二代目聖女、誕生

1-1.本命はセーラー服の美少女



 母と入る風呂の時間が、聖鞠ひまりは大好きだった。


 女手ひとつで自分を育てるため毎日夜遅くまで働いていた母は、一緒に食事は摂れなくても娘との時間を少しでも作るためにと必ず二十一時までには帰ってきた。

 聖鞠も母が帰ってきてすぐに一緒にお風呂に入れるように、宿題も食事の後片付けも明日の準備も全部済ませるようにしていた。

 お風呂で母は聖鞠の話に耳を傾ける。

 今日学校でこんなことがあった、テレビでこんなことを言っていた。他愛のないことを一生懸命に話す娘の目を見る母の瞳はあたたかかった。

 母を独占できる、あたたかな時間。

 それが聖鞠は嬉しくて、シャンプーをしている間も身体を洗っているときもずっとずっと喋りっぱなしだった。

 口の中に泡が入り噎せてしまっても、母がいなかった時間を埋めたくて、ほんの些細な出来事まで聖鞠の口から言葉が飛び出していく。

 お風呂の時間はそうしているとあっという間で──


『さて、そろそろ上がろっか』


 その母の一言にいつも物足りない気持ちになった。

 それでも我慢して聖鞠は母と一緒に風呂を出る。


 本当は寂しい。

 もっといっぱい話をしたい。

 母と遊びたい。


 そう思っていたけれど、それを言うと母を悲しませるだろうことも分かっていたので心の片隅に追いやっては笑顔を作る。

 だって、母は私のために頑張っているのだから。


 そんな幼少期を過ごした聖鞠にとって風呂は特別な時間である。

 独りで入るようになってからも、聖鞠の癒やしに変わりなかった。

 あたたかい湯に浸かっていると母を思い出すから。

 優しい母とのあたたかい時間に包まれて、辛かったこともすぐに忘れられる。自分は独りじゃないって思えるのだ。


 明日も頑張ろう、幸せになるために。

 そう意気込んで再び立ち上がることが出来る。


 ────だと言うのに、今の聖鞠はなんとも言えない気持ちで風呂に入っている。


 それもとっくの昔に卒業したセーラー服を着て、だ。


 緑のタータンチェック柄のセーラー襟。

 光沢のある緑色のスカーフ。

 胸ポケットには桜を模した校章。

 そして、襟とお揃いの柄の袖口とプリーツスカート。


 まさか異世界に来て、これに袖を通すことになるとは思わなかった。


 聖鞠に着衣のまま風呂に入る趣味などない。

 しかしどうしてそんな珍妙なことになっているのか。


 最悪に襲われ続けた今日一日。

 最初に事が起きたのは朝だった。





 営業アシスタントとして入社して三年目の秋。いつものようにいつも通りの時刻に出社すると、朝から営業課のフロアがやけに賑わっていた。

 課長のデスク周辺で営業課の社員が集まっており、わいわいと和やかな雰囲気で何かを話している。遠目から見ても分かるほどの祝福ムードだった。

 さては誰か結婚するんだな。付き合って四年の彼がいると言っていた永宮ながみやさんか、それとも別の課に彼女がいる木崎きざきくんか。出社したばかりだった聖鞠もデスクに荷物を置いて、誰だろうと予想しながら人垣に近づいてみる。


(……あれ?)


 ふと出来た隙間からその人が見えて聖鞠は首を傾げた。

 細身の長身で甘いルックス。その上仕事も出来るとなればモテない訳がない、爽やかな笑顔が売りの営業課のエース。人当たりもよく付き合いも良いので、課長や部長たちにも気に入られている。

 ────聖鞠の三年先輩の三枝木さえき。この半年間甘いひとときを過ごして来た恋人が人だかりの中心にいたのだった。しかも、デレデレの笑顔を浮かべる課長と一緒に。


 どうして彼が? そう思って立ち止まっていたら、中心にいる彼と不意に目が合った。しかし、すぐに逸らされてしまう。

 生じていた違和感がますます大きくなる。何か仕事でめでたいことがあったのだろうか。でも今は大きな案件も抱えていないはず────。


「あっ! 天河さんおはよう!」

「おはよう、永宮さん。どうしたの?」


 考え事は可愛らしい声に遮られた。声を掛けてきたのは予想した一人の女性、永宮だった。

 彼との関係は誰も知らない。当然、目の前の永宮も。だから訳知らぬ風を装い、聖鞠はいつも通りの挨拶を返す。


「すごいんだよ、ビッグニュース!」

「えー? なになに?」


 目をきらきらと輝かせて興奮気味に言う彼女を微笑ましく思う反面、話題の中心が彼だと察した胸中は複雑だった。それでも聖鞠は努めて明るく興味深々な風で永宮の話に耳を傾ける。


「三枝木さん、羽柴はしば課長の娘さんと婚約だって!」

「……婚約?」

「そう! なんでもね────」

「ああ、天河くん! キミも聞いてくれるのかね、三枝木くんと娘のことを!」


 でっぷりとしたお腹を揺らして、絵に描いたような幸福感を纏った課長が聖鞠と永宮の会話に割り込んでくる。話したくて話したくてたまらないらしい。その後ろでは彼が曖昧に微笑んでいた。


(……一体、何なの?)


