エバーイーター
天地創造
第1話
朝陽が窓から射し込んで、少女は瞼を開いた。
また一日を告げる太陽を恨めしげに睨みながら、彼女は手に持っていたナイフを投げ捨てる。
むせかえる鉄の香りには、もう慣れていた。床や壁に染み込んだ浅黒いシミを綺麗に落とす方法も、ずっと前に身に付けた。
けれどこの部屋にとって、それは在るべきものだった。
乾いて固まった服を脱ぎ捨てて、少女は重たい鉄の扉に手をかける。
「…………明日も、私を殺してくれる?」
少女の言葉には、誰も答えない。彼女に呼ばれた人は、ここにはいない。
腹が減った。
悪魔を呼び出そうなんて考える奴は、大抵が私服を肥やしたいだけの小さい人間だ。だから俺はそいつらを食った。俺を偏食と呼ぶヤツもいるが、好きなんだ。仕方ないだろ。
今回も、俺は涎を滴らせながら魔法陣の上に立つ。二十二本の牙をのぞかせながら、「食うぞ」と脅す。
いつか、王様だったかが俺を呼び出した時、そいつは俺を見て腰を折った。喜びのあまり脳の血管が切れたやつもいた。
二対の黒翼と、とぐろを巻いた尻尾。そして口の端を指で吊り上げた笑顔。これさえすれば、人は俺を恐れる。
俺を見つめる馬鹿な顔した魂の茶碗は、けれどなぜだか目を閉じた。
「ほんとうに?なら、どうぞ」
神でも前にしたみたいにこうべを垂れる女。こんなやつは初めてだった。
「……くだらねぇ。まあいい。お前が俺を呼んだ人間だろ?願いを言え。叶えてやる。対価はもらうけどな」
「どうぞって言ったのに。やっぱり、悪魔って嘘つきなのね」
目の前の小娘は、俺を恐れるどころか呆れて踵を返した。暗がりの中、小娘の髪は青白く眩かった。
「お前、その本で俺を呼んだのか?」
「欲しいならあげる。わたしには、もう必要ないから」
こっちじゃない世界にいた時でもその本は有名だった。辺境に住む悪魔が書いた、魔導の書。著者が行方不明なせいで、今や幻とされた秘術や儀式が載っていると噂の。
「いいのか?別にどこで手に入れたとか聞かねぇぞ?」
「読めないから。貴方を呼ぶ儀式の頁だけ、なんとか解いたけれど」
呼び出した悪魔に興味も無さげに、女は机の上の鉈を俺に向かって放り投げた。
「それで私を割って。あなたたち悪魔は魂を食べるんでしょ?」
目の前にいるのが、人間なのかわからなくなっていた。こんなにも話が通じなかったっけか?
「ふざけんな。んなもん契約外だ。それに、ただお前を殺しても美味くねぇ。俺は汚いもんをもっと汚く賤しく啜りたいのさ」
悪魔への対価は欲と魂。俺以外のやつは、綺麗な人間を堕落させて食うのが美味いと言ってるが、あいつらわかっちゃいねぇ。俺たちは地に堕ちきったのを、土ごと喰らう方が性に合ってんだ。
「お前が死にたいんなら、まずは俺にお前を定めさせろ。そうすりゃ血の一辺残らず喰ってやる」
鉈を噛み砕きながら、俺は破顔った。その時だけ、小娘は眉をあげやがった。
俺たちの部屋は地下にあった。日が差すのは天窓だけで、大半は土の中。小娘は、暗闇で器用に物だらけの部屋の隙間をぬって行く。
朝日を拝むのは、七十年と八日ぶりだ。忌々しいアポロンの加護に照らされた小娘は、闇の中よりも小さく見えた。
「どこだ?ここはぁ?」
「孤児院よ。あの離れには誰も近寄らないよう言ってあるから、心配しないで。それと、子供達の前では私をユーナと呼びなさい」
この小娘、悪魔のルールにやけに詳しい。呼び出した時、契約者以外が見たら喰っていいことも、血名の契約も知ってやがる。
「腹が減った。なんか食わせろ」
「……教会の朝は質素よ」
ステンドグラスとクソババアの像、不味い水と甘ったるい香。礼拝の客がいないだけ今日はマシだ。これで十字架なんて掲げられたら、喉笛を咬みちぎっちまう。
朝っぱらから祈りを捧げるユーナを眺めていると、大きな欠伸がせり上がってきやがった。腹の虫と同時に大口を開けた瞬間、なんか柔らかいものが脚に突っ込んできた。
