なしひとへのお題は『硝子の器に君の雫・穏やかな笑顔に満たされる・囁かれるたび癖になる』です。
瓶の内側に世界がまるごと収まっていたあの日を、たぶんあなたはまだ覚えている。ぼやけた視界いっぱいに。見上げた蛍光灯の光が角度を変えて、虹色に曲がりくねっていたあの景色を。
あの瞬間のあなたは、きっと潰れるほどに興奮を抱きしめていた。
私たちの母親は、あれ以来ずっと見つからない爪切りを探し続けている。
「防衛省の発表によれば――」
そして、あなたはラムネを飲み干した。畳の上に、これ以上ないほど手足を広げて。
濁りを失った瓶底を透かしてみた景色は、残念なことに単なる歪みでしかなかった。
遠くサイレンの音。
血を――
そうだった。たしか私の方から、そうあなたに提案したのだった。
血を混ぜてみたらどうかしら?
蛇口を瓶の口に押し当てて、一滴たりともこぼさないようにふちのギリギリまで。ガラスの内側を、私たちはあまりに透明過ぎるカルキ臭い水道水で満たした。
それから私はあなたの小指の先を小さく――本当に小さく噛みちぎって、あなたはその小指の先を瓶のうちに浸した。
どうしてお姉ちゃんの血じゃなくて、私の血なの。と、あなたはあのとき半泣きで尋ねたっけ。私は瓶の内側へと染み渡る赤色に夢中で答えなかったけれど。もしもいまあなたが再び同じ問いを尋ねるなら、理由はなんてことない。
私の小指に、あのラムネ瓶の口はあまりに小さすぎたのだ。
「彼我との交戦はいよいよ地上戦までに及び――」
透かして。赤色に染まった世界を、あなたは夕焼けだと囁いた。私はその言葉をいまもはっきりと覚えている。
微笑み。
線香の匂いがする――それは耐え難いほどに。あなたの死んだ世界の匂いだった。
結局あの戦争は八年ほど続き、半年の空白が挟まって。来年の四月頃にまた次の戦争が始まるのだそうな。
今朝、正月の帰省がてら駅前を過ぎたついでに、公務員用の配給札との引き換えで手に入れた小さなラムネ瓶は、もう世界の何をも含めていないただの砂糖水だった。
あるいは、あなたの血を混ぜすぎたせいかもしれない。
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