第56話 桃缶の誘惑には抗えない問題

「プリンとどっちにしようかなって思ったから、両方買ってきたよ」



「桃缶をくれ」


「うーん、どうしようかな。風邪引きの時は、何も食べない方がいいんだよね?」



 そうなのだが、桃缶を見てしまうと、欲しくなる。




 子どもの頃の思い出がちらつく。幼少時も、風邪の時は桃缶だった。

 白桃が胃に優しかったのである。




「ちょっとだけ食べようか。缶切りある?」

「台所のカップに立ててある」


 結局、桃缶の誘惑には抗えなかった。


「はーい」

 席を立った琴子が、台所へ向かう。


「開けておくから、汚れた服は着替えちゃって。あたし、着替えがどこにあるか分からないから」

「おう」


 スウェットは、すっかり汗びっしょりだ。


 孝明は洗面所で新しい服を出す。

 まだ寒気が残っているのか、少し身体がヒンヤリする。

 急いで着替えた。


 琴子は、缶の桃を移し替えている。茶碗にだが。


 眠気が迫り、孝明はベッドに横たわる。

 桃の缶詰に刃を突き立てている琴子を、ぼんやりと眺めていた。





 台所に、琴子が立っている。

 琴子が自分の奥さんになったら、この光景が当たり前になるのか。




 孝明は、ただれた妄想を振り払う。


「はい、どうぞ。他の荷物は、冷蔵庫に入れておいたから」

「ありがとう。じゃあ、いただきます」


 琴子と二人、桃缶を食べる。


 琴子の方が量は多い。けれど、琴子なら食べるだろう。


 腹に少量だけ桃を入れ、孝明は薬を飲んだ。


「ちょっとは身体に気を使いなよ。冷蔵庫に何も入ってないじゃん」



 孝明は職業柄、料理をあまりしない。自分の軸で料理を見てしまうからだ。

 なので、必然的に冷蔵庫の中は空く。



 JKに説教されるとは。




「お前はどうなんだよ?」

「あたしはバランスよく食べてますよー。好美ちゃんに教わってさ、お昼のお弁当なんか作ったりして」

「コトコトが弁当?」


 スマホで撮った弁当の画像を見せてもらう。


 想像も付かない。

 多少料理がうまくなったのは知っている。

 とはいえ、弁当まで作るようになったとは。


「この弁当いいな」

 ふりかけをまぶした小さいおにぎりが、孝明にヒットした。


「おっ、反応したな?」


「別に」

 孝明は、琴子から顔を背ける。


「じゃあ、よくなったら毎日作ってきてあげるね」

「でも、時間が合わないな」


 孝明と琴子ではライフスタイルに空きがありすぎる。


「そんなの簡単じゃん。あたしがこっちに住んだら」



「やめろ。それは、考えていても言うもんじゃない」




 急に、孝明の中から熱が冷めていく。




 重苦しい空気になる。



「ごめんなさい」

「あ、すまん。本気にしちまった」



 いつも正直にモノを話すくせが、アダになった。

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