無人へのお題は『さらば、日常・常春の楽園・猫のように丸い背中』です。

 その老女は猫のように丸い背中をしていた。

 見かけるたびに彼女がいつも座っていたのは、その施設で唯一の日差しにあたる、サナトリウムの座椅子だった。ご丁寧に陽だまりが動けばそれに合わせて彼女も移動するのだから、他の入居者からしても、さして愉快な光景ではなかったことだろう。

 彼女が収容されていたのは精神病棟を兼ねた田舎の老人ホームであった。

 元は街外れの小さなアパートの一室で一人暮らしをしていたのが、どうにもままならなくなり、ついでに認知症の極度の悪化に伴って、通常の老人ホームでも受け入れ不可能ということで。行政の手によって、この施設へと送り出されたものであるらしい。

 彼女には他の者と共同生活を送るにあたって、いくつかの問題があった。

 まず一つには、彼女があくびをするたびに時間遡行をするという点が挙げられる。

 たとえば彼女が朝、寝起きにあくびをしたとする。そうすると、周囲にあるベッドやナイトテーブルごと、半日前へと、あるいは二週間後へと時空移動をしてしまうというのだ。

 さようにあれば、まずもっての問題はその時空移動に巻き込まれてしまう介護職員の精神衛生である。急に半日前(あるいは二週間後)の空間へと放り出されて、平常心でいられる者などまずもってしていない。初めてその事象に巻き込まれた若い女性職員は、泡を食って周囲の者に混乱を喚き立てたのち、その喚き立てられて面食らっている相手が別世界線の自分だと気付いて、とうとう意識を失ったのだとか。

 一方、その事態を引き起こした老女当人は、同じ時間軸の自身が差し出したティーポッドの下にカップを差し出し、優雅にお茶を楽しんでいたのだとか。

 つまるところ、その老女はどうもサイキック(超能力者)であるらしかった。もともとは政府の秘密部隊の一員として修行を重ね、陽に暗に世界の命運を背負ってあまたの悪を斬っては捨ててを繰り返していたのが、加齢に伴って正義の味方を引退し、一人暮らしを満喫しているうちにいつのまにか重度の認知症を患ってしまっていたらしいのである。

 しかもその特殊能力が、どうにも一つや二つでは収まらないようなのである。

 彼女の問題の二つめには、他人の考えに介入できる点が挙げられる。

 たとえば、職員が食後の薬を与えようと、彼女のベッドの枕元に水差しと錠剤を置き、彼女がそれら飲むまで見張っている。しかし次の瞬間には、その職員自身が錠剤を口に含み、水差しをぐいと飲み干して、満足気にそれらを片付けるといった次第である。

 そうして何日も不要な薬を代わりに飲まされ続けた職員は、血圧の下がり過ぎで体調を崩し、別の病院へと入院する羽目になる。

 ここで挙げた二つの事例は、あくまで我々が観察の上で確認・記録できた能力であり、彼女が隠し持っている能力のおそらくほんの一部に過ぎない。

 他にも、彼女が入居して以来、その老人ホームでは様々に不可思議な現象が起きていた。

 たとえば他の入居者に出された食事に出された魚料理がふと目を話した隙に、音を立てて跳ね回る生きた魚に変わっていたり。あるいは、夜中にどこからともなくお経の声が聞こえて、泊まり込みの研修医がおそるおそる確認したところ、救護訓練用の人体模型が小型ボイスレコーダーを咥えており、お経はその録音であったのだとか(こちらは該当の老女でなく、他の入居者のいたずらだという説も有力である)。

 かくして、彼女の異常さに業を煮やした当院の理事長が、我々を呼びたて、解決を依頼してきたという次第である。

 我々が手始めに行ったのは、彼女の能力の把握と解析であった。しかしどうにもこれが一向に進まない。

 そもそもは政府の所属であったのだから、政府側が秘匿している資料に痕跡が残っていないのかと探してみる。しかし、当時の資料はほとんどすべて先の大戦で焼失しており、残っていた資料の95%は、不自然な黒カビに侵食され一切読解不可能となっている。残り5%は、いくつかの経費建て替え申請書に彼女の筆跡でサインがいくつか残るのみであった。

 また、彼女を観察するうちに記録した我々の資料自体にも改変や消去が行われている模様であった。たとえば、先日私が徹夜で仕上げたレポートは、一晩明けた翌日には古いドイツ民謡の歌詞へと書き換えられていた。当然、私の頭の側にも、そのレポートにおいて自身が何を書き上げたのか一切記憶がない。

 そのようにして、その老女と我々との間に奇妙な攻防戦が繰り広げられた。

 老女は自覚もないままに、認知症の気ままさでこちらの陣営を意のままにかき乱し、一方こちら側はそもそもの意図を悟られまいと、日常会話にさえ暗号を仕込み、情報の伝達に多大なコストを払うという始末である。

 疲弊に徒労を乗算した不毛なその戦いは数ヶ月にも及んだ。

 しかしこのサイキック闘争は、ある日突然終わりを迎える。

 その老女が消えてしまったのである。

 半日前を思い返してみても、二週間後まで待ってみても。あるいは三ヶ月が経ってさえ、彼女はその病棟から消え去ったまま、二度と姿を表すことはなかった。

 何かサイキック的な事故で、どこか時空の狭間に挟み込まれて動けなくなってしまったのではないかとも心配されたが、老人ホーム側にそれを確かめるすべはなく、しばらくして我々の任は解かれ、何事もなかったかのように老女の消失はもみ消されてしまう運びになるらしかった。

 拍子抜けの結果である。

 しかし一つ首を傾げるのは、どうにも我々の目からしてみれば、その老女は『まったく消えていない』ように思えることであった。

 つい先日、我々が最後の挨拶にと伺った際、とうの老女はいつもどおりのサナトリウムの陽だまりでうたた寝をしているように見えた。

 その横で職員同士で『いなくなったことにされている』彼女を心配するような言葉を口にするのだから、それはなかなかにシュールな光景であった。

 そこでようやく我々のうちで合点がいく。どうやらこの事態すらも彼女の能力の一部であり、彼女は周囲の者からその存在を一切認識されなくなったようであるのだ。

 我々としては「そこに彼女はいるじゃないですか」と指摘するにもやぶさかではなかったが、さすれば再び、あの意味不明で不条理な攻防戦へと引き戻されることは確実で、我々としても残業代のつかないその任務にいい加減飽き飽きしていたところであった。

 したがって、我々は互いに目配せをし、ついでに老女へと敬意を込めた会釈をもって、その老人ホームを後にすることにした。

 そのあとの顛末は定かでない。しかし、その老女が寿命でくたばることは、しばらくないのではないかと思われる。

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