千年桜・序

明山瑞来

千年桜・序

 こんにちは。春日芙美と申します。こちらこそ、帝京新聞の方に声をかけていただいて光栄です。「思い出の千年桜」のコーナー、いつも読んでいますよ。──でも、私の話はちょっと特殊だから、記事になるかしら。

 秋津島神社の千年桜は、町の桜より一足早く開花して、春の訪れを知らせてくれます。毎年、満開のころは、それはもう大勢の人で賑わって……。ご神木だから、登ったりするのは禁止でしたけど、子供たちは、樹の周りで追いかけっことかをよくしていました。私はおとなしい子だったので、根元に座って本を読んでいるのが好きでした。今は樹の周りを柵で囲われて近づけませんけど、当時は何もなかったんですよ。

 私の父は八歳の時に事故で亡くなりました。それから母は毎日夜遅くまで働くようになり、私は誰もいない部屋に帰るのが嫌で、学校帰りに神社に寄ることが多かったんです。

 あれは、私が十歳になる年の春でした。

 その日の夕方も、私は千年桜の根元に座って本を読んでいました。

 桜は満開が過ぎて花見の人も少なく、落ち着いて座っていられました。時々はらはらと花びらが散って、茜色の陽の光に紅く染まると、幻想的な雰囲気でした。桜の樹に見守られている気がして、そのまま一晩明かしてもいいくらいに思っていました。

 陽が落ちる寸前くらいの時のことです。

「家に帰らなくてもいいのかい。もう夜だよ」

 顔を上げると、見知らぬ男の人が立っていました。目元の涼やかな青年でした。

「大丈夫です」

 私はそんなことを答えましたが、その人は眉をしかめて、めっ、という顔をしました。

「送っていくから、もう帰りなさい」

 大人の人に強い口調で言われたら、従うしかありません。しぶしぶ神社から出ていきました。家に帰るのが嫌で、しぜんと歩調がゆっくりになります。

「晩御飯はいつもどうしているの?」

「自分で作っています」

「偉いね」

「母が働いているから」

 次の質問は、「お父さんは何をしているの」だったら嫌だなあと思いました。

 でも、その人はそれ以上質問せずに、「君は読書が好きなの。僕も本は好きだよ」と、話題を変えてくれました。

 本の話題になったことがうれしくて、私は問われるがままに、お気に入りの本の話をしていました。彼はにこにこして聞いてくれました。一通り話した後、私は質問しました。

「お兄さんは、どんな本が好きですか」

「そうだねえ、小説というより、詩歌のほうが好きかな」

「詩歌?」

 読書は好きでしたが、詩歌の類はまだ読んだことがありません。

「古から現代まで、人の世には美しい詩歌がたくさんあるよ。今度読んでみるといい」

「お兄さんが好きなものってありますか」

 そのとき教えてくれたのは、西行のあの有名な歌です。

「願わくは 花の下にて 春死なむ

 その如月の 望月のころ」

 小学生だった私にその歌の意味などわかるはずもありませんが、花というのが桜だったら、桜の樹の下で死にたいなんて、ロマンチックな歌だなあと感じました。

 他にも有名な和歌をいくつか教えてもらっているうちに、いつの間にか自分の家──木造アパートの一室の前まできていました。

 楽しかった私は、お兄さんと別れる際に、「明日も桜の樹で待っているから、色々教えてね」と、お願いしました。お兄さんは少し困ったような顔をしましたが、そのあとにっこり微笑んで、うなずいてくれました。

 次の日、私は開設されたばかりの小学校の図書室で和歌や詩の本をたくさん借り、千年桜のもとへ行きました。

 夕方になると、またあの人がやってきました。私は喜び勇んで、借りてきた本をいっぱい見せました。彼も樹の根元に座って、交互に詩を朗読したり、和歌の作者のあてっこをしたりました。

 退屈だった日常は、彼のおかげで日々新しい発見と感動がある、わくわくしたものに変わりました。彼は漢詩も好きで、小学生の私にわかりやすく読み下してくれたりました。李白や杜甫といった名前を知ったのも、その人のおかげです。