 複雑な胸中を隠して聞いた話はこうだった。

 課長の娘は高校三年生。いつもは自転車通学なのだが、大雨で久しぶりに電車で通学していたところ痴漢に遭遇してしまったそうだ。

 怖くて声も出せずにいたその時、助けてくれたのが彼──三枝木であった。十七歳の娘さんにはさぞヒーローに見えたことだろう。課長の娘は彼に一目惚れしたのだ。

 可愛い──それこそ目に入れても痛くない程に可愛がっている娘のピンチを助け出してくれたのが、自分のお気に入りの社員であると知った課長は、娘の恋路にノリノリで協力。三枝木も三枝木で最初は遠慮しつつも、食事に誘われれば断ることなく参加し、課長一家との距離を縮めていったとのことだ。

 課長の奥方も『結婚はまだ早い』なんて言いつつ、彼の人柄を気に入り今では満更でもないらしい。


 そしてついに先日、課長の方から『娘が高校を卒業したら婿に来ないか』との申し出に三枝木も快諾してくれたそうだ。

 ありがたくも丁寧に三枝木の婚約相手である娘の写真を見せてもらったが、課長に似ずセーラー服が眩しい美少女だった。


 まさか、そんな。正直そう思った。

 しかもこれは最近の話ではないらしい。課長の娘を助けたのは一年も前のこと、聖鞠と恋人になる前からなのだ。


 周りには付き合っていることを秘密にしていたため、課長や大勢の前で詰め寄ることもできず、就業開始時間となりその場は解散となった。

 業務中も隙をみて三枝木との接近を試みようと思っても、あっちはあっちで聖鞠を避けている模様。すれ違いにすれ違って、昼休憩。


『そういうことだから』


 たった一言だけメッセージが届いた。

 受信したのは会社があるビルの非常階段。二人の逢瀬の場として使っていたところだ。もしかしたらここで待っているかもしれないと思ったのに。


「そういうことって、どういうことだっつーの!」


 ビルとビルの間を通り抜ける風に、聖鞠の叫びは攫われた。




 女として生まれて二十五年。

 初めてのお付き合いは高校一年生、友人に紹介された大学生。彼は会いたい=ヤりたいだった。母から初めての相手は慎重に選びなさいと教えられていたので一ヶ月でお別れした。

 次は奨学金制度を利用して入学した大学一年の春。同級生だった。その頃にはすでに一人暮らしをしていたので生活費や返済する奨学金のためにバイト三昧していたら、あっけなく他の女の子に乗り換えられた。

 その次は大学二年の夏。友達と行った海で出会った社会人二年目の人。前回の反省を踏まえて、彼との時間を優先していたらお金をせびられるようになった。彼はパチンカスだった。


 そして、次。

 入社した会社で聖鞠の育成担当だった人──三枝木だ。

 格好良くて、聖鞠がミスしても厳しいこと言いつつばっちりフォローしてくれて、仕事も出来て皆からも頼られていて。独りぼっちだった聖鞠にはそんな彼が眩しく見えて、恋をするまでそう時間は掛からなかった。

 しかし三枝木はモテる。言い寄る女性は数知れず。それでも今は仕事が恋人だからと断っているのを知っていたから、聖鞠も特に告白するなんて考えてなどいなかった。

 近くにいられればそれでいい、そう思っていた。

 だが、きっかけさえあれば簡単に変わる。

 半年前。大きな案件が無事契約に繋がり、課の皆とした打ち上げでのことだ。


『二人で飲み直さないか』


 そんな誘いをされて、期待しないわけがない。

 彼なら、そう思って初めてを捧げた。

 皆に気を遣わせてしまうから内緒にしよう、社内恋愛ってそういうものだと思って納得した。

 人目を忍んで、非常階段の踊り場で、聖鞠の部屋で二人のときを過ごした。


 休日にデートをしたことも無ければ、彼の部屋に呼ばれたこともない。彼を慕う後輩が来るかもしれないから、そう言って。


 ────そういうことだから。

 過去の経験を踏まえて考えれば、それがどういう意味なのかは容易く想像できる。


 端的に言うと、弄ばれたのだ。

 というか、想像せずとも非常階段に来る前に寄った女子トイレで解を得ていた。自分の他にも、彼の相手が存在していたから。


 人並み以上に性欲のある三十手前の男が、高校生との健全なお付き合い耐えられるだろうか? いいや、耐えられない。

 十五の頃に母が亡くなりそれから祖母と暮らしていたが、その祖母も聖鞠が二十歳の時に亡くなった。それから聖鞠は一人で生きてきた。

 身寄りもなく、独りぼっちで、しかも自分を好いている相手。正直、ちょろいと思われたのだろう。


 最悪だった。

 最悪過ぎて、その後どう仕事を乗り切ったか覚えていない。

 次から次へと雑用を引き受けとにかく仕事に没頭した、と思う。


 気づいたらとっくに会社を出て、帰りの電車の中だった。

 いつもは不快に思う肩に頭を乗せてくる居眠りのオジサンを邪険に出来ない。


 最寄り駅を降りたら、ザーザーと雨が降っていて。

 とぼとぼと歩いた帰り道で泣いた。


 顔も全身もびちゃびちゃのぐしょぐしょで辿り着いたアパート。

 涙と雨に濡れた視界で足元がよく見えなかったせいで、階段を踏み外してしまった。


「──きゃっ……!」


 手すりに掴まろうと握り締めていたバッグを咄嗟に手離した。階段の上にボトッと落ちて、衝撃でこぼれた中身が階段を転がり落ちていく。

 背後に傾いでいく身体。濡れた手ではつるつるの手すりは滑ってしまい、掴めなかった。


 落ちる。

 そう思って衝撃に備えて目を瞑った、その時だった。


 眩しい光が聖鞠を照らしたのだ。

 アパートの照明かと思ったが、蛍光灯とは全く違う種類の光。

 瞼の裏まで突き抜ける眩しい白金。


 ──ぽすん。

 予想したのとは違う、受け止められたかのような柔らかい衝撃に目を開ければ。


「レアスへようこそおいでくださいました。聖女様」


 眩しい微笑を携えた、眉目秀麗な青年が聖鞠を抱えていたのだった。

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