1-2.異世界の王子
「…………は?」
堅い地面との接触を予想していたのに、それをばっさりと裏切る状況に聖鞠の口から呆けた声が漏れた。
まったくもって意味が分からない。一体何なのだ、この状況は。全身ずぶ濡れの自分を、何故イケメンは微笑ましげに抱えているか。
大事な物を扱うかのような動作で降ろされ、いつの間にか脱げたのかパンプスを履いていない足を硬質な床に乗せる。つるりとした感触は大理石だろうか。よく見ると淡い青色で何らかの紋様が描かれていた。
(……魔法陣、みたい)
象形文字と思われるものと床一面に大きく広がった円。その中心に聖鞠と美青年がいた。
それから聖鞠たちを見守るかのように囲う人々の姿。美青年を含むほとんどは聖鞠と同じ人間のようだが、中には明らかに別の種族だと思われる人の姿もあった。
『本当に聖女か?』
『すごい……!』
『あんな汚らしいのが……?』
声と声がヒソヒソと囁きあう。
疑うような、興味深いような、警戒しているような、様々な視線をぶつけられ少し恐怖を抱く。汚らしいのは仕方がないだろう、雨に降られたのだから。
五年間寝食を共にした我がアパートはどこに消えたのだ。早く家に帰ってお風呂に入りたいのに。
────本当に。一体何が起きているのだろう。
「聖女様」
浮かぶクエスチョンマークの数々に脳内が占拠され始めたところで、美青年が聖鞠の目の前で跪いた。それはそれは優雅な動作で。
きらきらと星のように煌めく金色の髪が美しい。まるで童話の中の王子様のようで思わずドキッとした。
「私はエステル王国第一王子、アストライア・フォン・エステルと申します。まずは突然貴女様をお呼びしてしまい申し訳ございません」
王子様のようではなく、本物の王子様だったらしい。
「……呼んだ? 私を?」
「はい。我が国に伝わる“異界人呼び寄せ”の魔法で」
「ま、ほ、う」
初めて耳にした単語のように聖鞠は繰り返した。
魔法。
魔法とはアレだろうか。手品ではなく、不思議な力で火を起こしたり風を起こしたり、瞬間移動したりできるという、あの?
ますます訳がわからない。
日本、いや聖鞠の世界において魔法なんてものは創作上の要素でしかない。
なのにそれが当たり前に存在している、と?
(そういえばさっき……レアスにようこそって)
レアス。おそらくそれがこの世界の名前なのだろう。
なるほど、と自分の置かれた状況が少しずつ分かってきた。
どうやら、異世界へと呼び出されてしまったらしい。まるで御伽話のような出来事だ。
何故呼び出されたのか、その理由は聞かずとも王子が語って聞かせてくれた。
────およそ二五〇年前、突如として現れた悪しき魔王によってレアスは危機に瀕していた。
魔王が放った手下や魔獣と化したケモノたちによって、人々は追い詰められ苦しむ日々。
このままではいけない、と立ち上がった聖騎士の青年と仲間で対抗策を考えた。
それが異界人召喚の儀。魔王に対抗できる聖なる資質を持った人間を呼び寄せる魔法を、あらゆる知識をかき集め創り出したのだった。
呼び出された聖女と共に勇者一行は旅立ち、苦しめられていた人々を救いながら魔王の元へと向かい、そして激しい戦闘の末勝利した。
その時、魔王が苦し紛れに放った最後の魔法が強力だったらしく、瘴気──つまり、人体に害あるガスのようなものが世界に残ってしまったのだ。
先代の聖女が元の世界に帰還する前にある程度抑えてくれていたのだが、近年瘴気が濃くなっているらしい。
結界に包まれた町中でも瘴気が発生しており、各地でそれを浴びた人々が倒れるというのが相次いでいた。
凄まじい量の瘴気に触れて、気が狂ってしまったり、中には亡くなった人もいるという。
「……つまり、先代の聖女さまとやらのように私にも世界を救う手助けをして欲しい。そういうこと?」
キリが良さそうなところで聖鞠はとうとう口を出した。アストライア王子は正直に『そうです』と一言。