 彼は青年なのに賢者のような雰囲気がありました。樹の下で詩を朗読する姿を見ていると、胸が騒ぐときもあれば、空に浮かび上がるような気持ちになることもありました。

 彼が散りゆく桜を眺めながら、

「空蝉の 世にも似たるか 花桜

 咲くと見しまに かつ散りにけり」

と詠んでいる姿は、まるで平安時代の人が甦っているようでした。

 そんな楽しい時間が日課のようになり、桜がすっかり散って、枝に若葉が萌え出したころ──ある日、その人が申し訳なさそうに言いました。

「ごめんね。僕は明日、遠くへ行かないといけないんだ」

「いつ帰ってくるの」

「もう帰ってこれないんだ」

「また会いたい」

 驚きと悲しみで胸が痛くなります。お兄さんは私の目を正面から見て言いました。

「君が幸せになることを祈っているから」

 幸せ。幸せってなんでしょう。お兄さんといることが私の幸せなのに、そんなことを言うなんて、許せないと思いました。

「そんなの嫌。私、お兄さんと結婚したい」

 自分でも、口から出た言葉にびっくりしました。彼のほうがもっとびっくりしたでしょう。本気で困ったような顔に、私は失敗したと思いました。恥ずかしかったです。

「もちろん、今じゃないよ。十年後。私が二十歳になったら」

 慌てて言いつくろいました。お兄さんは微笑んで、頭を撫でてくれました。

「ありがとう。でも……僕は誰とも結婚をする気がないんだ」

 私の初恋は見事に砕け散りました。あまりのショックに私はうつむいたまま顔をあげられませんでした。

 考えてみれば当たり前の話なんですけどね。お兄さんは親切心から孤独な少女の遊び相手をしてくれただけで。そのとき年の差は十五歳以上はあったでしょうか。

「芙美ちゃんは大切な友達だよ」

 その人はそんな風に慰めてくれました。このまま別れるのは忍びないと思ってくれたのでしょうか、こんなことを言ってくれました。

「じゃあ、十年後、またこの桜の樹の下で会おう。そのとき芙美ちゃんが素敵な女性になっていて、僕を後悔させてよ。こんな素晴らしい女性を振って、もったいないことしたなあって」

 お兄さんは一生懸命言ってくれましたが、全然慰めになっていなくて、なんだかおかしくなりました。

「へんなの」

「へんかな」

 お兄さんはこわごわと私の瞳を覗き込みます。私が泣いていないか心配だったのでしょう。

「十年後、絶対会いに来てね」

「約束する」

 私たちは、指切りしました。 

 当時は、リベンジなんて言葉はありませんでしたけど、子供ながらに、十年後素敵な女性になって、また告白しようなんて考えていました。

 まあでも、そんな約束、果たされるわけがないってお思いですよね。

 彼の名前? それが教えてくれなかったんです。不思議でしょう。職業も住所も、何一つ知りませんでした。お兄さんのことは夢の中の出来事のようでした。でも、ふとした拍子に思い出すことがあって、寂しいときに心が温まる記憶でした。だから今でも細かいところまで覚えているんでしょうね。

 高校を卒業した私はお勤めに出ました。本当は本屋さんか図書館で働きたかったのですが、あいにく採用されず、文房具を扱う会社で事務の仕事をしていました。友だちのなかにはお見合いしたり、恋人と結婚したりする子も出始めていましたが、私の会社は既婚者のおじさまばかりで出会いもなく、さみしい青春を送っていました。

 二十歳になる年に、千年桜が国の天然記念物に指定されたと話題になっていて、私は子供のころの約束を思い出しました。あれからちょうど十年が経っていました。

 数年ぶりに神社の千年桜のもとに行きました。もちろん、相手は約束を忘れていると思っていましたし、思い出を振り返ることができれば十分、みたいなつもりでした。でも、白いワンピースを着ていったのは、ほんの微かでもお兄さんが来ている可能性を考えていたからでしょうか。天気予報は夕方に雨だったので、桃色の傘も持っていきました。

 日曜日の昼下がり、空はまだ晴れていて、ぼんやりと霞がかった青色でした。桜も散りかけて花見の人もおらず、境内にはキャッチボールをする少年が二人いるだけでした。

 桜の樹は思い出のなかと変わらずどっしりと静かにただずんていました。桜の花びらが舞い散る中、樹に背を預けて立っていると、あのころの楽しかった時間がありありと蘇ってくるようでした。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に

