旦那様からのお誘い その⑤
「ところでセドリックとは誰だ? 求婚されたんだろう?」
言ってから、しまった、と思った。
もっと親しくなってから聞こうと思っていたのに、一番の
だが、私の焦りとは裏腹にリリアーナはきょとんとして私を見上げる。
「セドリックは、私の
「……え?」
「旦那様は覚えていなくても無理はありません。会ったこともないはずですし……セドリックは、私の七つ下の弟です。もしかしてエルサに聞いたのですか? とても優しい子で私を慕ってくれて、あの子が五歳の時にプロポーズをしてくれたのです」
「そ、そうか! 弟か、うん、弟なら問題ないな、うん、だって弟だものな!」
私は自分の頰が勝手に緩むのを感じた。リリアーナが手を伸ばし、
リリアーナが中から取り出したのは、十通ほどの手紙の束だった。
「月に一度、こうして手紙を
「待ってくれ。当日、とはどういうことだい?」
確かにフレデリックたちに聞いた結婚式の日取りは、
先ほど、リリアーナが倒れた時のことが頭をよぎる。家族と円満な関係を築いていたとしたら、あんな風に恐怖に震えながら父親に
フレデリックとアーサーが教えてくれた彼女の家族については、父親のライモスは実父だが母親のサンドラは継母で
彼女は、両親の言いつけで外に出たことはないと言った。私は、病弱な娘を想うが故の両親の愛情だと思っていたが、もしかしたらそれはとんだ
「それは……先ほど、君が廊下で取り乱したことと関係があるのか?」
私に寄り掛かる細い背がびくりと揺れた。その手が震えていることに気付いて、私は自分が間違ったことだけは分かって慌ててその手を包み込んだ。
「すまない、失言だった。忘れて、く、れ……リリアーナ?」
彼女の手に
リリアーナが私の手に縋るようにそっと力を込めた。
「……父と継母のサンドラ様は、もともと
リリアーナが淡々と告げる。
「サンドラ様と父の間には、私より数カ月年上のマーガレット姉様がいて、父は何より姉様、そしてサンドラ様を愛していました。理由はどうあれ愛する人を奪った女の娘である私は、サンドラ様に嫌われているのです。……あ、あれは月に一度くらいのことでした」
不意に途切れた言葉は、次に震える声で恐怖を
「お継母様が私をリビングに呼ぶのです。幼い弟のセドリックがそこに呼ばれることがないことだけが不幸中の幸いでした。あの子は、唯一私を慕ってくれていて、両親と姉の目を
リリアーナは
「部屋に入ると……私は
私の手を握る細い手に力が込められて、リリアーナが何かに耐えるようにゆっくりと息を吐き出した。
「リリアーナ、無理して話さなくてもいい」
リリアーナは
「そして、その時が訪れたらお継母様は鞭を取り出して、最初の約束通り私の手や肩、背中を打ちます。お継母様の気が済んだら姉様の番でした。二人の気が済んだら部屋に帰ることを許されて、私は『ご指導、ありがとうございました』とお礼を言って部屋に戻るのです。そして、最低、三日は食事を抜かれました……それ以外にも時折、思い付いたように私の部屋に来て、鞭で打つことがありました」
私は言葉も出なかった。
「……旦那様が折角誘って下さったのに……私は怖かったのです。私にとって、部屋の外に出ることは、怖いことで、いつも私の一挙一動に誰かの
閉じ込められていた部屋の中が彼女の世界の全てで、その
「鞭で打たれて寝込む私の枕元であの子はいつも声を押し殺して泣いていました。痛みで動けない私を想い、私の手を強く握り締め泣いてくれる優しい優しい弟なのです……。でも、私が鞭を受けることであの子が守れるなら、それで良かったのです……っ」
私は思わずリリアーナを後ろから包み込むように抱き締めた。リリアーナの手が私の腕に添えられる。この強く抱き締めれば折れそうなほど細く華奢な体で、リリアーナはどれだけの哀しみや恐怖や痛みに耐えてきたのだろうか。だが、それでも
リリアーナは、自分の左手を右手で包み込み唇を寄せた。そこに幼い弟の温もりを探しているかのようだった。
泣いているのだろうか、とその顔を覗き込んで息を
リリアーナは、唇を
「……泣いてもいい」
「……だ、旦那様は、泣く女は見たくないとおっしゃいました……これ以上、不愉快な思いをさせるわけにはいきません……っ」
たった三度しか顔を合わせていないというのに以前の私はそんなことを言ったのか、と自分自身を酷く
私とリリアーナがまともに言葉を交わしたのは、私が彼女を置き去りにした初夜だけだとアーサーは言っていた。だとすれば私は、夫婦が初めて共にする夜に彼女にその言葉を投げ付けたのだろう。
リリアーナは、私の腕から抜け出そうと身をよじる。けれど、大人げない私はそれを許してやることはできなかった。ひょいと彼女の体の向きを変えて、その顔を私の胸に押し付ける。
「こうすれば私には君の泣き顔は見えないから、大丈夫だ。信じられないかもしれないが……私は君を嫌いになどならないと
柔らかな淡い金の髪に鼻先を
「泣いてくれ、リリアーナ」
銀色の綺麗な瞳を覗き込み、私は彼女の
「私は、不誠実で酷い夫だった。だから、これはとても自分勝手で身勝手な願いだと分かっている。記憶を失い、君を妻だとも認識できなかった夫だ。それでも……私は、君と本当の夫婦になりたい」
リリアーナは、
「で、も……旦那様が記憶を取り戻したら、きっとまた私のことなど……嫌いになってしまうのでしょう?」
私の手の中でリリアーナが
その瞬間、胸が
期待することも望むことも全てを諦めてしまっている儚い微笑みは、とても綺麗で、とても──哀しかった。
「そんなことはない」
即座に否定したのにリリアーナは、信じてはくれなかった。哀しい微笑みを
「……私、充分、幸せでした」
「だったら、もっと幸せそうに笑ってくれ、リリアーナっ」
彼女が作ろうとした二人の間の空白を押し
「君が
みっともなく縋るように耳元で囁いた。
「……ほんとうに、きらいになりませんか……?」
弱々しい声が一縷の望みでも
「ならない。絶対にならない、神と
「わたしの、秘密を知っても……?」
腕の中でまたリリアーナが自分の鳩尾を押さえたのが分かった。
鞭で打たれ続けた体にはその
「君にどんな秘密があろうともだ」
「……ほんとうに?」
「本当に。外出だって、無理だったらそれでいいんだ。君の心の準備ができるまで、私の傍なら安心だと信じてくれるまで、いつまでだって待ち続けるよ」
リリアーナが押し黙り、私は自分の心臓が
しかし、リリアーナの手が私のシャツの
「ふっ……うっ……」
聞こえてきたのは、押し殺された
声の上げかたを知らないのだろうリリアーナは声を押し殺して、私の胸で泣いた。縋ることも知らない細い手は、私のシャツをただただ強く握り締めている。
結局、リリアーナが声を上げて泣くことはなかったが、泣き
リリアーナに、心からの笑みを浮かべてほしい、そのためなら何でもしようと私は決意したのだった。
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