Fifth Chapter...7/23

あの日の家族

 真っ暗闇の中に、僕は独りぼっちで立ち竦んでいた。

 指一本動かせず、逃げ出すことも出来ない。

 状況を理解出来ないまま、ただがむしゃらに、体に力を込めて動かそうとしていたとき。

 目の前に、突然女の子が現れた。

 河野理魚だった。

 彼女は、音もなくゆっくりとこちらへ近づいてくる。それは、歩くというよりもむしろ滑るような感じで。

 長髪が顔全体を覆い、表情はまるで見えない。けれど、不気味さだけはひしひしと感じられる。

 僕は目を逸らしたくなるのだが、眼球すらも全く動かすことが出来なくて。彼女がただ、静かに迫って来るのを見つめることしか出来なくて。

 そして、とうとう僕の目の前までやってきた彼女が、ゆっくりとその髪を掻き分け。

 真っ赤な、

 真っ赤な両目で、僕を睨んで。

 嗤った。

 狂ったように、ひたすらに、嗤った――。





「わあッ」


 思わず叫び声を上げながら、僕はベッドから跳ね起きた。

 今のは……ただの、悪い夢か。


「……はあ」


 額に手をやると、汗がじっとりと滲んでいる。心臓は、まだバクバクと大きな音を立てていた。

 目を閉じればまだ、鮮明に蘇る。黒髪の間から覗いた、おぞましい赤の双眸。人を死に至らしめるような、恐怖の赤眼……。昨日、雨の中見たそれは、やはり僕の頭の中に残り続け、こうして悪夢にまでなってしまったようだ。

 理魚ちゃんは……どうしてあんな目の色を、していたのだろう。

 どうして、あんな場所にいたのだろう。

 それも分からないし、何より鬼封じの池のことも分からない。

 昨日あった一切のことが、僕には理解できなかった。


「……起きよう」


 ずっと引き摺っていても仕方がない。そう思うことにして、僕は痛む頭を振り、ベッドから起き上がった。カーテンを引いて外を見ると、曇天ではあるものの、夜中まで降っていた雨はもう上がっていた。

 着替えを済ませて僕は部屋を出る。そして、両親の寝室を過ぎて階下へと。

 ……本当は、ここにはもう一つ部屋があるはずだった。

 僕の、妹の部屋だ。

 忘れようと努めた名前。忘れようと努めた姿。

 けれど、そんな努力も殆ど無駄で。

 今でもまだ、彼女が僕の心から消えることはない。

 真智田理緒。それが、僕の妹の名前で。

 そして、どういう偶然か、あの河野理魚という少女は妹にとても良く似ていた。

 理緒を忘れられない理由の一つは、間違いなくあの少女なのだけど。

 それを嘆いたところで、どうしようもない。

 だから、せめてなるべく関わらずに過ごしていこうと考えていたのに。

 昨日は、あんな奇妙なことになってしまった。


「……はあ、駄目だな」


 嫌なことを考えないようにするというのは、人間の最も苦手なことじゃないだろうかと思う。

 少なくとも、僕には難しい問題だった。

 リビングに行き、いつもの席に着いて、母さんの美味しい朝食を食べる。そんな瞬間でも、やはり頭の中はぐるぐると色んなことが渦巻いていて。

 その朝は朝食を食べきるのに、いつもより長く時間がかかってしまった。


「大丈夫? 試験、緊張してるの?」


 母さんからそう心配され、僕は大丈夫だよと答える。実際、試験については大して不安はなかった。

 でも、それ以上の不安の数々が頭をもたげている。

 ――今日は試験だけど、あの子は来るのだろうか。

 そんなこともまた、不安だった。


 真智田理緒。今も消えない、昏い幻影。

 彼女は、家族を崩壊させて死んでいった、傷だらけの妹だった。

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