞文さんには顔色が優れずボーっとしているように見えたのかもしれない。


 「結人くん、大丈夫? 体調が悪いようなら無理せず休んでね」


 「体調は大丈夫。少し考え事をしてただけだから。でもありがとう、心配してくれて。眞文さんこそ無理せずに、何かあれば俺のこと頼って!」


 「うん、いつも頼りにしてるよ」


 朝から予定外の出来事が起きたり、精神的にも多少揺れてしまったりしたが、ようやくいつも通りのバイトが始まった。


 夏休みに入って一か月があっという間に過ぎていったように、時は止まることなく流れ続け、今現在当たり前の日常もいつの間にか終わってしまうタイミングがくる。


 このいつも通りのバイトがそうでなくなるリミットも、それなりに近づいているのだろう。


 そんな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え。この繰り返しもいつものことだと、自嘲気味に内心で笑いながら、俺は仕事に取り掛かった。


 ―――――


 この日のアルバイト中も特に問題は発生せず、穏やかな一日が過ぎていった。


 一瞬だけ妹が店内を覗きにきた気もするが、気にしないでおこう。目的も分かっているし、あいつもいきなり初対面の人間に話しかけられるほどのコミュ力は持ち合わせていない。


 しかし、その行動力は大したものだ。


「まさか明日の家庭教師のバイト先まで尾行して特定するような真似はしないよな……」


 妹の常識を信じつつ、明日に向けていろいろと心構えをして眠りについたのだった。


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