三十七話 本体

 エレベータのドアが開くや否や、フウカの視界を埋め尽くしたのは強烈な光の束だった。

 反射的に腕で顔を庇うが、熱すら感じる圧倒的な光条に、魂ごと呑み溶かされるかのような錯覚すら覚えてしまう。


「どうなってるの……!? 私は大空洞に降りて来たはずなのに……!」


 すると次第に、不思議と目が慣れたというべきか、試しにまぶたを開いてみても光輝に眼球を焼かれる事はなく、いつしか背後のエレベーターすら消えていた。

 代わりに、極彩色の光が取り巻く、何もない空間に自身が立っている事を認識する。

 あたり一面、色とりどりの虹の橋が流動し、その流れを数え切れない光点が戯れ泳いでているかのようだ。


「あ、あれは……!」


 五十メートル程先だろうか。そこにフウカは、一際強く煌めく不定形の光体が漂っているのを見つける。

 映像で確認したのとほぼ同じ形。ならばあれが、かつて父と母ら開拓チームが邂逅し、ガレクシャスもまた御業の恩寵を授かった、パワーコアの本体――。

 ほとんど無意識に、背を押されるかのように走り出していた。

 体力の温存など念頭にない、四肢を存分に稼働させた全力疾走。


(早く……早く……!)


 フウカの足を急がせるのは、巡る因果の末に行き着いた、パワーコアとの遭遇における感銘でも、その神秘性に魅入られたからでもない。


(早く、本体の力を借りないと……みんなが!)


 こうしている間にも、地上でみんなは戦っている。

 手遅れになれば、ひどく後悔するという、焦りただ一点。


 なのに。


 どうしてかフウカは、いくら駆け続けようとも、一向にパワーコアとの距離が縮まっていない事に、気がつく。


「なんで……!? どうして近づけないの!?」


 パワーコアから答えが戻ってくるとも思えないのに、フウカは誰にともなく叫んでいた。

 間違いなく、今の自分に出せる全速力だ。すでに体感で、百メートルは走り続けている。 息は上がり、脂汗でこめかみと背中が冷たい。呼気が乱れて胸が苦しい。

 だというのに、最初に目撃した時と、お互いの距離がまったく変化していないのだ。

 どれだけ前へ進んでも、何も変わらない。体力だけが失われ、神経が摩耗していく。

 このおかしな空間のせいなのか、自分が進んでいると錯覚しているだけなのか、その原因も雲を掴むように捉えられない。


「早く、みんなを、助けないと……戻らないと、帰らないといけないのに……っ!」


 今のフウカにできるのは、ただ狂ったように足を交互に前へ突き出すだけだ。

 立ち止まれば、何かが崩れてしまう。

 永遠にパワーコアまで到達できないのではという疑念を、認める事になってしまう。

 それはすなわち、自分に資格がないという事実。母やガレクシャスのような大規模な御業を起こすには、力が不足しているという現実。


 ――ティム達を救えないという、意識が遠のきそうな帰結。


 フウカは目をつむり、無我夢中で叫んだ。身の内に潜む感情を無理にでも暴走させる。

 そうすれば、パワーコアへ辿り着けるとでも言わんばかりに。

 しかし、これほどきらびやかな、果てなく美しい世界に取り囲まれながらも、フウカ自身から光が輝き出す事はなかった。


(どうして……すぐそこにあるのに! 急がなきゃ、早く……!)




 フウカは足を止めた。


 がくりと折れた膝が震える。うまく息継ぎできない。今しも倒れ込んでしまいそうだ。


(……ダメなの……?)


 走り続けて、どれくらい経過しただろうか。

 数日。あるいはまだ数分に過ぎないのか。この空間には一切の変化がなく、一瞬と永久が互い違いに繰り返されるかのような異質な感覚が、フウカの精神力を容赦なく削ぎ落とし、感覚を狂わせていた。

 もう、疲れた。動けない。

 これ以上は、進めない。

 一度頭の隅にでも考えてしまうと、途端に駆け上ってくる疲労感が心をすり減らし、頭が重く垂れてくる。

 ――会いたい。お父さんに会いたい。お母さんに会いたい。

 ――ティムの声が聞きたい。みんなといたい。

 力なく見下ろす白い地面へ、ぽたり、ぽたり、としずくが吸い込まれて。


(……ああ、そっか……)


 それが汗のみではない、目元から滴っている事に気づいたフウカは、同時になぜ自分が、パワーコアに近づけないのかという理由において、逆説的な一つの解答を導き出していた。


