旦那様からのお誘い その④
待ちきれずに迎えに行った妻の部屋の前で聞こえてきた会話に、私はノックしようと上げた手を止めた。
そこに出てきたのは明らかに男だと思われる「セドリック」という人物の名前。その人物との
しかし、私の燃え上がった
「たとえ花で作った
ぐうの音も出ないとは正にこのことだった。
私は、むっつりと顔を
「……セドリックとは誰だ」
「……さあ、奥様に直接
乳兄弟は
ベッドの上にいた昨日までの一週間、アーサーとフレデリックに私が忘れてしまったありとあらゆる人々とその関係を姿絵つきで教えてもらった。自分の家族のことはもちろんだが、騎士団のこと、
リリアーナが屋敷の使用人たち皆に愛されて大事にされているのはこの一週間でひしひしと感じた。何故なら世話をしにくる使用人たちが一様に冷たいのだ。特に
そして皆、口を開けば「優しい奥様」「
ダイニングで私は行ったり来たりしながらリリアーナを待つ。
アーサーにもこっそりとセドリックが誰か尋ねたのだが、にっこり笑った執事は「奥様に直接お聞きになったらよろしいかと」とフレデリックと同じことを言った。
私より十歳も年下のリリアーナにそういう相手がいたとしても責められるものではない。私とは私の都合だけの政略結婚だったというし、結婚した時彼女はまだ十五歳だ。それに何より今の私も記憶を
「……フレデリック」
ドアの前でうろうろする私を半目で見ていたフレデリックが首を傾げる。
「その……以前の私は、リリアーナに本当に何も贈らなかったのだろうか」
「そうですね、旦那様が自らというのは一つもございません。ドレスも旦那様が当家贔屓の仕立て屋に
「……花の一つも?」
「花の一つも、
フレデリックは、ははっと爽やかに笑った。
だが、その目は
「……それでも私が大事に思うのは、私の主である旦那様です」
どうやらあの侍女同様、主の心を読む技能も持ち合わせているようだ。
「旦那様と奥様が
フレデリックの緑の瞳が
自分のものだとしっくりこない名前は、
次の言葉を探してとりあえず口を開けた時だった。不意にドアの向こうから悲鳴にも似た声が聞こえて顔を見合わせる。
「確認して参ります」
そう言ってフレデリックがすぐさま
目と鼻の先にリリアーナと彼女の肩を掴むエルサの姿があった。リリアーナは、何故か耳を両手で塞いで首を横に振っている。
「リリアーナ!」
リリアーナの体がぐらりと
「リリアーナ、私だ、しっかりしろ」
色を失った唇が震えて、彼女は泣きそうに顔を歪めた。
「おと、お父様……お願いです、許して下さいませ……っ」
吐き出された言葉と共に彼女は身を
「リリアーナ!」
何回目かの呼びかけに
自分を覗き込む私たちの顔を見てリリアーナは唇を震わせた。
「だいじょうぶですよ」
確かに色を失った唇がそう言葉を
言いようのない怒りや
「リリアーナ、絶対に落としたりはしないから身を任せてくれ」
縋ることも知らない彼女の投げ出されたままの細い手が酷く悲しくて、全てを誤魔化すように彼女をそっと横抱きにして立ち上がる。
「大丈夫、大丈夫だ、リリアーナ」
囁くように告げた声が震えてしまった。
リリアーナは、再び目を閉じる。少しだけ増した重みに気を失ったのだと分かった。
「エルサ、来てくれ。フレデリック、モーガン医師を大至急呼んでくれ。アーサー、後は頼んだ」
三つの返事を背に私は、彼女の寝室へと歩き出したのだった。
時折吹く風がガタガタと窓を揺らした。傍らに置かれた
風が吹き去ればリリアーナの少し
高熱というわけではないがリリアーナは少し熱を出してしまった。客間に下がったモーガン医師によれば、精神的なショックからくる熱だそうだ。この屋敷に来た当初はこうしてよく熱を出して
私は、そんなことも覚えていない。フレデリックやアーサーが報告してくれたのだろうが記憶にない。記憶を失ってなかったとしても、覚えていたかどうかは怪しかった。
