目が覚める。障子からは薄い光が溶け込んでおり、私の足元を照らしている。上半身を起こす。体は起きていても意識が起き切れていないようで、まだくらくらする。ぶんぶん顔を振る。はっとなった時には夢の中身も抜け落ちている。でもこれでいい。どうせ夢といっても、また悪夢だろうから。立ち上がっていすに腰掛ける。ああ、また一日が始まった。あれ以来学校にも稽古にも顔を出していない私に平日というものはなく、毎日が休日である。毎日休めるなんて羨ましいと思われるかもしれないが、決してそんなことはない。この休日の間に私がやることと言ったら、寝るか、外を見るか、お菊と話すかのどれかである。別にどれも嫌なわけではないが、なんせ刺激がない。外の景色といっても庭の向こうには塀があって家の外の様子はわからない。肝心な庭の中も、雨に濡れた楓が一本、あるだけで、ほかにこれといって動きのあるものもない。お菊と話すことも、外に出なくなった今お父様の愚痴くらいしかない。つまり、今の私の日常は、動きのない繰り返しである。学校と稽古をやめるまで新しいものに触れない日々がこんなに退屈だとは思わなかった。学校の勉強も、もろもろの稽古も、決して楽だったわけではないが、全甲(*1)を取って、いいモノを作って、周りの褒められることがうれしくて頑張れた。今となってはそれは私の評価ではないとわかっていても、あの血の通っていた日々が懐かしいのである。新しく刺激にあふれていた、あの日々が……


「おはようございます楓、調子はどうですか」


お菊が部屋に入ってきた。お手洗いと入浴以外はすべて部屋で済ませているので、お菊には何かと世話になっている。


「どうって、いつも通りよ」


「それはようございます」


お菊は持ってきた膳を卓に置く。少なめのご飯に味噌汁に漬物。ずっと部屋にいる私は小食で、厨房もそれをわかって量を減らしている。


「ずっと部屋にいて、飽きないんですか」


お菊が正座して言う。膳を持ち帰るのも彼女の仕事なので、私が食べ終わるまではいつもこうして部屋にいる。


「飽き飽きしているわ。それでも、外の世界よりはましなだけよ」


「ご主人様が、楓を工場にとおっしゃっています」


箸が止まった。お父様が直々に。私が外に出たくないのを知っているのに。


「私が申しあげてもお断りになるなら、お父様が直々にいらっしゃるようですよ」


それは嫌だ。私のことを顧みないで見合いの話だけ持ってくるお父様は、今は話したくない人間の一人だ。


「体調が悪いとでも伝えて」


お菊は悲しい顔をして私の隣に来た。


「……楓、あなたは確かに恵まれない境遇かもしれません。ですが、境遇は運命です。変えたいのなら、あなた自身がそれに立ち向かわなければいけないんですよ」


その言葉を聞きながら噛んだ漬物は、いつもよりしょっぱい気がした。







潮の香りがするが、煙の香りと混ざって少し気持ち悪い。白い壁に鉄の板が張ってある。工場に来るのは初めてではないが、なんせ小さい頃の出来事なのでとうの昔に頭から抜け落ちていた。馬車は門に少し入ったところで止まる。


「お嬢様、私は雑用があるのでこれで」


馬車はお菊を乗せて引き返して行った。久しぶりの外だ。太陽に焦がされるかとも思ったが、あいにくの曇りだ。いや、私が焦げないように天が情けをかけてくれたのかもしれない。工場の中に進む。金属がすれるような音がたくさんする。この中では男たちがせっせと船を作っているのだ……お父様にこき使われて。しばらく歩き建屋の入り口に来ると、見慣れた人影があった。


「久しいな、楓」


そこには白いひげを生やした中年過ぎの男がいた。


「ずいぶん細身になったな。それだと立っているのもつらかろう」


「お父様、大丈夫ですので、お構いなく」


そう言い返し一礼すると、お父様は「まあよい」とだけ言って歩き出した。工場の中に入る。そこにあったのは建造途中の灰色の船。


「こいつは軍艦だ、楓」


お父様はそういうと船全体を見回して


「立派なものだろう。日本で作れるものでも最大級だ。だが、すぐに沈む」


といった。その顔は少し哀れだった。


「人殺しの道具を作っているのですか」


「確かにこいつは、人殺しに使われるし、この船自体が墓場にもなるだろう。でも、それはこの田中造船には関係ない。軍の手に渡れば、それをどう使うかを決めるのは軍人よ」


お父様がこっちを振り向く。


「母にようにて来たな、楓」


まさか母の話をされるとは思ってなかったので、一瞬うろたえてしまったが、正気を取り戻す。なぜここで母の話を出すのか。私は母のことを何一つといっていいほど覚えていない。


「楓、なぜおまえを呼び出したかわかるか」


首を横に振る。


「二つ話したいことがあってな。ひとつは母さんの話だ」


立ち話もなんだからと言って、事務所の応接間に移る。父は茶を一口すすって話し始めた。


「お前ももう二十歳だ。いつ嫁に行くかもわからん。その前にと思った。お前の母さんは強い人間だった。小さな町工場の主だった私の事業を、愚痴一つこぼさず手伝ってくれた。おかげで田中財閥は全国でも指折りのものになったが、私は事業に夢中で母さんのことを気にかけてやれなかった。母さんは体を壊していた。スペイン風邪*2にかかって、簡単に逝ってしまった。私が人生で最も後悔していることの一つだ」


そういうとお父様は、懐から封筒を出し、私の前に置いた。


「お前の母さん……佳代からの手紙だ。お前が二十歳になったら渡すよう、母さんに言われていた。誕生日に開けて読みなさい」


私は混乱した。顔も覚えていないお母様から、急に手紙が来たのである。私にとって母とは、私をこの世に生み落としてくれた人以上でも以下でもない。大切な人と言ったら、それはお菊のほうがずっと大切である。でも、気になることではあった。お母様がどういう人だったのかの数少ない手がかりが手に入ったことは素直に喜べるものかもしれない。


「もう一つの話だが、いい男はいなかったか」


見合い話を断った話だろう。あまり話したくはなかったが、話さなくていい内容でもなかった。


「結婚に興味がないだけです」


「そこで、お前に一つ提案がある」


お父様が顔を上げる。私もお父様の目を見た。とても悪人の目には見えないほど、輝きを放っていた。


「継がないか、田中財閥を」



意外過ぎる言葉に、耳を疑うことしかできなかった。






*1「全甲」…甲は昔の通知表のA。つまり、オールAのことを指す。

*2「スペイン風邪」…インフルエンザの古称。


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