十五話 棄てられた豪華客船


「やれやれだロ、まだ午前中なのに嫌な雲行きだロ」


 その日、ダララロは酒場の軒下に立って、黒々とした曇り空を見上げていた。

 何層にも連なった闇が不気味にうごめき、時折ゴロゴロと攻撃的な遠雷の音が鳴り響いて、刻一刻と気温は下がり続けている。


「こりや、一雨来そうだロ……」


 道行く住人もいそいそと家へ戻り、広場からはひと気がなくなっていく――と。


「あれ、ワガハイだロ」


 見知った人物が流れに逆らうようにして広場を横切り、ダララロと目が合った。


「む、ダララロか。今は休憩時間か?」

「いや、勤務中だロ。でもこの天気だからお客さんがあんまりいないんで、外の按配を見に来ただロ」

「ふむ。言われてみれば確かに空の機嫌が悪そうだ。今日はティムの所に顔を出す予定だったが、ここは日を改めると……」


 その時、二人の方に慌ただしく駆け寄って来る者がいた。

 話題に出た当のティム、そしてカインである。


「わ、ワガハイ! ダララロ!」

「ワンワンッ!」

「噂をすれば何とやらだロ。急いでいるようだけど、何かあったロ?」

「ふ、ふ、フウカが……フウカがいなくなったんだよっ……!」


 ティムの叫んだ言葉に、なんとなく弛緩していた空気は驚きに包まれた。


「待て、ティム。どういう事だ、説明しろ」

「あああ朝起きたらフウカがいなくてカインが吠えててベッドの下とかテーブルとか冷蔵庫の中とか見たけどどこにもいなくて屋根に登ってもあたりを見てもいなくて周りのどこを捜しても全然いなくて!」