「私の方が、離れてるんだ……」


 感情を増幅させれば、己の内にあるパワーコアの一部が、本体へ到達させてくれると思い込んでいた。その力が自分にあるのなら、応えてくれるはず、とも期待していた。

 だが、違った。御業はとうに発動していたのだ。

 フウカの、『戻りたい、帰りたい』という望みをかなえるためだけに。

 ずっと帰りたかった。家に。何の恐れも不安もない、暖かい空間に。

 気を抜けば顔を出しそうになる弱気をそれでも律し続けて、歩き出す原動力に変えて、フウカは深く長い孤独を手探りで進み続けていた。

 でもその一方で、長く隠し続けてきた、押し込め続けて来た、本音では。


「……どうして……!」


 どうして――私だけがこんな目に。

 もう嫌だ。立てないよ。誰か助けて。お父さん。お母さん。

 痛い程に熱い涙が頬を伝い落ちる。今さらの甘え。無様な泣き言。

 そんな事は分かっている。けれどもう止められなかった。自覚し、決壊した理性は、疲弊した肉体が上げる悲鳴とともに激流のような感情に押し流され、傷痕は広がっていく。

 両親に会いたいという、これまでフウカを支えて来た一途な思いこそが、ここに至って歪んだ形で道を阻んでいた。


「ごめんね、みんな……私、もう……っ」


 フウカは世界を拒むように、顔を覆う。

 勢いづいた御業が、フウカの精神を安息の闇へ閉ざしにかかる。

 声なき声。闇なき虚無の光の奥に、見える気がする。


 地上で倒れゆくみんなの姿が。


 ――赤いオーラが形作る拳撃に打ち据えられ、長老さんが殴り倒された。硬い地面へ叩きつけられ、青い火花を散らして弱々しく痙攣するばかりで、もう動けない。

 ――果敢に立ち向かうダララロが、容赦なく蹴り払われ、踏みにじられる。どこまでも冷酷に、冷徹に、暴力はいかなる反逆をも許さない。

 ――チェッキーがわしづかみにされ、取り込まれた。見知った顔も、そうでない顔も、等しくガレクシャスに喰い尽くされていく。


「もう、やだ……やめて、やめてよぉっ……!」


 みんながフウカの帰りを信じて待っている。それを裏切ってしまっている。

 力は尽くした。だけど最後の最後で、フウカは己自身の弱さに敗北したのだ。

 意識がぐらつく。このまま気絶できてしまえば、どれほどいいか。

 揺らぐ意思につれて思考も薄れ、地平の先へどこまでも伸びる鮮やかな光輝へ、沈み込むように染まり、ほどけて、融け合っていく――。


 ――フウカ!


 なのに、いまだに誰かが、フウカへ呼び掛けていた。

 声の主を、フウカは知っているような気がした。


「ティム……?」


 ――諦めちゃダメだ! 前を向いて、フウカ!


「前……?」


 言われるままに目を上げる。

 けれども、視界は暗幕が降りたようで、光は暗く滲み、パワーコアすらもう見えない。


「見えない……何も見えないよ、ティム……どこにいるの……?」


 ――ぼくはいつでもここにいるよ。君の側にいるから……!


 恐怖に屈した心が聞かせている、幻聴。

 ティムがこの無限に何もない空間に来て、フウカを見つける事なんてきっと不可能だ。


 ――だから、立ち上がって!


 でも、知らず知らず。

 フウカの膝は、腰は、導かれるようにして、持ち上がっていた。


(来て……くれたんだ……)


 涙が、はらりと流れる。己が無力を呪う悲しみからではなかった。これは喜び。

 不可能とか、あり得ないとか、そういう理屈ではない。

 ただ、感じるのだ。体温のないロボットなのに、確かなぬくもりを。

 そこにティムがいると。来てくれたと。

 聞こえないはずの声なき声が、フウカに淡くも、再び立ち上がれるだけの暖かな光を与えて。


(ティムが、いる……!)


 そして心が、満ちていく。


「……ティム……!」


 総身から、光の粒が輝き始める。光量で言えばごくわずかなもの。それなのにフウカは、今までにのしかかる様々な重圧が嘘みたいに、前へ踏み出す事ができていた。


 ――一人でダメでも、二人ならたどり着ける。


「うん……」


 ――大丈夫。ぼくがついてるからっ。


「うん……!」


 さあ、と自然とフウカは、次にティムが発する言葉へ、己の声を合わせていた。


「――行こう!」


 パワーコアの光が真昼の太陽の如く、はち切れんばかりにまばゆく、そしてあまねく極光で全てを包み込んだ。

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