なしひとへのお題は『ひた隠した思いが裏目に出て・天国はここにある・夢は夢にしかならず』です。

 市役所までの道のりは、気が遠くなるほどに遠い。

 まずその一連の手続きは起床から始まる。起床というのは、文字通り寝床から起き上がる動作にあたる。

 サンショウウオの先祖は水中から大陸へと大いなる一歩を踏み出すことで肺呼吸動物の生態ニッチを獲得した。モグラは地中に活を見出すことで容易には捕食されない環境を手に入れた。我々人類は『お布団』の内側に安寧を見出し、そこに独自の生態系を築くことで外敵からの攻撃を防ぎつつ子を産み続けてきた。

 人類が永遠の平和を約束された『お布団』から爪先を出し、やがては足を床につけ、恐る恐る外界へと踏み出したのは紀元前数千年頃のことだと言われている。不確かな歴史資料としての神話を参照するのなら、蛇にそそのかされただの、禁断の果実を丸呑みしただの、いやそれは偽史で、本当のところはジュースにして飲み干しただのといった逸話はあるにはあるが、科学的な根拠はいっさいない。当該りんごの木の化石でもあれば話はいくらか現実味を帯びてくるだろうに、それすらない。

 しかし事実として、人類はその歴史上のいずれかの時点において、『お布団』を剥ぎ取られ、『お外』において生存する道を選んだことは間違いない。それが予期せぬ『お布団』内部に発生した新たな外敵を理由とするものなのか、内紛を避けた被差別民族の遠征を始祖とするものなのかは議論が分かれるところである。

 もうひとつの大きな謎として論争の種となっているのは、世界に現存する高度に発達した文明が、過去のいつ時点で構築されたのかという点である。ある仮説によれば、それは人類が『お布団』から脱出した時点ですでに旧人類の手によって広く構築されておりそれらを奪い取ったのだとか。あるいは旧人類は幾年にも渡る核戦争で滅び去り、放射能の半減期を待って、我々の祖先にあたる人類が『お布団』からの離脱を試みたのだとか。あるいはいま見渡せば遥かに見えるビル群の広がりは、じつのところ集団幻覚でしかなく、実際には我々は仮想世界を演算し続けるスーパー・コンピューターに繋がれた巨大な胎児に過ぎないのだとか。

 スタートははっきりとはしないが、ゴールは明確だ。

 どうして人類はいまなおもって進化し続けねばならないのか。

 その問いには唯一つの解が論を待つことなく現前に用意されている。

 そう、市役所である。

 人類は『お布団』を抜け出し『市役所』にたどり着かねばならないのだ。それこそが人類進化の理由であり、私が生きる意味であり、あなたが生きる意味でもある。

 この教義はある日すべての家の郵便受けへと届けられる『督促状』の到来によって宗教的福音が告げられる。その書面をおおまかに訳したところによれば、人類には『納税の義務』という原罪が存在し、個人は成人年齢への到達をもって、その魂が一人前の『滞納者』へ昇格したものであると認められるらしい。そして秘境に隠された聖殿たる『市役所』への出頭こそが、人類の最終目標なのだと。

 しかし誰一人、人類史上、誰一人として、『市役所』までたどり着けた人間はいないのだ。

 ある者は玄関口に立ち尽くしたまま冷や汗が止まらず、そのまま餓死した。ある者は勇敢にも戸外へと躍り出たはいいものの、地図の読み方を最後まで見誤り、日本海の真ん中で溺れ死んだ。

 そして今日、とうとう私の番が来たのだ。

 先に死んでいった親類の遺影に見守られる中、しかし私は『お布団』から爪先を出すことさえ叶わない。

 寒いのである。

 季節は不幸にも11月の上旬に入り、税金の滞納はすでに3年と半年に及ぶ。

 ここから半年の冬をまたげば次は夏が来て、もしその時期に私が屋外へと一歩足を踏み出したのなら、その足は河童の手も同然となるほどに干からびること請け合いだろう。そしていずれ、また次の冬が来る。

 この過酷なる酷暑と極寒の繰り返しを、わが故郷の古い言葉で『四季』と呼ぶ。暑いと寒いの二つしかないくせに数字の四を冠するとは業腹極まりないが、お前の好き好んで住んでいる場所が悪いと言われればまったく返す言葉がない。

 空調の効いた屋内で、私は今日も一日『市役所』へと行かねばならない自身の運命を深く呪う。

 結局、引っ越しを試みるに際しても『市役所』での手続きは避けては通れない道理なのである。

 冷や汗が出る。吐き気がする。

 どうして人類は『お布団』から出なければならなかったのだろうか? どうして『市役所』などというろくでもない場所にたどり着かなければならなかったのだろうか?

 それらの問いに優しく答えてくれる神はもういない。

 とにもかくにも、人類はそのように生きる道を、自らの選択として選び取ってしまったのだから。


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