(なんて勝手な……)
濡れた身体が中途半端に乾き始めて不快感が増す。身体が冷たくて寒くてぎゅっと抱き締めた。
こちらの状況も考えず突然呼び出した上に世界を救えなんて無茶をお願いするとは。
出会ったばかりの王子には悪いが、勝手なことをいう男の言葉を今は素直に聞く余裕などない。
「なんで私がそんなことしなきゃいけないの?」
「……え?」
「帰して。私には無理。今すぐ帰して……帰して!!」
聖鞠の叫びがその場に響き渡る。聖鞠の様子に呆気に取られたのかアストライア王子は驚きを隠せないようだった。
でも、ここは異世界。帰れば同時に縁も切れる相手だからどうだっていい。
顔の良い男は、ウンザリだ。
例えどんなに美しかろうと、今の聖鞠には
その人当たりのよさそうな外面で自分を騙そうとしている、きっとそうに違いない。あの三枝木のように。
「……お願い、今すぐ……帰して……」
早くお風呂に入りたくて仕方がなかった。
アストライア王子やこの世界の人には申し訳ないが、誰かを救うなど自分には出来ない。
だって、──救って欲しいのはこちらの方だ。
「……聖女様」
アストライア王子が立ち上がったかと思えば、『失礼します』とあっという間に距離を詰められていた。
美麗な顔が間近に迫る。
長い睫毛が瞬いて、夕焼けを思わせる橙色の眼差しが聖鞠を貫く。真摯さを帯びた瞳から目が離せない。
彼の手が伸びて、雨や涙で濡れた頬に触れようとした。その小指には色とりどりの宝石が散りばめられた指輪があった。
一体、何────? と、聖鞠は目を逸らせぬまま身体を強張らせる。
しかし直後、手のひらの温度──聖鞠と同じ人間のぬくもりを感じて、強張りは間もなく解けた。別世界の人でも、人の体温は変わらないらしい。
「────」
形のいい唇が何かを呟く。よく聞こえなかったが、短い単語のようだった。
するとほんの一瞬だったが、聖鞠の身体中をあたたかい何かが駆け巡った。
身体の真ん中から外側に向かって何かを押し流そうとしているかのような、そんな巡り方だ。
「……今、何したの」
「少し衰弱していらっしゃるように見えたので“ヒール”を」
「ひーる……?」
「はい、治癒魔法の一種です」
治癒魔法と聞いて納得した。言われてみれば少し身体が軽くなったような気がしなくもない。
(今のが、魔法なんだ……)
相変わらず身体は濡れたままだが、初めて魔法を体感して少しだけ感動した聖鞠である。
単純な性格をしているせいかもしれないが、抱えていたイライラまで癒やされてしまったように思う。
「……貴女様の事情も顧みず、一方的に話をしてしまいました。申し訳ございません」
心が凪いでしまったとなれば、本当に申し訳なさそうに眉尻を下げる王子の謝罪も素直に受け止められる。
はぁ、と聖鞠は息をひとつこぼした。
「……こちらこそ。ショックなことがあったばかりだったから、……当たっちゃったの。ごめんなさい」
「身体が濡れていらっしゃいますが、もしや何か事件に……?」
「ああ、違うの。これはただ雨に、…………ふられちゃっただけ」
「そうでしたか……」
含みをもった聖鞠の言葉に王子は何かを察したのだろうか。気遣わしげな視線が注がれる。
「そういえばまだお名前も聞いてませんでした。お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……聖鞠。
「ヒマリ様、素敵なお名前です。よろしければ……私にヒマリ様の話を聞かせてくれませんか?」
「え?」
「お辛いことであれば口に出すことで心が軽くなることもありますし。もちろん無理に話す必要はございません。……聖女云々は少し置いておき、せっかくレアスにお越しくださった貴女を是非私におもてなしさせてください」
「…………」
聖鞠の状態に気づいても、もしかしたらそれでも食い下がってくるかもしれない。そう思っていたので王子の申し出は意外だった。
