なしひとへのお題は『水底から見る夢・柔らかい頬・研ぎ澄まされた爪と牙』です。

 はたして人魚に爪はあるのだろうか、と。

 幼い頃のそんなたわいない疑問を、いまのいままで自分がしっかりと握りしめていた事実に。彼はたったいま、ふと気が付いてしまった。

 気が付いてしまったのだ。

 湖の外縁を、その女と歩いていたときのことである。

 彼女の祖父が所有するという別荘は、その湖の反対岸にあった。


 人魚が――、と。


 思わず男は彼女を呼び止めた。

 振り返って、いま何かおっしゃいまして? 、と女が。


 【命題】人魚の爪についての疑問


 馬鹿馬鹿しい。

 何でもないよと誤魔化すように手を振って。男は彼女の少し先へと踏み出る。

 曇り空に森の葉擦れが細かなひび割れを忍び込ませる。

 悲しみ。

 男が唐突に覚えたそれは、心臓が痛みを覚えるほどの深い悲しみだった。


 いつのまに自分は――


 その考えに耳を傾けてはいけない。男はそう、とっさに思う。

 しかし無論、内側から水のように湧き出すその声は、こぼれ出したら止まらない。


 ――こんなにもつまらない世界に含まれてしまったのだろうかと。


 男は考える。

 見渡せば、どことも知れぬ森の中。

 あと半周で、自分と彼女はあの別荘にたどり着いてしまう。

 それから、そこで待つ彼女の両親と夕飯をともにして。

 夜更けになれば彼女の父親と暖炉を囲み、ウィスキーグラスを傾けるのだろう。

 思い浮かべるだけでもあきれるほど緻密に組み上げられた隙一つない80年単位のスケジュール。

 以下同様。きっと彼の人生は死ぬまで、起こるべきことが起こるべきタイミングに起こるのだと、徹頭徹尾、書き割りのように決まりきっている。

 そんな人生のどこに、人魚だなんてくだらない存在の忍び込む余地がある?


 しかし――、と。


 男は思う。


 しかしそれは自分の過去に、たしかにはっきりあったのだ、と。


 人魚。

 もちろん『それ』は若い女の姿をしていた。

 長い月日を――あまりに長い月日を悲しみに晒され続け、やがては憎しみに心まで食らい尽くされた女の顔で、彼女はまだ幼かった彼を水底へとぐいぐい引きずり込んでいった。

 口から息が漏れる。

 肺の奥まで深緑の氷で満たされる。

 それでも彼女は、幼かった彼の手首を強く握って離さなかった。

 深く。深く。

 光はやがて、彼の意識と水深の狭間で上下を惑わせる。

 きっとこのままでは死んでしまう、と。そう思ったところまでは覚えている。

 そして――

 その瞬間、何が起こったのかは定かでない。

 女の顔をした『それ』は、ふいに彼の手首を離して、

 頬に強く爪を――


 ?!


 冷たい感触に思わず、遠い過去をさまよっていた彼の意識は現在に呼び戻される。

 彼の隣を歩いていた彼女が、頬に指先を這わせていた。

 爪痕。

 ほとんど消えてしまって、日焼けのあとにも紛れたはずのその形を紛うことなく彼女はなぞり。


 ねぇ、と。吐息。


 男の瞳の奥では、色を失い、光を失っていく湖がひらりひらりと音もなく映し出される。

 深く。深く。

 視界いっぱいに広げられる人魚の爪が。


 いまここで、私に永遠の愛を誓ってくださるかしら、と。


 

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