「あ?なんだ?やんのか?喰うぞ?」
「うっ……!お姉ちゃぁん!」
「なに泣かせてるの?ご飯あげないわよ?」
俺の言い訳など聞く耳もなく、ユーナは泣きじゃくるガキを胸に寄せた。無いくせに無理すんな。
「どうしたの、アーシエ?そろそろ朝ごはんの時間よ?みんなと席に着いてなきゃ」
俺には向けない眼をして頭を撫でるユーナに、はなたれ小僧はしゃっくりをする。そして、ぼろぼろのポケットから袋を取り出した。
「さっき庭の花にお水あげてたら、知らないおっちゃんが入ってきてくれたの。でも、知らない人からもらったのは、まずユーナに見せろってグランマが言ってたから……」
錠剤に粉薬、あまり美味そうじゃねぇな。
子供から受け取った錠剤を、ユーナは噛み砕いた。
「あら、これは苦いお薬よ。とってもね。きっとおじさん、風邪を引いて飲むのが嫌だったのね。ほら、これは私がおじさんに返しておくから、あなたはテーブルに戻りなさい。早く行かないと、グランマにフルーツをとられるわよ?」
代わりにキャンディをガキに渡して、ユーナは背中を押した。聖堂から足音が聞こえなくなったとほぼ同時に、俺はユーナの指先が震えているのに気がついた。
「残りは処分して」
「お優しいこったな。教えてやれよ。お前が貰ったのはお高い薬だったって。つか、お前が壊れちまったら困るんだけど?」
「あの子たちにはまだ早いから。これで学んでくれればいい。……それと、こんな程度じゃ、私の精神も身体も殺せない」
この手の薬に溺れる人間は俺の大好物だった。でもユーナは死なない。あくびの一つでもしている間に、すっかり冷めたブラックコーヒーみたいな顔に戻りやがった。
ユーナは俺をキッチンに連れて行った。待っていたのは喧しいガキが十数人と、死にかけの老婆なんていう、なんとも食指が動かないゲテモノどもだ。
「おっちゃん誰ー?」「ユーナのコイビト?」「背高ーい!」「あ!いま牙見えた!もっと見せてー!」
「やかましい!頭から齧るぞクソガキども!」
牙を剝きだす俺を見て、ガキどもは声を上げて笑った。アーシエだけが、老婆の背中から目だけを覗かせている。だから狙われんだ。
「ねーねー、おっちゃん名前なんて言うのー?」
「あぁ?ねぇよ。俺は喰うもので、俺以外は喰われるもの。必要なのはそんだけだ」
軋む椅子に腰を下ろして、ダークゴールドの髪をかきあげる。老婆は机に肘を置きながら、戯れる俺たちへ微笑んでいた。
食卓の上にある食べ物に手を伸ばそうとするたびに、ガキどもが「みんな一緒に食べるんだよ」なんて言ってくるから、調子が狂う。
ユーナのパンが焼ける頃には、俺の腹は合唱していた。
「ユーナ、おっちゃん名前ないんだって」
「きっとおっちゃんおバカだから忘れちゃったのよ。でも大丈夫。ちゃんと私があげるから。いい、みんな?次からこの怖い顔のおっちゃんは、アスクって呼ぶのよ?」
契約者から名前をもらうのは初めてだった。いや、なにかを与えられること自体、生まれて一度もなかった。
対価も代償もなしの、不思議な契約。でも、悪くない。名前があると、世界に足がつく。
麦をこねただけの味もない塊と、少量の野菜、果物。一口で食べ終えたら、老婆がもっと噛めと言ってきた。ガキどもも併せて、俺にナイフやフォークの使い方を教えてくる。
こいつらは、俺について聞かなかった。人ならざる身を隠せないほど欲深き悪魔。地獄の釜の底まで舐める俺を、恐れなかった。
「食べたら学院へ行くから、支度を済ませておくように。まずは私の時間を知るところから始めなさい」
一人さっさと食べ終えて、二階へ上がるユーナ。見た目は幼いくせに、一丁前に学院なんかへ通ってんのか。
ユーナの準備が終わるまで、俺は聖堂にいた。完璧な悪魔払いの術式が組み込まれた神具の配置に、人だけが快適に感じる風水。呼び出したのが俺じゃなけりゃ、暴れてあいつは喰われてたろうな。