 しづこころなく 花のちるらむ」

 思い出された歌をなんとはなしに呟いてみました。そのとき、ふと人の気配を感じました。誰かが樹の反対側にいるのです。

「ちるを見て 帰る心や 桜花

 むかしに変はる しるしなるらむ」

 西行の歌が記憶のなかの声とともに聞こえてきて──心底驚き、背筋に悪寒が走りました。だって、本当に会えるなんて思っていなかったのですから。

 どうしよう。最初に思ったのはそれでした。約束を守ってくれて嬉しいという気持ちより、初恋の美しい思い出が壊れたらどうしよう、という気持ちのほうが強かったです。

 素敵な女性になっていると胸を張っていえるほど自分に自信はなかったし、思い出のなかの好青年が、年を取っておじさんになっていたら嫌だなあと思いました。

 そんな私の動揺が伝わったのか、相手は樹の反対側で密やかに笑う気配がしました。

「ごめんね。驚かせちゃったみたいだね。嬉しかったものだから、つい。君が目を閉じていてくれたら、このまま退散するよ」

「ま、待って」

 私は波立つ胸を押さえながら、大きく息を吸いました。

 十年前の子供との約束を覚えてくれていたんだ。今どこに住んでいるのか知らないけど、わざわざ来てくれたのに、追い帰すようなことはできない。

 覚悟を決めて、彼のいる方へ回りました。彼がお腹が出ていようが禿げていようが、ショックを受けないと心に決めて。

 彼は樹の肌に背をもたれかけて、立っていました。記憶の中の姿とまったく変わりませんでした。艶のある黒髪、張りのある肌、瞳は深い色を湛えています。

 絶世の美男子というわけではないけれど、不思議とひきつけられる魅力のある顔立ち。

 彼が思ったより若くて、驚きました。

「お兄さん……全然変わってないですね。今、おいくつなんですか」

 相手は陰のある微笑を浮かべました。

「いくつに見えますか」

「二十代半ばから三十代はじめくらい……でも、そんなはずないですよね」

 彼はおどけたように言いました。

「若く見られることが多いんです。本当は、驚くくらい年を取っていますよ」

「まあ」と、私は笑いましたが、彼の目は少しも笑っていませんでした。

「そういえば私、お名前も聞いていなかったんですよ」

「名前は、僕には記号のようなものですから」

 謎めいた言葉に戸惑いましたが、私は食い下がりました。彼はとうとう観念したように教えてくれました。

「今は岩谷清二といいます」

 今は? 疑問がわきます。以前は別の名前だったということでしょうか。

 こちらの不安と疑問を見透かしたのか、彼は微苦笑しました。

「思い出のままにしておけばよかったね」

「いいえ」

 私はあわてて首をふりました。

「来てくださって、とても嬉しいです。子供のときの約束を覚えてくれていて」

「約束は、僕の生きる意味だから」

 彼は右手を私に差しだしました。

「会えてよかった。とても綺麗なお嬢さんになっていて、びっくりしたよ」

「後悔しました? 振ったこと」

「ああ、充分」

 握手の後、お互いに少し笑いました。

 笑うと少年のような邪気のなさが顔に広がって、年上の人なのに可愛いと思えます。私は、彼のことをもっと知りたいと思いました。

「今はどちらにお住まいなんですか」

「……西のほうです」

 こんな風に、何を聞いても清二さんははっきりとは答えてくれません。だんだん焦れてきた私は、いちばん聞きたかったことをずばり聞いてしまいました。

「ご結婚、されているんですか」

 清二さんははっきりと首を振りました。

「独り身です」

 嬉しかったです。私は喜びが顔に出ないよう苦労しながら、さらに聞いてみました。

「どなたか、いい人はいらっしゃるんですか。婚約されている方とか」

「なんだか身上調査みたいだなあ」

 清二さんは苦笑します。

「そういう人はいませんし、つくらないようにしています」

 どきっとしました。淡々とした口調のなかに、はっきりと拒絶の意思を感じたからです。

「なぜですか」

 問う声が掠れているのがわかりました。

「昔、ある人と約束したんです。『生まれ変わったら、また会いたい』って。その約束のために、僕は生きているんです」

「え……」

 私は混乱しました。けれども彼はそれ以上説明する気がないのか、黙って空を見上げました。

 太陽が雲の間に隠れて、急にあたりが暗くなりました。空の一隅から黒い雲が湧き出しています。風も少し吹いてきました。

「すぐに雨が降りそうですね」