リリアーナが言っていた通り、私の中には思い出すなんて言えるほど元から彼女に関する記憶や思い出がないのだ。
時刻は既に午前一時を回っている。二時間ほど前にエルサを下がらせようとしたが
「リリアーナ」
小さな声で呼びかけるが無論、返事はない。ただ苦しそうな呼吸が聞こえてくるのみだ。
彼女は一体、この小さな体に何を
リリアーナは、エルサを姉のようにも母のようにも
エルサは男たちを追い出すとメイドをもう一人呼んでリリアーナを着替えさせてくれたが「ドレスを
首を傾げる私に、唯一、医師としてその肌の秘密を知るモーガン医師は、そうしないとリリアーナはエルサですら
『……若い娘さんがその身に背負うには、絶望にも似たものですよ』
モーガン医師はリリアーナの秘密について悲しそうにそう呟いた。
今日の昼もそうだった。
親の言いつけで外に出たことがないと告げた彼女はどこか不安そうで何かに
私は、どうしてリリアーナに辛くあたっていたのだろう。親が決めた政略結婚だったから彼女を妻と認めなかったのかと思ったが、アーサーは違うと言った。
記憶をなくす前の私は、女嫌いで有名で誰もが結婚などしないだろうと思っていたとアーサーは言った。私には年の離れた弟がいるので、私が結婚しなくとも
私が女嫌いだった理由は、先の戦争で
自分のことなのにこれっぽっちも実感というものがない。
今の私はリリアーナを好ましく思っている。
彼女の性格が好ましかったのもある。控えめで穏やかで、誰に対しても優しい彼女は、見た目の美しさ以前に人として私よりずっと素晴らしい。
「……ん」
身じろぐ声が聞こえて顔を上げる。握り締めていた左手が私の手を握り返した。
「リリアーナ」
驚かせないように小さな声で彼女の名前を呼んだ。
ゆっくりと長い
「だ、だんなさ、ま、わ、わたしっ」
起き上がろうとする彼女の細い肩をそっと押さえてベッドに戻す。
「大丈夫だリリアーナ。私はこれっぽっちも怒っていないよ」
できる限り優しく笑って、穏やかに言葉を掛けた。
「旦那様、私……ここは、デ、ディナーは、」
「焦らなくていい。ここは君の寝室だ。私もエルサもアーサーもフレデリックも料理長もメリッサや他の使用人たちも、この屋敷の誰も怒っていないから、安心しなさい」
私は
「私に寄り掛かりなさい。倒れては大変だ」
「でも……」
「君が十人くらい寄り掛かっても私はなんともないよ」
茶化すように言えば、リリアーナが少し表情を緩めて私の胸に寄り掛かってくれた。グラスを渡すと両手で包み込むように持って、そっと口に含んだ。ゆっくりと空になったグラスを受け取り、おかわりを尋ねるがリリアーナは首を横に振った。
水を飲んで落ち着いたのか、リリアーナは自分の体を見下ろして、ドレスからシルクのネグリジェになっていることに気付いたようだった。
「あ、あのっ、着替えは……っ」
振り返ったリリアーナの真っ青な顔に、エルサとモーガン医師の言葉は正しかったのだと思いながら、もう一度、大丈夫だと声を掛けて細い肩をぽんぽんと
「エルサとメリッサが着替えさせてくれたが、シュミーズは脱がせていないから肌は見ていない、汗ばんで気持ち悪いようならいつものところに
リリアーナは、エルサからの伝言に分かりやすく表情を緩めた。
しかし、またすぐに悲しそうな怯えを滲ませた表情になり、
「ほ、本当に……申し訳ありません。折角、旦那様が誘って下さったのに……」
「気にしなくていい。具合が悪くなることは誰にだってあることだ。転んで記憶を失った
リリアーナの心を少しでも軽くしてやりたいが、これがなかなか難しかった。
ぷつりと途切れた会話は、
だが、ここで何か残さないと彼女との関係がこれきりになってしまうような気がして、私は
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