「ここにいて辛くないのですか?アスクさん」
ユーナかと思ったら、扉を開けたのはババアだった。ガキどもにグランマと呼ばれている。
「お前、俺がなんだか知ってんのか?」
「えぇ。昔よく寝物語に聞かされましたから。こうして目の前にすると、やはり恐ろしい。しかし同時に、頼もしいとも思ってしまう」
グランマは語った。アスクというのは、若い頃に読み聞かされた本の登場人物だと。身寄りのない若い娘の元に現れた、「会いに来た人」の意を持つ名前。
この人間から、命の色は抜けかけていた。不味そうな骨と皮だけの体に、欲なんて捨てちまったくらい綺麗な魂。死んでもこいつだけは口に入れたくねぇ。
階段がしなる音が聞こえたかと思ったら、ユーナが制服で降りてきた。こうしてみれば、ただの影がうすい女学生だ。なのに中身と来たら。
「アスクさんは、彼女についてご存知ですか?」
「あぁん?あいつが妙に死にたがりなことか?ふざけんな。俺はギロチンじゃねぇんだ。あんたもあいつのグランマなら、説得してくれ」
「なに話してるの?早く行くわよ。姿は見えないようにね」
二、三度の舌打ちなぞ気にも留めず、ユーナは玄関を出た。
街行く人を見るたび、腹が鳴る。どれだけ喰っても満たされない。喉が渇いて、歯が疼く。目の前で白銀の髪が揺れるたびに覗く首筋が、妙に涎を滴らせた。
学院は広かった。同じ服を着たユーナと同じような歳の人間が、同じ格好でバカの話を聞いている。人の栽培を見るのは初めてだった。
ユーナがいない間、俺は本を読んだ。無限の時間がある悪魔と違って、人はせっかちだ。でも、この中の時間の奔流は俺たちの感覚に近い。間延びしたり、詰め込まれたり。
腹が減ったらネズミを食った。翼を広げて鳥を食った。でも、やはり満たされない。欲が足りない。
日が傾くまで屋上で眼を閉じていたら、いつのまにかユーナが俺の隣に座っていた。
「待たせたわね。でも、今日だけお願い。帰らないのは意外だったわ。貴方って、いい人ね」
顔色一つも変えないで、ユーナは夕日を仰いだ。存外こいつは友が多いらしい。玄関に行くまでに、五人も話しかけられた。
「おい、ユーナ。あの肉付きのいい人間、一口だけならいいだろ?」
「いいわけないでしょ。お願いだから、あまり暴れないでね。子供達が怖がるから」
悪魔に対価のない頼みごとをするなんて。やっぱりこいつはわからねぇ。だが、味が想像出来ないってことは、美味くても不味くても刺激を得られるってことだ。
買出しついでに商店街によった時、もう日は傾き始めていた。街のガキどもが家に帰る時間だ。
「あなたも、あの子達くらい素直だったらいいのに……」
ガキの話をする時、ユーナは少しだけほおを緩ませた。グランマについて訊ねると、舌がわずかによく回った。
だからこそ、俺は不思議だった。こんなやつが、どうして死にたいのか。
「お前、なんでそんな……」
幸せそうなのに。けれど言葉よりも早く、振動と悲鳴が耳を劈いた。
「馬が暴れだしたぞ!」「操者が乗ってない!逃げろ!」「だれか!ヤードを呼んでこいよ!」
車輪が土をまくる音と、蹄が大地を蹴りつける音。猛り狂った嗎が、どんどん近づいてきた。
「まさか、あんなので死ぬなよ?ばかだぞ」
けれど、俺はこいつを理解していなかった。たまたま馬の進路に子供がいた。たまたまガキが腰を抜かした。それだけなのに、ユーナは飛び出した。
とっさに出した俺の手は、虚空をつかんだ。
肉が潰れ、硬い骨が砕ける鈍い音が響く。戦車とも呼べるそれが過ぎ去った後には、人ではないなにかが転がっていた。
過ぎたはずの馬が、家にぶつかって進路を変える。狂った獣は、ユーナだった物を見下ろす俺めがけてやかましい蹴爪を向けてきた。
「喰らうぞ」
音が止まる。全ての生き物が俺を見ていた。そして畏怖し、呼吸を忘れる。
「俺の獲物を、よく俺の前で壊せたな。この街一つ、俺が喰ってやる」