 このまま帰ろうと言いそうな彼に、私は左手に持った傘を見せました。

「大丈夫です。私、傘を持っていますから」

「さすが聡明なお嬢さんだ」

 彼は桜の樹を見上げました。

「彼にお別れを言わないと。もうしばらく来れなくなるから」

 いとおしげに樹の肌を撫でます。

「また……遠くへ行かれるのですか」

「同じところには長く住めないんです」

「お仕事の関係で?」

「いいえ、僕という人間の属性の問題です」

 謎めいた言葉に戸惑っていると、ぽつり、と額に冷たい滴が落ちてきました。小学生たちは慌てて帰っていきます。傘を開こうとすると、彼に手で止められました。

 「雷が来るから、傘はささないほうがいい」

 遠くの空でゴロゴロと雷が鳴っています。

彼は神社の本殿のほうを指さしました。

「樹の下は危ない。あそこへ避難しましょう」

 大粒の雨が降り出すなか、二人で本殿へ駆けました。てっきり軒先で雨宿りするのかと思ったら、彼は靴を脱いで、神主さんが祝詞などを行う畳敷きの拝殿に入っていきました。

「早く。雷は軒先でも危険なんですよ」

 私も慌てて靴を脱いで、拝殿の中へ恐る恐る入っていきました。雷の音はだんだん近くなってきて、空に稲妻が走るのが見えます。彼が手招きするので近くに寄りました。肩が触れ合うほどの近さで、どきどきします。

 突然、光とともに地を割るような轟音がして、私は身を縮めました。近くに雷が落ちたような音でした。彼が大丈夫だという風に、肩に手をおいてくれます。そっと目を上げると、白いシャツの襟の第一ボタンが留めていなくて、少しはだけた首もとの右側にほくろが見えました。変に意識して気恥ずかしくなり、慌てて目をそらしました。

 しばらくすると、雷はやみました。雨は細かい粒に変わり、静かに降り続いています。

「芙美ちゃんは、今何をしているんですか」

 彼が聞いたので、私は事務仕事をしていることを話しました。

「仕事は楽しい?」

「楽しくはないです……でも、お金をもらえるから一生懸命やらなくてはと」

「働くってね、傍を楽にするっていう意味なんだそうですよ」

「傍を楽にする?」

「そう。自分の仕事が誰かや何かの役に立っている、楽にしている」

「そうですか……でも、私の仕事なんか」

「芙美ちゃんが事務仕事をしてくれるから、会社の営業や経理のおじ様たちが助かっていると思いますよ」

「そうだといいですけど……」

 話しているうちに、思い通りの就職ができなかったという心のつかえが、少しとれたような気がしました。

 社長が大事に飼っている猫の話や、隣の席の男性の愛妻弁当をのぞき見するのが楽しみだとか、たわいもない話を私がするのを、彼は微笑みながら聞いてくれました。どれくらい長い時間、二人で座っていたでしょうか。

「もう大丈夫ですね。雨が上がりました」

 彼は立ち上がりました。自分のとなりにさっと冷たい空気が入って、私はとても残念な気持ちになりました。

 拝殿を出る彼に続いて、私も傘を持って出ます。彼は私にきっぱりと告げました。 

「もう、行きます。今日はありがとうございました」

「また、会いたいです」

 彼はそっと首を振りました。

「もう、会えません。今日は会えてとてもうれしかったです。君の幸せを祈っています」

「そんな社交辞令じゃなくて、私が欲しいのは──」

 私は必死でした。これで本当にもう二度と会えない気がしたから。立ち去ろうとする彼の腕をつかんで、追いすがりました。

「お願いです。時間をください。私はあなたのことを知りたい」

 振り向いた彼は表情を消していました。

「僕は思い出という名の屍体です。桜の樹の下に葬ってください」

「どうして? あなたも私も生きているのに」

 そのときの清二さんの寂しそうな瞳。いまだに忘れられません。

「僕はあなたと共に歩むことはできない。あなたの乗った列車を見送ることしかできない。一瞬、列車の待ち合わせで同じ駅に停まることがあっても、同じ列車には乗れないんです」

 私には、彼の言葉の意味がよくわかりませんでした。でも、自分の恋が二度にわたって散ったことはわかりました。

 彼の腕を離した私は、あふれる涙を抑えることができませんでした。

「すみません。やはり来るべきではなかった。でも……約束は守りたかったんです」

 矛盾する言葉。彼の気持ちはわかりませんでした。どうして会いに来たのか。どうしてもう会えないのか。聞きたくても、これ以上しつこくすれば、彼に嫌われるのではないかと思って、何も言えなくなりました。

