なしひとへのお題は『行方知れずの恋・短い爪に唇を落とす・解けないように絡める指』です。
姿の見えないその子と手を繋ぐようになったのは、約二ヶ月前からのことだ。
正確には彼女が死んで数日後、実家で執り行われた葬式に参列して、広く感じるようになってしまったアパートへと帰るその帰り道。
電車を待つ僕の手元を、そっと掴む小さな感触だけがあった。
見下ろしたところで誰もいはしない。人影のない風の冷たいプラットホームの片端で、僕とその子どもは静かに手を繋ぎ続けていた。
それからたびたび、その子は僕の手を握ることがあった。僕はその手を、握り返すこともあれば、掴まれるがままに放置することもあった。
不思議なことに、さして気味の悪さを感じることはなかった。たしかにその手は温かみを欠いていたし、人の手だと思うには爪のようにゴツゴツとした鱗で覆われているようであったし、何よりその手の持ち主はどう目を凝らそうとも、毛先の一つさえ視界に映らなかった。
しかしただ、僕はとてつもなく疲れていたのだ。
彼女を失って以来、僕の周囲の環境は大きな変化を迎えた。
どう表現したものだろうか。
たとえば君には毎朝目玉焼きを食べる習慣があったとする。生まれて以来一日たりとも欠かさずに続けてきた目玉焼きの朝食が、ある日突然、白身だけになってしまったとしたらどうだろう。来る日も来る日も、白身だけの虚しい塊が目の前に差し出されるのである。
きっと君はひどく動揺し、憤慨し、最後には深く絶望するのだろう。もう二度と黄身の入った目玉焼きが食べられないという事実に打ちひしがれ、多少の不可思議な現象にはかかずらっていられないと思うだろう。
当時の僕は、まさにそのような状況であったのだ。
……。
もちろん、彼女との間に子どもはできなかった。
僕らは世間の若いカップルがそうであるように、避妊には十分気を付けていたし、自分たちの収入が子ども一人を育てるどころか、結婚して一緒に暮らすのにもまだ十分でないことを重々承知していたからだ。
だからひょっとしたら、その手の持ち主は彼女とはまったく縁もゆかりもないただの迷子なのかもしれない。
しかしたとえそうであったとしても、僕はその手を振り払うことができなかっただろう。
彼女を失った僕には、何かしらの慰めが必要だったのだ。
それは僕を無条件に癒やしてくれるものではなく、僕を必要とし、僕の空隙を埋めてくれる生身の何かしらであった。
しかし打ち震えるほどに恐怖を覚える考えが、僕の頭をふと過ぎる。
僕はいずれ、この小さな手をも失ってしまうのだろうか?
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