馬を腕だけで押さえ込み、俺は嗤った。契約者がいない今、俺をしばれる鎖はない。
涎が止まらなかった。興味のないユーナ一人よりも、興味のない人間十人の方が馳走だ。
「……だめ。抑えて、アスク」
最初は耳を疑った。生きているはずのない身体、治るはずのない怪我。けれど、そうだ。ユーナからは、魂が見えなかった。
「私は死なない。これが私の、罪だから」
振り向くとユーナがそこにいた。いつも通りの暗い顔で、しかし俺の目を見て。
「はっ。ははっ!はあぁっっ!!最高だぜユーナ!お前は、最高にうまそうだ!」
時が戻ったように、ユーナの傷は癒えていた。
人は永遠を得られない。それは俺たち悪魔が人と暮らせないのと同じで、世界の理だ。
だが、目の前のガキは、あろうことかそのルールを破りやがった。美味そうだとか、そういう次元じゃない。
どうやってその力を得たか。そんなのはどうでもいい。大事なのは、この限りない欲望の果てに辿り着いたこいつは、どんな味がするのか。
「やっとお前を理解できた!やっとお前の味わい方に気が付いた!いいだろう!俺の持つ全てで、お前を殺してやるよ!」
破顔が止まらない。口の端が裂け、二十二本の牙が剥き出しに、世界を飲み込もうと大きく開いていた。
服の泥を払いながら、ユーナは破顔う俺をどんな目で見ていたんだろう。人の魂を舐める悪魔か、自分を救ってくれる天使か。
「それじゃ、アスク。最初のお願い。この十分間のみんなの記憶を喰べて」
「イエス、マイロード」
口の端を吊り上げて、俺は姿を現した。どす黒い瘴気が溢れ、人は俺に刮目する。お預けをくらい続けていた悪魔の腹は、人の記憶で満たされた。
教会への帰路では、二人とも静かだった。俺の腹の虫が鳴き、ユーナがそれを無視する。まあいい。目の前の馳走が機するのを待てばいいのだから。
「お前さ、歳いくつだよ?」
「たぶん三百歳くらいよ。最近数えてないから曖昧だけれど」
「勝った。俺は千だ。まぁ、ほとんど寝てるけどな」
「……あなたはなにも聞かないのね」
あと少しで晩御飯というところで、ユーナは突然立ち止まった。向かった先は人気のない公園。露店でリンゴを買って、俺たちは湖を眺めていた。
「契約は俺がお前を殺すこと。その理由はお前が不老不死だから。他になにを知ればいいってんだ」
「知らない。でも、あなたはやっぱりいい人ね。子供達にも、早く馴染めると思うわ」
「バカなこと言ってると噛みちぎるぞ。魂を食えないのは残念だが、なに、もっと腐らせてからでも遅くはねぇ」
ユーナは裂けた俺の口を縫い合わせた。どうせ破顔う時にまた千切れるのに、「子供たちに悪影響だから」なんてぬかしやがる。
教会の前に着いた時、電気がほとんど点いていなかった。あのやかましいガキの声も聞こえない。
珍しく焦った顔で、ユーナは乱暴に扉を開け放った。
「ユーナ帰ってきた」「ユーナ遅い」「ユーナ……、ユーナっ!」
ガキどもは聖堂にいた。ある者は祈りを捧げ、ある者は目を伏せていた。小さく鼻をすするやつもいる。
目の端にたっぷり涙を溜め込んだアーシェがユーナに抱きつくと、こぞってみんなも付いてきた。
「なにがあったの?今度は庭の木を折った?それともお風呂の給湯器を壊したのかしら」
「ユーナ!グランマが……!グランマがっ……!」
笑顔で子供を撫でていたユーナの目に、一条の闇がかかる。
二階の寝室で、グランマはベッドに横たわっていた。もうほとんど目も開いちゃいない。
「お昼に庭の手入れしてたら、突然倒れたの。それから目開けてない。……ユーナ、グランマ死んじゃうの?」
皺だらけのほおに、歪んだ背骨。笑うと雑巾みたいに顔がくしゃくしゃになる。世紀を跨いだ老人は、もう還るべき場所に半分体を置いていた。
くだらねぇ些事に付き合うのは趣味じゃない。泣きたいなら勝手に泣きやがれ。腹の虫に正直に、俺は台所へ向かった。どうせあいつら、今日はまともな飯を作れねぇだろうし。