「私こそ……ごめんなさい。会えてうれしかったです。もう、わがまま言いません」

 いい子を演じられる自分が恨めしかったです。彼は足元に散っている桜の花びらを見つめ、呟くように言いました。

「花開けば風雨多く

 人生別離足る」

「人生は別ればかり──ですか」

 今度は私の目を見て言ってくれました。

「出会いがなければ、別れもありません。あなたと出会えたことは、僕の記憶から永遠に消えません」

「私も決して忘れません」

 こうして、私たちは別れました。

 私の初恋は、千年桜の根元に葬り去るしかなかったのです。

 これだけ聞けば、青春の単なる思い出話でしょう? でもね、実はこの話には後日談があるんです。今まで誰にも話したことがなかったけれど……貴女は信じられるかしら。

 彼と別れて、五十年が経ちました。その間、私はお見合い結婚し、男の子に恵まれ、毎日必死ながらそれなりに充実した日々を送りました。夫の会社が倒産しそうになって奇跡的に持ち直したり、息子が山で遭難して奇跡的に発見されたりと、いくつかドラマはありましたが、平凡な人生を送っていました。

 夫と死別した次の年、晩婚の息子に待望の赤ちゃんが生まれ、皆で神社にお宮参りをしたときのことです。

 千年桜は周りに柵がめぐらされています。遠目にも、花びらが根元にじゅうたんをつくっているのが見え、ああ、昔、初恋の人と会ったときのようだとぼんやり思いました。

 神社の本殿でお参りし、家族で記念撮影をしていたとき、一人の青年が「撮りましょうか?」と、声をかけてくれました。

 息子夫婦は喜んでお願いしました。撮影が終わり、息子が青年からデジカメを受け取る時、私は思わず「あっ」と、声をあげました。その人が清二さんにそっくりだったからです。私を見た向こうも驚いた顔をしていました。

「清二さん?」

 あり得ないけれど、私は叫んでいました。

「おふくろ、どうかしたの」

 息子が不思議そうな顔をしています。清二さんと瓜二つの青年は、私を見て、首をそっと振りました。そのしぐさに、私の胸は激しくざわめきました。

「ごめんなさい。昔の知り合いにそっくりだったものだから……」

「やだなあ、おふくろ。何十年前の話。すみません、歳だからぼけちゃって……」

「いえいえ」

 青年は微笑んで、会釈をして立ち去っていこうとします。私は息子に小声で伝えました。

「知り合いのお孫さんかもしれない。母さん、ちょっと確かめてくる」

 制する息子に耳をかさず、私は青年を追いかけました。心はすっかり娘時代に戻って。

「岩谷清二さんをご存じですか」

 青年は足を止めました。

「いいえ、知りません」

 そう返事する彼に近づいた私は、見つけてしまったのです。Vネックの服を着ている彼の首元の右側に、ほくろがあるのを。

 息がとまるほど驚きました。同じところにほくろがある人なんて、いないはずだから。この人は、他人のそら似でも血縁関係でもなく、清二さんその人だということになります。

「なぜあなたの首には、清二さんと同じほくろがあるの……」

 恐る恐る尋ねると、彼は驚いて首筋に手を当てました。

「そんなところまで覚えていたんですか」

 その言葉に、確信しました。この人は清二さんだと。彼の正面にまわり、見上げます。

「なぜあなたは若いころの姿のままなの」

 彼は、答えを迷っているようでした。

「私、もう先が長くないんだから、本当のことを言ってください」

 彼は観念したように口を開きました。

「……人間の老化は、遺伝子にプログラムされているんだそうです。だから人間は百年そこそこしか生きられない。逆に言えば、老化のプログラムが作動しなければ、人間はもっと長くいきられるというわけです」

 いきなり出た難しい言葉の羅列に、頭がくらくらしました。

「もう少し簡単に言って」

「つまり僕は、普通の人より何倍も長く生きているんです。この姿のまま」

「そんな人間、存在するの……」

 信じられない気持ちの私に、彼はわざとのように淡々とした態度で言います。

「古代には何百年も生きた人間に関する記述があります。旧約聖書のアダムは九百三十年生きた。日本の武内宿禰は天皇五代に仕え、三百歳余りまで生きたと。ヨーロッパのサンジェルマン伯爵は何十年も年をとらず、本人も何千年も生きていると言っていたと」

