なしひとへのお題は『行方知れずの恋・天国はここにある・片側だけが上がったくちびる』です。

 むろん、彼女が書いて瓶に詰めた手紙は彼の元まで届きはしない。

 生まれてからの記憶の一切を忘れてしまう奇病が世界中に流行った年のことだった。

 その病気はある日悪性のインフルエンザと似た高熱を発生させ、三日三晩、罹患者を苦しめたあと、その人が大切にしてた記憶、夜中に思い出しては胸を掻きむしった心の傷跡など一切合切を奪い去って生まれたての赤ん坊のような心地にさせてしまうのだった。

 彼女の家族は一人ずつその奇病に冒されていった。

 そしてなおさら悪いことに、記憶を失った彼らはそれぞれに家を出て、二度とは戻ってこなかったのだった。

 父親は北の荒地を目指した。

 母親は南の山岳へと向かう馬車に乗った。

 三つ上の兄は東の海からまだ見ぬ無人島を目指し、一番下の弟は母の後を追って、兄のバイクを借り南へと去ってしまった。

 彼らの口を揃えて言うことには、記憶を取り戻すことよりも新しい世界に居場所を見つけることのほうが、多くのものを失った彼らには重大であったのだとか。それゆえに誰も自分を知らない場所へと身を置くことが必要不可欠なのだとか。

 なんて薄情な人達だろう。一人残された彼女はそう憤慨した。私一人をこの家に残していくだなんて。

 しかし幾日も、一人残された家で夜を迎えているうちにふと考えてしまう。

 私はきっと、例えあの忌々しい病気にかかったとしても、この家を出ることにはなるまいわ。

 だってこの家にはもう誰も私を知る人なんかいないもの。私にとってはこの家こそが見知らぬ新たな世界となることでしょうよ。父にとって北の荒地がそうであったように。母にとって南の異国がそうであったように。

 あるいは、とも思ってしまう。あるいはもうすでに私はあの病気にかかってしまったのかもしれない。

 病気にかかったからこそ、家族は一人ずつ、私の頭の外へと出ていったのだとしたら? あの一連の出来事はすべて私の頭の中に起きたことで、それこそ私が過去を忘れてしまうという現象に関する何かしらのメタファーだとしたら? 私はまだあの人たちの顔や名前を思い出せるかしら。今シーツを握りしめながらどうしようもなく嗚咽をもらす真夜中、ここは本当に現実の私の寝室かしら。

 ……。

 やがて朝が来る。

 朝が来ても、彼女は変わらずその家に一人きりだった。

 その日、彼女は西の谷を目指した。

 彼女の家を出て行った誰も、寄り付こうとさえしなかった西に存在したのは、魔女の住む谷だった。

 今や記憶を失うことの他に何をも恐れない彼女は、勇ましくも魔女の屋敷を訪ねてこう言った。

 魔女のおば様。私、不安なの。あの病気にかかったら、私は何もかもを失って、きっと泡のような生き物になってしまうに違いないわ。だって過去のない人間なんてきっとひどく空っぽに違いないわ。私の家族がそうだったもの。

 日課のトランプ占いを邪魔された魔女は不機嫌そうに、しかし親切にも思いつく限り最も有効な助言を彼女に与えた。

 愛する人に手紙を書くことさね、と。さすればお前のみっともない苦悩はどこかへ消え失せるだろうよ。

 私に愛する人なんていないわ。みんなもう私だけを置いてどこかに旅立ってしまったもの、としかし彼女は言った。

 相手はなんだっていいんだよ、と魔女はなおさら厄介払いしたそうに。

 神に祈るでも悪魔に祈るでもいいんだ。気を紛らわせるんだよ。お前が今意味のわからない不安に囚われて動揺しているのはだね、いいかいよくお聞きよ。

 お前が無職のろくでなしだからさ。お前が毎日暇で暇で仕方ないからさ。

 だからお前は無意味な思いになんぞ魅入られるし、たかが手紙を書く相手の一人だって見つからないのさ、と。

 魔女は口の端を片側だけを皮肉げに上げて高笑いした。

 彼女は憤慨して、足音高く魔女の屋敷を後にした。

 そして今、家に帰り着いた彼女はしかし魔女の助言どおりに手紙を書いている。落ち着いてみれば、魔女の言うことにもほんの爪の欠片ほどの道理がなきにしもあらざるように思われたためだった。

 その手紙の詳しい内容について、ここでは述べない。概要のみ軽く説明する。

 それは『彼』に宛てた手紙だった。

 彼とは、かつての彼女の、空想上の友人だった。

 手紙を書く相手と言われて、ふと思い出してしまった幼き日のかすかな想い出。そのわずかな名残を頼りに彼女は書き物机に向かって、たどたどしく手紙を書き始めた。

 その手紙は彼女が望み、焦がれ、たどり着けないことを幾夜も嘆いた、幼き日に彼とともに祈った天国について書かれていた。

 やがてそれを書き終えた彼女は、炭酸水が入っていた色付きのガラス瓶にその手紙を詰めて、兄が去っていった東の海へと流した。

 その手紙は今も海洋のどこかに浮かんでいる。

 次の季節に、とうとう彼女が病気にかかって、記憶を失くし、家族のことも彼のことも忘れ去り、やがては北へと向けて家を出て行ったあとも。

 彼女と彼の天国は、その緑色のガラス瓶の内側で、いつか誰かに解き放たれる日を待ち望んで、今も静かに浮かんでいる。

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