俺の耳にはこの国の声が聞こえている。とりわけ近くに死がある人間の声は大きく、強く響く。けれどもその時、俺は誰の声も聞こえなかった。
ただ一人、世界で最も死から遠い人間を除いて。
「正しく死ぬのは怖いことじゃない。本当に恐ろしいのは、誰にも求められずに生き続けることよ。けれど泣いちゃうのは仕方がないわ。だから今日は、グランマが幸せに残りの時間を過ごせるように歌を歌いましょう。ね?」
誰にも知られず悠久を生きる人の言葉は、子供達を礼拝堂へ導いた。耳障りな賛美歌と、眩しいくらい綺麗な魂が震えていた。
「くそがきども、飯ができたぞ。食え。お前らにまで死なれたら困る。俺がユーナを食えなくなるからな」
ガラにもなく、俺はエプロンを着けていた。これはあくまで、朝飯の礼だ。俺たちは対価を忘れない。
「いいにおーい!」「アスクすげー!」「おいしーい!」
一口先んじたアーシェをルフレとかいうガキがひっぱたく。その夜は、銀食器の擦れる音と、咀嚼音だけが静かな教会に響いていた。
ガキどもが寝静まると、ユーナはあの地下室へ足を向けた。「私を殺して」誰にも聞こえない声で、何度も囁いた。
俺は一人、教会の屋根にいた。夜の下で星を観て、月を肴に飲むワインは舌を踊らせる。あくまで俺はユーナと契約を結んだ悪魔。欲しいのはあの子娘の穢れに汚れきった魂だけ。
最後の一滴をグラスごと噛み砕いて、世界を枕に目を閉じる。心地よくなっていると、窓から手が伸びてきた。
「私もそこに行っていいですか?アスクさん」
「落ちたら死ぬぞババア。それに、今日は寒い。仕方ねぇから俺が行ってやる」
グランマの魂は、相変わらず消えかけだ。とても起き上がれる身体じゃない。これだから、人は面白い。
「聞きましたか?彼女、ユーナのことを」
「不老不死なんだってな。グランマと違ってあいつの魂は穢れきってる。さぞ美味いだろうな」
「それはそれは……。私は子供達からグランマと呼ばれていますが、実はユーナが私のグランマなのですよ。孫の孫の孫の……。アスクさん、悪魔は人に不死の呪いをかけられますか?」
「できねぇ。が、やり方を知ってるやつは知ってる。そいつがどこにいるかは知らねぇが」
かつて俺たちの間で伝説とされていた、魔導を極めた悪魔。そいつが書いた世の理を崩す儀式でのみ、人を円環から外れさせられる。
そしてそれは今、俺の手にあった。ユーナが渡したあの本、ぼろぼろでほとんど読めなかったが、悪魔の召喚に関する情報が載ってる本はそうない。
「あの人が人でいられるのは、もう長くない。今はいいが、私がいなくなり、子供達がここから巣立って行けば。きっと彼女は、彼女の魂はどこへも行けなくなる。だから、お願いします。そうなる前に、ユーナを。彼女の魂を、還るべき場所へ……」
息が細い。声が砕けてゆく。俺の手を強く握ると、グランマは眠った。そのまま、彼女は眠り続けた。
グランマの葬儀が終わったら、ユーナは部屋にこもることが多くなった。それでも数日に一度は学校へ行き、誰かと話をした。
相変わらず、あいつは毎日地下室へ行った。なるべく俺も付いていった。ユーナは何度も死んだ。その度に、呪いが魂を引き戻した。
ある時は俺の翼で心臓を貫いた。悪魔の力を使って引き裂いた。喉笛を嚙みちぎり、命を咀嚼した。けれど、果てのない永遠がユーナをスタートラインまで引き戻す。
ガキどもへの飯は、俺が作ることになった。ユーナの飯は不味い。あいつが作ったかぼちゃのパイを食べたら、アーシェもルフレも、キザンもレブラントも、他の奴らもみんながこぞって顔をしかめる。それが面白いから、たまに黙ってユーナが作ったのを食べさせた。
その頃から俺は、かの大悪魔が書いた本の解読に取り掛かり始めた。頁の端はぼろぼろな上に、中の文字も掠れて読みにくい。おまけに使われているのも古代神聖文字。ユーナが紐解いた悪魔召喚の頁を元に、一文字ずつ、ゆっくりと。
「準備しろ。出かけるぞ」
