第43話 過去

 俺はその日、寝ることはなかった。布団を敷く気力もなく。誓の仏壇の前で一日を終えたらしい。外の光を取り込む部屋はうっすらと明るくなり始め、俺の目を刺激する。今は何時くらいだろうか? 時間の感覚ははっきり言ってまったくない。今が何時なのかどころか、今日が何曜日で、何日で、何月で、何年なのかも忘れてしまった。仕事にも全く行っていない。もう当然首を切られているだろう。誓がいなくなってしまったことに比べれば、仕事をクビになることなんて些細な出来事だ、興味もない。


 俺は、自分の頭が正常に動いていることを確認した。今日は、命を絶とう。そう、決めた。


「お父さん……」


 急に声を掛けられて俺は驚く。すぐ横で力が寝ていた。昨日の俺は力が横にいることも気付かずに意識を失ってしまったのか……。自分のあまりの変質ぶりに苦笑する。人間何がきっかけで壊れてしまうのか分かったもんじゃないな。


「力……」


 名前を呼ぶ。そう、力だ。俺は力の父親だ。だが、いい父親にはなれなかった。そして、力の存在を放棄し、自分だけ死のうとしている。俺はどこまでも自分本位で自分の人生を終わらせようとしているのだ。分かっている。自分の行動の意味。何の意味がないことだとも。力を不幸にしてしまうことも。それでも、関係ない。力は俺の生きる意味には足り得なかった。嫌いというわけではない。だが、好きでもなかった。


 力はこんな父親をどう思っているのだろうか。最低な父親だと思っているのだろうか。関係のない赤の他人だと思っているんだろうか。力が起きないように、そっと顔を覗き込む。力は泣いていた。夢の中でも泣いていた。何を見て泣いているのだろうか。誓の夢を見ているのだろうか。そしてもう一度寝言をつぶやく……


「お父さん……」


「――。」


 俺の名前を呼ぶだけだった。俺の夢を見て泣いているのだろうか。本当に最低な父親だな。子供の夢の中でさえも泣かせてしまうなんてな。俺なんていない方がいい。いない方が力は幸せになれるかもしれない。


 また。まただ。俺は自分勝手に力の気持ちを想像して自分の必要なさを勝手に再確認する。俺は本当に真っ当な人間ではなくなってしまったのだろう。そんな自覚がありながら、誓に挨拶をする。


「おはよう。今日、俺も死ぬよ」


「……」


 当たり前だが、写真の中の誓は喋ってはくれなかった。力を起こさないようにそっと立ち上がりキッチンに向かう。もうダメだ。俺は死にたくなる病気になってしいまっていて、ふとしたことでキッチンに向かい包丁を手首に当ててしまう。今日はその一歩先に踏み込もう。もうこんな生活は耐えられない……。正に手首を切り落とそうとした瞬間――。


「お父さん……」


 力の手が包丁を持つ手に添えられた。とても冷たく、触られただけで体中が凍ってしまうような感覚さえ感じる。俺は動けなくなった。体中に氷が入り込み、全身が固まった。寒い……。寒くて……顔も動かせないから、視線だけ……視線だけで力の顔を見る。


「お父さん……死ぬの?」


「……」


 何かを言おうとした。しかし、口は動かない。底冷えする力の口から発せられる言葉は今の俺にとって残酷すぎるものだった。


「お父さんは死なないで……。僕は……お父さんの生きる意味になれないかな……?」


 その言葉は体を縛っていた氷を解かすのに十分な熱を持っており、温かな感情に包まれていたのだ。どこまでも自分勝手な自分が恥ずかしくなり、目からは熱い滴が零れ落ちる。錯乱しかけた俺に、別の感情が入り込む。お前がいなければ……


 お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ! お前がいなければ!!!!