 意味を理解するのに時間がかかりました。脳裏に浮かぶのは、歳を取らずに生き続けた尼の伝説。不老不死の吸血鬼。

「……八百比丘尼伝説や吸血鬼とか……」

 清二さんは首を振りました。

「僕は人魚の肉は食べていませんし、人の血も啜りません。伝説の人の不老がどんな原因かはわかりませんが……。伝説のなかに真実があるのかもしれませんし、本当は全然違うのかもしれない。僕の場合は……」

 彼は言いよどみました。しばらく考えるように、遥か昔に思いを馳せるように黙っていましたが、やがて首をふりました。

「言ってもしかたないことです。知らない方がいいこともある」

 私は混乱した気持ちのまま質問しました。

「年をとらないって、本当に、本当なの?」 

「嘘は言っていません。信じられなければ、桜の精にでも会ったと思ってくれればいい」

「ごめんなさい。あなたを疑っているわけじゃなくて──驚いたから」

「驚くのがふつうですよ」

 そして、長年謎だった彼の言葉の意味をやっと理解できました。

「だから、あなたは共に歩めないと言っていたのね……」

 同じ列車に乗れないと言った言葉の意味も。あのとき彼は寂しそうな瞳をしていました。男女に限らず、彼は置いて行かれる気持ちを何度も味わったことがあるのでしょう。

 相手が女性だったら、彼に嫉妬してしまうかもしれません。伴侶が年をとらず、自分だけが老いて醜くなっていのに耐えられる女性はいないでしょう。五十年経った今だから、私も諦めがつきますが、もしあのまま一緒にいたら、悩み苦しんだかもしれません。

 そのことを十分にわかっていて、彼は私を拒絶したのだ──長年の心のつかえがとれたようで、すっきりした気持ちになりました。

 申し訳なさそうに眼を伏せている彼に、もう、気にしなくていいのよと、伝えたかったです。

「空蝉の 世にも似たるか 花桜

 咲くと見しまに かつ散りにけり」

 詠み人知らずの歌を口にすると、彼は面をあげました。

「たとえ一瞬でも──私はあなたと同じ駅に停まれてよかった」

 そして冗談ぽく付け加えました。

「こんなおばあちゃんに言われても、困るかもしれないけど」

 彼は優しい目をしました。

「あなたは以前と同じように魅力的ですよ」

「本当に?」

「本当です。あなたには幸せになってほしいと、ずっと願っていました」

 私は思いのたけをこめて答えました。

「幸せでした。今も、幸せです」

 彼は花開くように笑いました。

 霞がかった春の空に、淡く広がる桜の花。その風景に溶け込むように微笑む彼を、いつまでも見ていたいと思いました。

 そのときふと思ったのです。

 ああ、もしかして、この人はずっと私のことを、どこかから見守ってくれていたのではないか。奇跡だと思っていたことは、この人が起こしてくれたことなのではないかと。

 じゃあ、清二さん自身はどんな人生を送っていたのだろう。以前言っていた“約束”をした人には出会えたのだろうか──。

 それを聞こうとしたとき、「おふくろ。本当に知り合いの方なの?」と、向こうからやって来た息子が訝しげに聞いてきました。

「ああ、ごめんね。母さんの勘違いだった」

「何だ、もう。お引き止めして悪いだろう」

「本当にすみませんね。おつきあいありがとうございました」

「いえいえ、千年桜に会いに来て、とても素敵な出会いを頂きました」

「千年桜がとりもつ縁ですね」

 青年は笑顔のまま無言で会釈をして、今度こそ本当に歩み去っていきました。

 ──私の話は以上です。長時間、聞いて頂いてありがとうございました。ええ、荒唐無稽な内容ですね。記事にできないと思いつつ、私も誰かに聞いてもらいたくて、つい話してしまいました。

 彼のことを調べる? それは無駄だと思います。たぶん今はもう、違う名前だと思います。あの人は、桜の精だったんですよ。

 私が恋をしたのは、千年桜の化身。

 そういうことに、しておきましょうよ。




 注:和歌の引用はすべて、『古今和歌集』と『山家集』より。              

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千年桜・序 明山瑞来 @mizuki-akiyama

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