その日はよく太陽が出ていた。窓から飛び込んできた俺を、ユーナが驚いた顔で二度見したのを覚えてる。
「ずいぶん急ね。私今から、学校の課題をやらないと。それに、終わったら庭の手入れと晩御飯の買い出しと……」
「うるせぇ。俺を呼び出した日に、お前は俺を連れ回したよな?これはその対価だ」
「すごいところまで覚えてるのね……。さすが悪魔だわ」
「さっさと行くぞ。もう準備はいい。後のことはガキどもに押し付けた」
指を鳴らし、ユーナの服を可憐なドレスに変化させる。隠り世の銀髪に、青い服はよく似合う。
俺はユーナの手を引くと、窓際に脚をかけ、大きく翼を広げた。
「ちょっ……」
庭で遊んでいたガキどもが、空を舞う俺を見て興奮した様子で手を振った。抱えられたユーナも、笑顔でそれに返す。相変わらず俺には見せやがらねぇ。
教会が豆粒ほどに小さくなったら、俺は速度を上げた。このまま宇宙に放り出せば、あるいはユーナは死んだかもしれない。それでもいいが、つまらねぇ。
渡り鳥を横切って、雲の合間を縫い進む。ユーナの陽に靡く白銀の髪は、どこか神秘的だった。
「どこ行くの?このまま落として死ねるか試すの?答えなさいアスク」
「あ?んなもん今更やるわけねぇだろ。ちょっとした旅行だ。お前はもっと笑え」
口の端を吊り上げて、俺は笑う。いつからか俺はユーナを笑わせるのが、腹を満たすよりも優先になっていた。
俺たちが降り立ったのは、金と黒の歓楽街だった。雑踏に喧騒、金と欲望の入り混じった心地いい匂い。口を縫ってなかったら、道行く人を食っていたろう。
「こんなとこ、初めてよ。なにするの?」
「なぁに、少しばかりお前にも欲を持ってもらおうとな」
三百歳の女学生は、初めての人混みに戸惑った。俺が手を伸ばせば、生娘のように二、三度ためらって、伸ばし返した。
街の中でも一層賑わいのあるカジノへ脚を運び、俺はユーナを勝たせまくった。みるみる金が溜まっても、ユーナは眉の一つも動かさない。
俺は周りの人間の欲望を食った。腐りきった魂から漏れるそれは、飢えを凌がせてくれた。
そこそこ腹を満たしたら、次は音楽と飯の国へ行った。俺は店を三つ分食った。愉悦が喉を越し、欲望が腹に落ちる。
日が暮れる頃、俺たちは小さな島に降り立った。水と緑の世界は、どこよりも静かだった。
「なんで……ここに?」
「古代神聖文字の解読をしようと思ったら、ここが一番だからな。本も揃ってる。この魔道書さえ解けたら、やっと俺はお前を食えるからなぁ」
なんのために理の悪魔が人の文字を使ったかはわからない。けれど数百年前に失われたこの文字なら、確かに秘密の術を記すには適してるかもな。
「アスク、調べるのは貴方だけでもできるでしょ?私は少し一人になっていい?」
「別にいいが、勝手に帰んなよ?殺すからな」
「じゃあ今すぐ船を押さえておかなきゃね」
ため息をついて、俺は図書館へ脚を運んだ。本を読むのは嫌いじゃない。ここには人の欲が詰まってる。
二十五冊を読破すると、古代神聖文字で日記を書けるくらいの知識を手に入れた。これでようやく、この渇きから解放される。
帰ってから本を読み、明日の朝にユーナを殺そう。そしてあの穢れきった魂を食おう。そう思い、ユーナを探した。
白銀の少女は、ツタに覆われた洋館の前にいた。
「帰るぞ、ユーナ。ようやく解けた。明日には殺してやる」
「…………そう。ありがとう、アスク。やっとなのね」
人の住んでない屋敷を見ながら、「すぐに行くわ」とユーナは言った。
晩飯は、世界中から買ったきたお土産だった。この国から出たことのないガキどもは、見知らぬ味に舌鼓をうち、小娘たちはドレスを着て踊った。
ガキの無邪気な欲望は不味い。けど、それでもユーナの作った飯よりかは幾分かマシだ。
夜が来ても、なかなかガキどもは寝付かなかった。ユーナを捕まえて、変わるがわる話をせがんだ。空を飛んだことから、飯の話、音楽や人、アーシェは植物や動物について熱心に。