「俺は誓の場所にいけるんだぁあああぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!!!!」


 俺の意識はここで途絶えた。



 ☆



 鼻を劈く生臭さに目を覚ます。俺は太陽の光に照らされた真っ赤な部屋の真ん中にいた。右手には真っ赤に染まった包丁。目の前にはバラバラになった力の体。俺は思い出す。肉を裂く感触。目を貫く時に見た力の瞳。指を切り落としたときに感じた狂気。思わず叫ぶ――。


「うがあああぁっぁぁぁぁっぁぁぁががあがぁがぁっぁぁ!!!!!!」


 力の最期の言葉を思い出した。


「お父さん、ごめんね」


 完全に壊れた俺は壁に頭を打ち付ける。


 何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。


 頭が割れ、血が噴き出しても止めることはできなかった。もう終わりにしてくれ。こんな世界なくなってくれ。もう俺の意識をなくしてくれ! 耐えられるわけないじゃないか! 人間の尊厳をどこまでも失い、それでいてこんな最後じゃ何も報われないじゃないか。何でこんなことに! 何でこんなことに!!


 頭を打ち付けている間に、意識はどんどん遠のいていく。このまま死ねるならそれでいい。それでいいんだ――。




 ☆



 知らない天井。知らない部屋。知らないベッド。


 俺は真っ白で清潔感のある部屋で寝かされていた。横には白衣を着た女性がうつらうつらと首をこくこくともたげていた。見たことはない。二十代前半くらいだろうか、若い印象を受ける。俺は言葉を掛けようとしたが、口は動かなかった。見れば、俺の口には酸素を送る呼吸器が装着されており、右手には点滴がなされていた。俺は病院にいるのか。


「はっ! しまった。天気が良すぎて寝てしまった……何時今?」


 女性が右手の腕時計に目線を落とした時、俺が自分を見ていることに気が付いた。


「はっ! 嘘! 目ぇ開いてる!! せ! せんせーーー!!」


 ドタドタと部屋から出ていき辺りはいきなり静かになった。さて、ここはどこなんだ? 何で病院に俺はいるんだ? 考えても分からないことしかないことに気付く。俺はどうしてしまったんだ? 記憶が……おかしい。ないわけじゃないと思うが……。思い出そうとしても思い出せないところがある。


 しばらくすると、さっきの女性と一緒に白衣を着た初老のじいさんが入ってきた。


「おお……目、開いとるなぁ……」


 見りゃわかんだろ! とツッコミを入れる。大丈夫かこの人、医者なんだろうが……


「もし? わかるかい? お前のお父さんだよ?」


 俺の手を握り、分かったら握り返してくれと言い、こんな質問を投げかけてきた。俺にこんなじじいのお父さんがいるなんて知らなかったから、握り返さずにいたら横の看護師の女性に思いっきり頭を叩かれていた。


「痛いじゃないか、新実くん」


「目覚めたばっかの人に謎の嘘を言わないでくれますか?」


「ちょっとしたお茶目じゃないか、じいさんの頭叩くなんて、頭蓋骨が陥没したらどうしてくれるんだ」


「死んだら墓くらいは経費で作ってあげますよ」


「まぁそれはいいとして……」


 急に話を終わらせられ、看護師の女性もあっけにとられたのか黙ってしまう。


「君は今、私の言葉が理解できとるかな?」


 俺は医師の手を握り返す。


「うむ、呼吸器は外しても大丈夫そうかの? 自分の名前は言えるか?」


 握り返す。呼吸器を外してもらい、俺は自分の口で話を始めた。


「名前は……新木元治です。俺は……何でここにいるんですか?」


「うむ、まぁ、それを答えるには多少の検査が必要かな。今はまだ君の容体がハッキリしないからな。大丈夫だと判断した上で話すとしよう……」


 俺は自分の記憶が曖昧なのは分かっていたし、体調が優れていることも何となく分かっていたので、話は続けてほしかったが、医師はそれっきり部屋を出てしまい、その日に戻ってくることはなかった。病人をほったらかしにするなんてどういうことかとも思ったが、命に別状はないようなのでこんなもんか。


 次の日は、歩く練習。点滴も外れ、外を歩く。体調は頗る良好で、天気もいい。芝生があったら寝転がって昼寝をしたいくらいだ。それにしてもおかしいのは、この病院、俺以外の入院者はいないんだろうか? どこを歩いても、誰もいない清潔感のある部屋が並ぶだけで、人を発見することはできない。いるのは、最初の日に見た、看護師の女性と、初老のボケ医者だけだ。もう何でもいいから、本当のことを言ってほしい……


 ここで目覚めて三日目の朝、病室に医師がやってきた。

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