鬼の目

「はあッ……はあ……」


 廃屋から、必死の思いで逃げ出して。

 僕らは霧に包まれた池のほとりで、脱力しきって倒れ込んでいた。

 木々に囲まれた自然の景色は、まるで今さっきの光景全てが夢だったかのように錯覚させて。

 それでも、確かにあの光景は僕らの目に焼き付いていた。

 そんな必要なんてないのに。


「……ごめんなさい」


 ぽつりと、龍美がそんなことを呟いた。


「私、こんなの想像もしてなくて……ただ、ちょっとした好奇心で。鬼封じの池のこと、知りたいって思っただけだったのに……」

「……んなの、誰も想像出来ねえだろ。謝んなよ」


 虎牙は、バツが悪そうに龍美を慰める。その言葉は、ちゃんと龍美の心を落ち着けたようだった。


「……ありがと」

「しかし……マジで訳分かんねえな。この建物は、一体何だったんだ? 鬼封じの池と、何の関係があるんだ……?」

「昔の村役場だとしても……変だもんね」

「そりゃよ、役場に地下室なんてねーだろ」


 鉄の扉で鎖された、冷たい地下室。隔離された小さな世界。

 そこに、一体何の意味があるというのか。

 考えることすら、恐ろしい。


「……」


 ふと、僕は虎牙がある一点を見つめているのに気付く。


「何か見つけた?」

「いや、別にどうでもいいことだけどよ」


 彼は顎を動かして、その方向を指し示す。廃屋の扉がある方だ。

 その近くを目を凝らして観察してみると、確かに気になるものがあった。


「文字が書かれてるのかな……」

「多分な」


 少しだけ近づいて、その文字らしきものを調べてみる。

 あくまで推測だが、それは黒いペンキ状のもので書かれた『八〇二』という漢数字だった。

 掠れているうえに、土砂が張り付いていることもあって、それ以外にもまだ文字が書かれていたとしても全く分からなかったが。


「これも、推理のしようがないな」


 僕はふう、と溜息を吐く。


「……結局、鬼封じの意味は分からなかったけれど。仕方ないよね。これ以上は、どうにも」

「……そうね」


 龍美は、力なく頷いた。肉体的にも精神的にも、これ以上探索しようとは思えないだろう。

 結果として、鬼封じの池の謎はより一層深まっただけだった。


「鬼のことが知りたかった、だけなのに。……あんなものを見つけちゃうなんて、夢にも思わなかったわ」


 そんな龍美の弱音に、僕は沈黙したままで。

 虎牙は、空を――木々に囲まれて見えない空を仰ぎながら、小さな声で言った。


「ひょっとしたら……あれが鬼だったのかも、しれないけどな」


 その言葉に、背筋が凍るような思いがした。





 雨が降りだした。

 僕は一人、秘密基地に戻って来ていた。

 ショックを受けている龍美に、虎牙が付き添うことになって、二人で先に帰ったのだ。そして、基地から懐中電灯や虫除けスプレーを持ってきていた僕は、それを置きに一人でここまで戻って来たわけだ。

 しかし……タイミングの悪い。


「一応、折り畳み傘はあるけどね。早く帰らなきゃ……」


 いつものように独り言をぶつぶつ呟きながら、僕は蚊帳を捲って外へ出る。空を覆う雲は更に厚みを増したようで、周囲はすっかり暗くなってしまっていた。

 いくら歩き慣れている道だからといって、気を付けなくては危ない。ちょっとしたことで、上手く歩けないこともある。

 鬼封じの池。

 結局のところ、その名前が意味するところは何だったのだろう。

 あの場所には果たして、何が封じられていたのだろう。

 そもそも、封じられていたということすら虚構にすぎないとしたら。

 何一つ、信じられるものなど無くなってしまう。


「……三鬼村、か」


 僕が来るより、ずっと前。

 満生総合医療センターが出来るより、ずっと前。

 そんな昔にあった三鬼村とは、一体どのようなものだったのだろう。

 知りたいような、もう関わりたくないような。そんな、どっちつかずの思いが胸を締め付けた。


「……僕らしくないんだけどな」


 知らずにいた方がいいかもと、思うなんて。

 こんなのは……あのとき以来だ。

 ……理緒 。

 いけない、変なことを考えずに早く帰ろう。僕は一度、頬をぴしゃりと叩いて再び歩き始めた。

 緩やかな下り道。十分ほど歩いて街に辿り着く。

 ようやくだ。ようやく、人の暮らす場所まで戻って来た。

 きっと、鬼の及ばぬ人里まで戻ってこれたのだ。

 そう思うと、少しだけほっとできた。

 雨脚が激しくなる前に、帰宅しよう。

 ――そのとき。


「……?」


 ふいに、背後から人の気配を感じた。

 反射的に振り返ろうとして、ハッと気づく。

 それは、おかしい。

 背後は、森へ入る道なのだから。

 そこから、人の気配がするなんて……。

 少しだけ、ほんの少しだけ薄ら寒さを感じながら、僕は後ろを振り向いた。

 そこには……。


「…………」


 ――どうして。

 どうしてお前が……。

 いや……いや。

 そうではないのだ。

 この子は、違うのだ。

 そこには、少女が立ち尽くしていた。

 傘も差さず、長い黒髪を濡らした少女が。


「……理魚りおちゃん」


 彼女は、この満生台に住む、河野理魚こうのりお という女の子だった。


「風邪、ひくよ?」


 何故、彼女がこんなところにいるのだろう。

 彼女はただでさえ病弱で、学校にも殆ど来ないくらいなのに。

 こんな雨の降りしきる中、傘も差さずに……。

 僕の問いかけに、しかし彼女は答えない。

 その表情も、顔の前に垂れる髪のせいで伺えなかった。

 流石に心配なので、僕はせめてどこか雨宿りできそうな場所まで彼女を連れていこうと、理魚に近づいていった。

 ……そこで、見た。


「……!?」


 恐怖が、全身を駆け抜けて。

 僕はそこから、動けなくなって……。


「…………」


 彼女は。

 彼女の眼は――真っ赤に・・・・染まっていた・・・・・・


「な、……なんで……」


 震える声で、僕は問う。でも、その言葉にも彼女は無反応を貫いて。

 そしてそのまま、彼女は夢遊病者のような足取りで……街の方へと、歩き去っていった。

 ……赤い、眼。

 まるで――まるでそう、鬼の目のような。

 馬鹿馬鹿しい、けれど……。


「……もう……どうなってるんだよ……!」


 ざあざあと激しさを増す、雨の中。

 僕の弱々しい叫びだけが、ただ虚しく響き渡った。

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