ようやく音が消えたと思ったら、今度はユーナが俺の屋根裏部屋に入ってきやがった。
「アスク、お願いがあるの。私を殺した後の事なんだけど」
「どうせガキどもの事だろ?しょうがねぇから二十歳までは面倒見てやる。まぁ、でも何人か食っちまうかもな」
「…………ありがとう、アスク」
ユーナは厳かに頭を下げた。
これでよくやく本が読める。完全に破れてしまった頁は最悪復元の呪文を掛ければ戻る。
ユーナを食えることよりも、俺はかの大悪魔が隠し続けた魔導の全てを喰らえることに垂涎した。
『私が彼女と出会ったのは、彼女がまだ十四の時だ。彼女は無数の病に侵されて、あと三日の命だった。
私は彼女を救った。大悪魔と呼ばれた私からすれば、人を助けるのなど気まぐれだった。ただ、少しばかり魂が美味そうだったからだ。
娘はすぐに良くなった。彼女は私に礼をしたいと言った。私は断ったが、毎日書斎に押しかけてくる彼女に負けて、旅行へ行った。
私を悪魔と知らない娘は、何度もありがとうと言った。娘は良く笑う子だ。
彼女は子供が好きだった。よく近所の小さな子と遊んでいた。時折私を誘ってきたが、私の顔は怖いらしい。抱っこをしたら泣かれてしまった。
落ち込んだ私を、彼女は慰めてくれた。少しくらい口が裂けてるなら、私が縫ってあげる。そう言って、口の端を縫い合わされた。
彼女が私の書斎に来る頻度が増えた。ほぼ毎日来ている。そして度に私に、「あなたは子供好きじゃない?」と訊ねてくる。別に好きじゃないと答えると、「私とあなたの子なら、好きになれそう?」なんて冗談めかして笑う。「それなら好きになれそうだ。なにせ、僕は君を愛しているからね」半分だけ冗談だ。「なら、明日から一緒に暮らしましょう。きっと、毎日が楽しくなるから」
私たちはすぐに所帯を持った。だけど私は悪魔。どうあがいても人と共には暮らせない。彼女が骨になっても、私にはシワの一つも刻まれない。
私は全ての魔導書を燃やした。今書いているこの日記だけが、私が残すものとなる。
私が最後に悪魔として行ったことは、私を人の身に堕とす事だった。世の理を書き換え、私は人で在った。
子をもうけ、幸せに暮らした。異変に気が付いたのは、五年を過ぎたあたりから。彼女は一向に老いなかった。もともと童顔だったが、それにしても進行が遅すぎる。
嫌な予感が現実になったのは、嵐の夜だった。彼女は落雷に打たれ、私の目の前で焼け焦げた。目を覆い膝を崩していた私を、彼女が抱きしめたのだ。彼女は確かに生き返った。永遠の呪いと共に。
悪魔が人に恋をして、番いになる。その事こそが禁忌なのだと、今になってよくやく理解した。そしてその罰が、相手に降りかかることも。
悪魔の力を失った私に、彼女を救うことはできない。老いることのない彼女は、それでも私と共にいた。孫が彼女の年を抜いても、彼女は笑っていた。
大悪魔と恐れられた私に出来ることは、見知らぬ誰かにこれを託すという事だけ。悪魔を召喚する儀式だけは、なんとかこの身体でも描ける。
私の愚かな過ちで永遠を生きることになった彼女を救ってほしい。けれど、その方法はあまりにも…………』
その後は破られていた。意図的なのか、風化のせいなのか。
何をするわけでもなく、俺は本を閉じた。
「……魔導を極めた悪魔の最後に記した書が、まさか嫁との日記とはな……」
幸せが綴られていた。笑顔が残っていた。悪魔が書いた人を呪う文ではなく、人が書いた、人への詩だった。
「……三百年越しの願い、叶えてやるよ。簡単だ。俺は悪魔。愚かな過ちも後悔も、全部まとめて喰ってやる」
俺は笑う。どっかのバカへ、渇きを求めるように。
俺はユーナを地下室に呼び出した。昨日も試したようで、壁にはいくつもの斑点模様があった。
「わかったの?私を殺す方法」
