1. 夏休みと妹

 朝からセミの鳴き声がうるさく響き、この季節の煩わしさを感じさせる。


 今は大学三年生の夏休み。来年の就職活動を考えると、この夏休みが大学生活最後の羽目を外せる長期休暇といってもいい。


 もちろんこの時期から就職活動に向けてインターンシップの予定を入れている学生もいるのだろうが、大抵の大学三年生は大いに遊び、はしゃぐ時期だろう。


 ただ、大学という環境はときに、この長期休暇に遊ぶ予定が全く入っていない、寂しいぼっち学生を作り出す。


 そう、この俺のように。


 「ええっと、このバイトと大学ばっかりでつまらない夏休みのスケジュールはどういうことなのかな、お兄ちゃん? お盆に実家で言ったよね、9月こそは友達と遊ぶ予定くらい入れないとダメだって」


 夏休みも既に半分が終わり、今は9月。4つ下で高校生の妹は夏休みを終え、友人たちと楽しい学校生活を送っている。


 土曜日の本日、わが妹は朝から兄の今後のスケジュールを確認する目的で一人暮らしの俺の部屋に押しかけてきた。一人暮らしの経験は重要だと両親から言われたため、大学は実家から通える距離であったにも関わらず、実家からわずか数駅離れた今のアパートで大学生活を送っているのだが、あまりに近いのでこの妹は気軽にやってくる。そして俺の今月の予定を知った妹は、現在大いに呆れているということである。


 しかし、俺にも言い分はあるのだ。大学に友人がいないのだから仕方がないし、そもそも友人がいなくても俺には不都合がない。友達がいないと寂しいという考え方は誰にでも当て嵌まるわけではないことを、妹は知るべきだ。


 それに、俺にだって友人はいる。一人だけだが。


 「いや、俺に友人が一人しかいないことは分かってるだろ? その唯一の友人の蓮が海外で忙しくやってるんだから、遊ぶことなんてできないんだよ」


 「ホント、なんでれんさんがお兄ちゃんみたいなダメ人間と友達なんだろうね」


 「ふっ、俺の唯一にして無二の親友は完璧超人だぜ? 幼馴染の俺を見捨てるわけがない!」


 「なんでお兄ちゃんが威張ってんの? アホなの? それに、蓮さんがいないことは関係ないでしょ。今はこのつまらないスケジュールをどうにかすることだけ考えて」


 妹の冷たさに正直泣きたくなってきたが、おそらくこれも俺自身のことを心配してくれているからこその言動なのだと信じたい。ただ、発するオーラが怖くて妹相手に委縮してしまう。可愛い顔が台無しだぞ!


 「いや、それはもうどうしようもないといいますか、今更バイトはキャンセルできないので……」


 「だってこんなの全然面白くないじゃん! 夏休みなのに大学行って研究するとか、とんだブラック研究室じゃん! それにバイトだって室内にこもってばっかりでしょ?」


 あらゆる予定を否定されているが、俺自身はどれも楽しみにしているのだ。しかし、あまりにも妹が悲しげな表情で訴えてくるため、自分が可哀想な奴なのだろうかと一瞬だけ思ってしまった。


 まあでも、それも傍から見れば事実だとは思う。だから兄として妹に心配されないよう、自身の考えを伝えなければならない。


 「あのな、芽衣めい。心配してくれるのは嬉しいけど、俺としてはけっこう楽しいスケジュールだからそこまで気にしてくれなくていいんだぞ」


 「……そっか、でも大学行って研究するのはおじさん教授と二人きりで、バイトも周りは男ばっかりでしょ? それが楽しいって、もしかしてお兄ちゃん……。あまりにも女の人に相手にされなさ過ぎて……」


 「ちょっと待て! 変な勘違いをするな! 俺は女の子が好きな年ごろ男子だぞ! それに、俺の周りにだってけっこう女の子がいるんだ。研究室の教員は若い女性だし、本屋のバイトだって女子大生と一緒だし、家庭教師も女子高せ……あ」


 「どうしたの、お兄ちゃん? 怖いものでも見たような顔して」


 重大な誤解をされてはかなわないと、必死に弁明をする中で思わず口が滑ってしまった。これから分属することになる研究室の教員はともかく、これまでバイト先に年齢の近い異性がいることを妹には隠してきたのだ。理由はまあ、その、察して欲しい。


 その失言に気付いたものの、時すでに遅し。


 目の前には、言葉にするのも憚られる形相をした妹がいた。


 だが俺も兄である。ここは大人の余裕をもって対応しようじゃないか。


 「ははっ、可愛い妹を怖がるわけないだろ。あの、その……それじゃ俺はこれからバイトだから……」


 うん、やっぱり無理だ。逃げるが勝ち!


 「バイトは10時からでしょ。まだ出るには早いよね?」


 俺と玄関の間に立つ妹の手には、俺のスケジュール帳。


 尋常じゃない警報を鳴らすわが身を支配するのは、純粋な恐怖と絶望。


 あっ、詰んだな、これ。


 一人暮らしのアパートは当然出入り口が一つのみ。ここは3階で窓から飛び降りる選択肢もない。唯一の逃げ道を塞がれたら逃げ場などない。


 「すべてきちんと説明させていただきます!」


 兄としてのプライドなどくれてやる。今優先すべきは、そんなものよりも時間だ。バイトに遅れないよう妹を説得しなければならない。


 「へぇ、案外素直なんだね。そんなに可愛い女の子のいるバイトが大事なの?」


 まだ9月だというのに、俺の身体はガタガタと震え、歯はカチカチと音を立てている。そして同時に大量の汗もかいている。


 しかし、これは理不尽な事態ではない。


 こうなったのはすべて俺のせいだ。選択を間違えた結果だ。だから俺は今を乗り越えて先に進む!


------------


 結果として、バイトにはなんとか間に合った。だが俺はその日心に誓った。いや、誓わされた。


 芽衣に隠し事をしてはならない(特に異性との友好関係について)。


 よし、また一つ賢くなったな。人間は失敗から学べる生き物なんだ。だから前を向いてこれからも歩いていこう。


 現実逃避気味に、俺は無理やり自分を納得させた。

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