夕食を終え、風呂場に向かう。うちの日程では風呂と睡眠は同じ時間のくくりになっているので、理屈上は夜の間ならいつでも入っていいということになる。しかしもちろん睡眠はとらなくてはいけないし、風呂もいつまでもたいてあるというわけでもないから、実際は十二時過ぎには風呂の時間は終わる。もちろんたいていの人間は夕食が終わった後すぐに風呂へと向かうのだが、


「男くさい風呂は風呂じゃない」


という修の考えに俺も同意し、時間ギリギリの十一時半ごろを狙っていく。この時間なら基本人はいないので風呂釜での桶狭間も、脱衣所での川中島もない。今日は修が話が長くなるというので少し早めの十一時にやってきた。それでも風呂には誰もいないため、俺と修は一人一釜ずつ余裕をもって使うことができている。修は釜に入った瞬間、ふわあとなんとも気持ちよさそうな声を出し、


「なあ進、今幸せか」


と聞いてきた。いくら男二人だからと言って風呂場で言われると少し気持ちの悪いような気もするが、少し考えたうえで


「俺にはちょうどいい幸せだよ」


と答えた。幸せという言葉自体頭に浮かべるのは久しぶりで、その基準があいまいになっているところもあった。でも、この毎日変わらない少し仕事が重いだけの日々に、大々的な不満はなかった。不満というのは満足していないことから出るのだから、不満が出ない、つまり満足している、つまり幸せである、ということにした。無論、俺自身に向上心と言われるものがもっとあれば、さらに上位の幸せを望むし、成金たちのような人間はきっと俺たちより高位の幸せをつかんでいるだろう。でも、彼らは成金であって一介の労働者ではない。立場が根本的に違うのである。権力も、資産も、人望もない労働者と、それすべてを手に入れている成金は一緒にはなれない。一緒になれないなら、別々の道を歩むのが、きっと、世の理なんだろう。それに逆らう気と力は、今の俺にはない。


「小さい男だな、お前は」


ずっと肩まで使っていた修はのぼせそうになったのかふちに腰かけた。そして釜に目を落とす。


「見ろ進、わざわざこんな夜遅くに顔を出して独り占めしている釜だ。成金は何もしなくてもこれ以上の釜に入れる。おかしいと思わないか」


冷えてきたのか、もう一度湯につかって続ける。


「俺らにでかい釜を独り占めする機会はあったか。俺らが成金になる機会はあったか」


とうとう立ち上がった。下も隠さず堂々と。


「おかしいじゃないか。俺らも成金も、母ちゃんの腹から生まれるのは一緒だ。なのにどうして、生まれた瞬間から入る風呂が決まっているんだ。俺はもっとでかい釜に一人でつかりたいし、こんな身も心もまっ黒になっちまうような仕事はごめんだ」


確かに仕事は楽ではない。休憩もろくにない中で半日以上働き続け、真っ黒にならなければならない。いつもは冷静な修だが、熱くなってきたらしく、釜のふちに足をかけた。


「でも、俺らはいまから、母ちゃんの腹に戻ることもできないし、戻ったとしても成金にはなれないだろう。なら」


修は手を拳銃の形にして俺に向けた。


「こうするのさ」


右手を振り上げた。撃った。ということなのだろう。撃たれた俺はあっけらかんとするしかなかったが。そのあと女中に風呂を閉めるといわれ急いで体をふききってないのにしたぎをきてそのまま飛び出た。


ドキューン


今でも修の指先が銃口に見える。修の言っていることも一理あるかもしれない。ただ、修は大切なことを一つ見逃していた。


「俺たちが成金になっていたら、そうやって銃口を向けられるのを良しとするのか」


修は聞いていないようだった。







部屋に戻ると、修はベニヤを持ってきた。そこには道や川が書いてある。


「お前、地図は読めるか」


うなずいた。すると修は左下を指して


「ここがうちの寮。東にまっすぐ向かって川に当たったら南を見ろ。赤い光が見えるはずだ」


修は河川敷を指さす。そこには「隆盛社」の文字があった。


「赤い光に近づくと、不自然な縄が張ってある。そいつを踏んで三回鈴を鳴らすんだ。わかったな」


ふむ。確かに理屈はわかった。しかし待ってくれ、いつ俺が隆盛社に行くことを賛成したんだ。むしろ昼は否定までしたというのに。修はこんな風に、自分の勢いで話を進めがちで、時々周りの人間を置いていく。


「おい修、だから俺は……」


「決行は明後日の午前零時だ。じゃあな」


修は布団に潜り込んで、驚異の速さで寝てしまった。どうしてこういつもうまくいかないのであろう。人に流されまいと強く生きようとしているのに。結局流されっぱなしだ。……まあでも、いいか。


退屈していたのは、紛れもない事実だ。少しくらいの刺激も、たまには生活の針と灸になるだろう。わくわくしながら、明日もあるので眠りについた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る