「おう。なに、読んでみりゃ別に難しいことじゃねぇ。さすがは世界一の魔導書だ。不老不死を殺す方法も、悪魔を消す方法も書いてある。まぁ、読めなけりゃ意味はねぇがな」
「……永かった。なんて書いてあったの?」
少しだけ、ほんの少しだけユーナのほおが明るくなった。
口の端を吊り上げて、二十二本の牙を見せる。ちょうど、出会った時と同じように。
ユーナは少しだけ笑った。この暗がりじゃよく見えない。
「コーヒーを淹れろ。二人分だ。それでお前は死ねる」
動物が餌をねだるように牙を鳴らす。備え付けのバリスタから、すぐ香ばしい豆が挽かれた。
「悪魔の血を一滴だけ飲む。それでお前の永遠は消える。すぐ死ねる」
あぁ。そうか。もうこいつと出会って一年くらいか。長かったな。
「ただし、その前にお前の話を聞こうか。長すぎるお前の時を、少しだけ喰ってやる。楽しい想い出も含めてな」
「まったく……」
目元が緩み、心音が落ち着く。
ユーナの最初の五十年は幸せだった。夫と子供、孫に囲まれ過ごすのはなににも代えがたい。
百年は闘いだった。奇怪な目を向けられるのを恐れて、四年以上同じ場所にいなかった。そうして彼女は、世界を旅した。
二百年は絶望だった。孫の孫、もう覚えてないほど先の子孫が、ユーナを支えた。悪魔が築いた富で、子孫たちは幸せだった。
グランマの代に、ユーナは孤児院を建て、教会を作った。子供達と触れている時だけ、自分の業を忘れられた。
「最後の一年、あなたと出逢ってからは楽しかったわ」
「俺も楽しかったぜ。なにより楽しみだった。お前という稀有な人間の魂を食うのがな」
「……ほんとうに、ありがとう。アスク」
それは、俺が初めて見たユーナの笑顔だった。
あぁ、そうか。俺はこのために、この一瞬のために千年も空腹に耐えてきたんだ。
「アスク、私はあなたを………………あ」
カシャン、とガラスが割れた音が響いた。コーヒーが床にこぼれて、音が消える。
目の前には、ユーナの真っ白な魂があった。何度ここであいつを殺しても、一度も見られなかったそれ。
やっぱり、人間は簡単だ。俺が少し気を許しただけで、少しばかり笑顔を見せただけで、少しばかり、気が傾いただけで……。
念願のご馳走へ手を伸ばし、俺はためらいなく飲み込んだ。
「…………不味い」
ユーナが消えた後、あいつの残した地下室はぶっ壊した。代わりにガキどもと花を植えた。
ガキどものユーナに関する記憶を、俺は力が残っている間に改ざんした。ユーナは旅人で、一年だけここにいたことにした。その代わりに、俺が親になった。
アーシェはでかくなって、みんなの中心に立った。たまに俺の所へ来ては泣くが、ガキどもの前に出ると顔を変える。
ルフレはお淑やかになった。学院でもモテるらしい。あんなのがいいなんて、やっぱりガキはわかってねぇな。
他のガキも、みんな育った。来年にはこの孤児院を巣立つ奴ばかりだ。
あの日記を、俺はすぐに焼き捨てた。あんなもんあってもロクなことにならん。
見てろよ、ユーナ。俺を見張ってないと、いつ誰を取って喰うかわかんねぇぞ。
「アスクー!ご飯できたよー!」
「みんなで食べるのもう残り少ないんだから、花のお手入れもほどほどに!」
「早くこいよー!」「顔怖いぞー!」「ひげおやじー!」
「うるっせぇ!噛み砕くぞクソガキども!」
飯を作れるようになっても、相変わらずクソガキどもだ。
今日の献立は、りんごのリゾットにほうれん草のスープ。そして中央に、かぼちゃのパイだった。
「アスクが作ったこれ、ほんといつも不味いな」
「芸術的なほどに舌を殺してくるわ。なに使ってるの?」
「でも、僕これ嫌いじゃないよ。なんか懐かしいし、慣れちゃったし」
「黙って食えクソガキども」
響き渡るは団欒と笑い声。
腹が満たされた俺は、静かにナイフを置いた。
エバーイーター 天地創造 @Amathihajime
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