真摯さを帯びた夕焼け色の瞳に聖鞠が映る。
雨に濡れてぼさぼさでぐちゃぐちゃの髪、メイクも落ちてお世辞にも綺麗な状態とは言えない自分の姿──そんな自分を前にしても彼は嫌な顔ひとつしないで、聖鞠を真っ直ぐに見つめている。
周囲の人らは相変わらず未だ聖鞠に無遠慮な視線を注いでいるというのに。
柔らかな口調と丁寧な動作で、それこそ絵に描いたような王子様の仕草で、本物の王子様がお姫様を相手にするかのように接してくれている。
少し、揺れた。もう少しくらいなら異世界にいてもいいか、と思うくらいには。
どうせ家に帰ってもひとりぼっちだ。
「先程、お風呂に入りたいと仰ってましたね。我が城にはお客様をもてなすための大浴場があるんです」
「……おふろ……!」
揺れた。これには大いに揺れた。
聖鞠は三度の飯より風呂が大好きだった。少し大げさに言い過ぎかもしれないが。それでも、異世界の──しかもお城の風呂に興味がそそられるには充分なほどである。
この時点で聖鞠の心はほぼ決まっていた。決定打となったのはこのあとの王子の行動だ。
「──っ」
「ああ……手もこんなに冷えてしまわれて……。さぞ寒かったことでしょう。本当にこんな状態のヒマリ様を気遣えず、申し訳ございません」
アストライア王子の手が聖鞠の両手を取ってあたためるように包み込む。
人のぬくもりが包まれた両手から伝わってきた。傷ついた心にすっと入り込んで傷口を優しく塞ごうとしてくれるようなぬくもり。
もしかしたらまた魔法を使われているのかもしれない。それでも王子の優しさとあたたかさが、傷ついたばかりの聖鞠を癒やしたのだった。
「……じゃあ、お言葉に、甘えちゃおうかな」
「──! はい、ぜひ!」
心から嬉しそうな王子の微笑みに、涙腺が震える。
彼の言葉や厚意に裏がないのが伝わってきたからだ。
純粋な厚意。気遣われる優しさがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
「着替えも手配しましょう。お腹は空いていらっしゃいますか?」
「……少し」
「よかった。実は私もまだなんです。あとで一緒に食事をしましょう。そこでヒマリ様の話をたくさん聞かせてください」
聖鞠たちを囲んでいた人々の一人に王子が指示を投げる。侍女を呼び聖鞠の着替えの手配と厨房へ食事の用意を、と。
そこで改めて周りをひと通り眺めてみた。
(人間以外の種族もいるんだ)
ドラゴンのようだったり、魚のようだったり、獣の耳を生やした者まで。
何という種族かは知らないが、様々な風貌の人々を目にしてますます異世界に興味が湧いてきた。
聖女として世界を救うかは別として、叶うなら気晴らしに異世界を回ってみたいとさえ思う。
「さあ、参りましょう。大浴場まで私が案内します」
にこやかな微笑みと共に、お手をどうぞと言わんばかりに差し出された右手。
震える涙腺を堪えドキドキしながら手を乗せる。ダンスのエスコートをするかのように、王子は聖鞠をそっと引き寄せて歩き出した。
────これが異世界のイケメン。正直、悪くない。
異世界に突然呼び出された戸惑いと、失恋から生じていたモヤモヤや元彼の不誠実な対応によるイライラは、すっかり姿を隠していた。
聖鞠の頭はすでに異世界紳士に対するときめきと、異世界の風呂への期待感でいっぱいである。
大浴場までの道中をレアスのことを聞きながら歩いた。
魔法やその仕組み、住んでいる種族のこと。
短い中で聞けそうなことを。続きは食事のときに、そう言われて到着した大浴場の扉の前には既に待機していたらしい人間の侍女が立っていた。
王子が侍女に目配せをして開かれた大浴場への入り口。
「────ごゆっくりどうぞ、ヒマリ様」
穏やかな王子の微笑みに見送られて、聖鞠は異世界の風呂への期待感と共に足を踏み入れた。
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