「お、お、落ち着けだロ! とにかくフー子がいないって情報しか伝わってこないだロ!」

「つまり今から今朝方、フウカが何も言わずに家からも、その周辺からも姿を消していて、泡を食ったお前達は集落まで捜しに来たと……そういう状況か?」

「そ、そ、そう! どうしようフウカ、朝ご飯食べて行った形跡もないから、今頃お腹減ってるはずだよ……!」

「いや他にもっと気にするべき点があるだロ!?」

「その、フウカの向かっただろう場所に、心当たりはないのか?」


 冷静に質問を重ねるワガハイに、ティムもだんだん落ち着きを取り戻して来たようだ。


「分かんない……何も思いつかないよ……こんなの初めてで」

「クゥーン……?」

「ならば、最近フウカの様子がおかしいとか、そういう事はなかったか?」

「よ、様子? いや……でも、あっ」


 心当たりがあるらしく、ティムは何秒か硬直した。


「それがとっかかりになるかも知れん。言ってみろ」


 そしてティムが話した事情からは、フウカの抱える問題が深刻である事を充分に察せた。


「なるほど……姿を消したのはそれが原因だろう。フウカはこれまで幾度もホームシックにかられはしていたが、強い理性で抑えていた。しかし今回は……」

「溜まりに溜まったものが爆発したって事かロ? ――俺……フー子が心配だロ……」


 この場にいる全員が同じ気持ちである。

 けれども、フウカの行方に関するヒントは特に掴めていない――。


「ワンワンッ!」


 その時、カインが吠えて注目を集める。


「カイン? 何してるの……?」


 カインは広場の地面の匂いを嗅いでいたかと思うと、ティム達の方を振り返り、ある方角を向いて何度も吠えて見せたのだ。


「もしや、カインはフウカの匂いを辿っていたのではないか?」

「そ、そうなのっ? カイン、フウカがどっちに行ったか分かる……!?」


 カインはまた吠えた。その向いている方向に、ダララロははたとある場所を思いついたようで。


「ここを道なりに進んでいくと、村の中心……シラ浜があるだロ!」

「そんな所に、フウカが何の用事があるというのだ」

「そうだロ、立ち入り禁止エリアがあるだけで、他には何もないだロ!」

「浜辺の奥……もしかしてフウカは、そこに……お父さんとお母さんを捜しに行ったんじゃ!」

「バカな……たった一人でか!?」


 一同は浮き足立ち、次いで重々しい沈黙が落ちる。

 事態は予想以上に切羽詰まっていた。早急にフウカを見つけなければ、大変な事になるかも知れない。

 するとカインが一つ吠え、一気に走り出して立ち止まり、振り返って「早くしろ」とばかりにまた強く吠えた。


「カイン……! そ、そうだね、行かないと……フウカを迎えに!」

「我が輩も同行しよう。正直立ち入り禁止エリアには興味が……ではなく、フウカ救出に際して何か役に立てるはずだ」

「お、俺はどうすればいいだロ……?」

「長老さんにこの事を伝えて! 何かいい方法を思いついてくれるかも知れない!」


 すでに駆け出していたティムが一瞥しながら言うと、おろおろしていたダララロは嘘のように我へ返り、任せろと胸を叩いて煙突から煙を吐いた。


「……みんな行ってしまったロ。俺も急ぐだロ!」


 ダララロも仕事を放り出し、長老さんを捜しに出向こうとしたが。


「ふむ……何やら大変な展開になっておるみたいじゃな」


「ちょ、長老さんだロ! さすがいいところに!」


 神出鬼没。どこからともなく現れた長老さんが、のんびりと近づいて来る。


「さて……何が起こっているのか教えてくれんかの」



 不安は的中した。シラ浜に辿り着いたティム達へ音もなく、濁った紅を含む鈍色の雨粒が降り注いで来たのである。


「降り始めたか……これはいかんな……!」

「フウカはやっぱり奥に……でも立ち入り禁止エリアって、一体何があるんだろう?」

「さあな。それを知っているのは長老だけだ――立ち話をしている場合ではないぞ。とにかく駆けるのだ!」

「ワンワン! ワオーンッ!」


 ぽつぽつとした散発的な小雨から、視界をくらますつぶての如きどしゃぶりへ進化するのに時間はかからず、濡れた砂地にも踵を取られ、思うように進めない。

 左方に見える水平線では稲光とともに雷鳴が迸り、その轟音にティムはひっと悲鳴を上げつつも、必死に走り抜けていく。

 やがて岩場に差し掛かったティム達が目を留めたのは、地面に深々と突き刺さる立て札。

 錆び付いた板の表面には大きな文字で『進入禁止』とあり、いよいよこの先が、誰も入った事のない未知のエリアである事を示唆している。

 するとワガハイはおもむろに片眼鏡を光らせ、少し進んだアーチの形をした大岩の、雨を遮る物陰の前で立ち止まった。


「見ろ、ティム……足跡があるぞ」

「え……ほ、ほんとだ! これって……!」


 湿った土に点々とついた、小さな靴の跡。このかすかな穴こそがまさにフウカがここを通ったという事実を指している。


「安心するにはまだ早いが、我々の判断は正しかったようだな」

「うん! もう少しだ……今行くからね、フウカ!」

「ワン!」


 確信を得られた以上、立ち入り禁止エリアへ侵入する事にも、躊躇はない。


(神様の星にいる神様……見守っているならどうか、フウカに何事もないように……っ)


