VOL.4

 その前日の事だ。俺は渋谷にあるレストランを訪ねていた。そこは老舗とまではいかないが、割と本格的なフランス料理を食べさせ、それでいて肩の凝らない庶民的な店として有名だった。


 現在その店のシェフをしている彼は白いコック帽を脱ぐと、前掛けで手を拭いてから、直ぐ近くにあった自販機で缶コーヒーを二本買ってくると、


『甘くないやつでいいかい?』といいながら、そのうちの一本を俺に投げてよこした。


『ハヤミ?いや、彼の本名は姿すがた・慎一しんいちってんだ・僕は高校時代柔道をやってたんでね。あの小説の主人公と同じ苗字なんでよく覚えていたんだよ。ちょうど同じころに同じ店に入ってさ』


 彼は『通用口』と書かれたドアの脇に置かれたビールケースに腰かけ、壁にもたせ掛けて立った俺と向かい合わせの位置に陣取った。


 もうじき仕込みなんだ。そう言いながらコーヒーを飲み、ゆっくりと話し始める。


『今から10年くらい前だったかな。彼とはこの店で住み込みで勤めはじめたんだ。

僕は高校を卒業してすぐに岐阜県の田舎から上京してきて、彼は都内だったけど、割と知られた料理学校を卒業しててさ。無口でちょっと陰気なところのあるやつだったけど、僕とは何故か気が合ってね。』


 料理の世界は和食、洋食関係なく、最初は雑用からやらされる。そうしているうちに先輩の技術を見て、手順やその他のしきたりなどを一つ一つ覚え、どんなに早くても六年くらいかかって、ようやく仕込みなどを任されるようになる。


 しかし『ハヤミ』こと姿慎一は飲み込みも早く、他のことはともかく、こと料理に関しては先輩も舌を巻くほどの腕の冴えをみせ、僅か三年とちょっとで味付けまで任されるようになった。


『僕は田舎の出だからね。根がのんびりしてたものだから覚えるのも遅かった。でも奴は料理に関しては天才と言っても良かった。』


 やがて彼はオーナーシェフに腕を見込まれて、箱根にあった割と有名なホテルのレストランに移った。


『僕はそのままこの店に残ってね。今ではシェフってわけさ・・・・まあ、こんな小さな店だから、それでも通ったんだろう。その後何回か会ったかな。でも会うたびに腕前も、それに何だか顔立ちも洗練されて来ていて、以前の陰気臭さが無くなって、良くしゃべる社交的な男になっていたよ』


 その後はこっちも店を任されるようになって忙しくなり、しばらくの間音信不通だったが、つい三年ほど前、向こうから電話があってね。

『一度外で会わないか?』って行ってきたんで、久しぶり会ったんだが、その時、『今度店を開いた。お客は主に女性専用にするつもりだが、君だけは例外にするから、一度来てくれないか?っていうんだ。』

 彼はそこで一息ついて、何か嫌な思い出でも語るように続けた。

『しかし、何ていうのかな・・・・あの男、洗練された上に、何となく妙な薄気味悪さみたいなものを感じたんだ。その時も何だか知らないけど女を二人連れていてね。”今の俺には女なんか入れ食いだよ”なんていうのさ。こういっちゃなんだけど、昔のあいつからは考えられないな。昔はさっぱり女にもてなかったからね』


 彼はそう言って、自販機の近くのごみ箱にコーヒーの缶を投げ込んだ。


『僕が知っているのはこれくらいだ。あんまり役に立たなくて申し訳ないが』


『いや、そんなことはありません。十分に役に立ちましたよ。』


 彼はそのまま通用口に入ろうとしたが、ふと何かを思い出したように振り返って、


『ああ、そうそう、別れ際に俺が”何でそんなにもてるようになったんだ”って聞いたら、妙な茶色いガラス瓶を出してね。”こいつのお陰さ”って、また嫌な顔で笑っていたよ』


 ますます調べてみる価値がありそうだな。俺は思った。



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