 ティムは勢力を増す雨の向こうにフウカの無事を祈りつつ、ひた走り。

 見つけた。再び砂地となった浜辺。全身を雨に打たれながら倒れ伏す、小さな人影。


「――フウカ!!」


 前のめりへ飛び込むみたいに駆け寄るティム。かがみ込んで呼び掛けるが、返事はない。


「ティム、どうだ、フウカの様子は?」


 うつぶせのフウカに触れたまま、呆然と振り返る。


「す……すごく身体が汗をかいてる。息も荒いし……め、目も開けてくれないよ……!」


 全身が濡れ、顔が赤く、まぶたは固く閉じられている。肩は細く上下し、呼気が浅い。


「いかんな……長時間この雨を浴びすぎたのだ。大気だけならまだしも、有毒物質をしこたま含んだ水に触れていれば到底耐えられん。それもこんな小さな身体では……」

「どうしよう……どうしよう! あぁ……フウカぁ……!」

「頭を冷やせ、ティム! とにかくフウカを雨から守るのだ! もたもたするな!」


 ティムはフウカを抱え上げ、その力ない重みに腕を震わせながら、ワガハイが背中に開いた安全なスペースへと押し込んでいく。


「どこかで早く休ませなければ……それに適切な治療を施さなければ、危険な事にかわりはない」


 だが、果たして今から戻って、間に合うのかと、豪雨の中で立ち尽くしかけるティム。 

 ――その足下をカインが横切り、何かを訴えかけるみたいに、浜辺の奥へと吠えた。


「か、カイン? どうしたの? 何か見つけ……え?」


 そちらへティムが向き直った刹那、一際激しい轟雷が空を切り裂く。


 周辺が白く染め上げられ、そのシルエットと陰影だけがくっきりと大きく、強調された。

 それは、赤い海から打ち上げられるようにして佇んでいた。

 何も語らず、動かず、ただそこに存在していた。


「……――船……?」


 全長三百メートル、百トン以上は軽くあるだろう、視界を埋め尽くす程の大型豪華客船。

 あまりにも長く風雨にさらされていた事を物語るように上部のデッキは崩れて瓦礫と化し、破片が周囲の砂地まで飛び散っている。

 船体そのものも黒い汚濁にまみれ、船名はかすれて読めず、船底は砂地までめり込んで座礁し、数え切れないヒビが蜘蛛の巣のように這っていた。

 船首に至っては岩と衝突でもしたのか無惨に折れ曲がって、ちぎれたアンカーの鎖が風に揺られて船体に当たり、悲しげな金属音を鳴らすばかりである。


「ここから奥には岩が邪魔して進めないようだな。――という事はまさか、この船があるから、立ち入り禁止になっていたのか……?」

「そ、それよりも、あそこ……船底に穴が空いているよ! 側に長い梯子もかかってる……あの中なら、フウカを休ませられるんじゃない……!?」

「……確かに、もし船の中に医務室が残っていれば、フウカを手当てする事も可能かも知れん。……いや、だが、何があるか見当もつかん。正直危険な賭けだぞ……」

「でも、ここから引き返すよりは可能性があるよ! ワガハイ、行こうよ……っ?」


 ワガハイは逡巡するようにしつつも、諦めたみたいに頷いた。


「……よし、毒を食らわば皿までだ。そうと決まれば急ぐぞティム、カイン!」

「ワンワンッ!」




 雨脚は弱くなる気配を見せず、不吉な紅い水滴が途切れる事なく大地を叩く。


「参った。ワシとした事が少々出遅れてしまったわい。フウカが心配じゃ……」


 雷雲の下を突っ切る影が一つ。杖を握りしめ、小走りで進む長老さんである。


「あの船はやばいからのう……ティム達だけでは荷が勝ちすぎるわい」


 聴覚機能を覆い隠すような音の濁流の中でも、長老さんはいつも通りののほほんとひとりごち、立ち入り禁止の立て札の近くまで差し掛かった時。


「……今は忙しいんじゃがなあ」


 ふと何気なく立ち止まり、困ったように呟いた、その直後――。

 正面にあったアーチ状の岩の上から、巨大な影が跳躍し、長老さんの眼前に降り立った。

 鉄塊の如き屈強な巨躯。肉食獣さながらの獰猛な佇まい。苛烈な覇気をたたえた視線。

 そいつは――ガレクシャスは暴力的な敵意をもって、長老さんを睨み据えた。


「何か用かの、ガレクシャス。こんな所に仲間も連れず、たった一人で」


 対して長老さんは取り立ててリアクションもなく、力の抜けた風情で問いかける。


「……聞きたい事がある。いや、どうしても話してもらうぞ」

「悪いが後にしてもらえんか。今おぬしと遊んでいる時間は――」


 長老さんを遮るように、ガレクシャスは総身から暴風のような闘志を吹き出させた。

 言葉にせずともその様相から、ガレクシャスがただで引き下がるつもりなどない事を悟らされる。


「工場地帯。……その地下で、『あれ』を見た」


 刃のように浴びせられる言葉にも、長老さんの表情は変わらない。


「お前ならば、俺の質問に答えられるはずだ。この期に及んで隠す腹ならば……」


 早く、重く、絶え間なく降りしきる豪雨。だがガレクシャスが無造作に二の腕を振るや、拳圧だけで無数の雫が弾け飛び、嵐の前の静けさじみた、束の間の静寂が辺りを支配する。


「言っておくが、『あれ』は決して、おぬしの望むような可愛い代物ではないぞ?」

「それを決めるのは、この俺だ」


 ややあって、虚空より呼び戻される雨と音。


「……本当に参ったわい。よりによってこのタイミングで、こんなとは」


 長老さんは静かにかぶりを振り、居合いの姿勢で杖を構え、ガレクシャスと相対した。


「おぬしもまた、『あれ』に心を喰らわれたか。……哀れな奴じゃ」

「覚悟はいいな。……裏切り者め……!」

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