ひざまくらの後は

第30話


 夏の初めのある日

 僕は残業を断り、ある場所へ向かった。




 35歳。そろそろ出世コースに乗った者とそうでない者がハッキリしてきた。僕らの世代は売り手市場で、会社は優秀(と思われる)人材を青田買いで買えるだけ買い集めた。男性は(女性もそうだけど)30前後でターニングポイントが訪れるらしい。その時にぼーっと生きていた僕らは決断の時を完全に逃していた。流されて生きる者には辞令が下る。終身雇用制ではない現代、大手に就職できれば安泰なんてまぼろしだ。大手ほどシビアかもしれない。

 ほんとなら僕にも辞令が下っていたはずだ。コミュニケーション力の低い僕に出世は難しい。だけど、与えられた仕事は人一倍やってきたという自負はある。見ている人は見ていてくれる。



「お前も来い」



 数ヶ月前に上司から言われた言葉。まさか自分が転職なんて考えてもいなかった。それまでの僕は与えられた環境の中で、辛くても『仕方ない』と諦めていた。自分を変えることも、周りを変えることにも消極的というか、考えが及んでいなかった。思考停止していたのだ。そのことに気付いていたのに気づかないフリをしていた。それは自分を殺すこと──気づかないフリは、自分を守るのではなく、殺しているんだ。少しずつ。そのことにやっと気がついた。花さんのおかげで、死にかけていた自分の感情が甦った。こうしたい、こうなりたいという欲望が目覚め、内側から僕を突き動かした。

 そして今、僕は元上司の佐藤さんが働くオフィスへ向かっている。





 ワンフロアの開けた明るいオフィス。

 珍しくにこやかに佐藤さんがやってくる。


「おぅ、久しぶり」


「今日は急にすみません」


「いや、いつでもかまわんよ」


「なんか、うちの会社とは雰囲気全然違いますね」


「あぁ、イマドキだろ?」


 ミーティングルームで会議が終わり、フロアに人が出てくる。

 佐藤さんと僕がスタンドテーブルを囲み話しているところへ、スラッとした優しい雰囲気のイケメンが爽やかに現れた。


「おまたせ」


「おっ、オレの友人でここの代表の藤木だ」


「はじめまして」


 差し出された右手の指が細く長く、リュウジさんを思い出してドキッとした。


「は、はじめまして、山田です」




 ◆◆◆☆☆☆☆☆◆◆◆◆☆☆☆☆◆◆◆◆




 あれからしばらくして、花さんとの別れの後、僕は藤木さんの会社へ転職した。のびのびとした社風の中で実力をさらに伸ばしていった僕は、会社にも馴染み仕事の楽しさも見いだせるようになった。

 そんなある日。


「山田くん、今日はなんか予定ある?」


「いえ、特にないです」


「じゃあ、佐藤と一緒に家へ来ないか?今日は家呑みしようと思って」


「ありがとうございます」


 藤木さんは僕の前で家に電話をした。


「あ、俺だけど。今夜、佐藤と期待のルーキーを連れて帰るから、夕飯宜しく」


 期待のルーキーって言い方がレトロでこそばゆいけど、そんな風に言われたことも、誘われたことも無かった僕は、感じたことのない居心地のよさに目が眩むようだった。

 藤木さんの為に、会社の為に頑張ろう。

 そんな風に思えるようになるなんて、自分でも驚く。

 藤木さんの家に向かう間、二人の頼もしい上司の背中を見ながら、そんなことを考えていた。






「こんばんは」


「失礼します」


「こんばんはー!」


 子供達がパジャマ姿でバタバタやって来る。


「おー、チビッ子ども!元気だったか?」


 ゴリラみたいな佐藤さんは末っ子のテンちゃんを抱きかかえ、長男のジンくんの頭をくしゃっと撫でた。後から長女のリョウカちゃんと次女のナナちゃんが佐藤さんの腰にしがみつく。子供達を引き連れて「うおーっ」と家の中に走り込んで行く背中は、立派なシルバーバックだった。


「どうぞ上がって」


「おじゃまします」


「こんばんは、いつも主人がお世話になっております」





 奥から、聞き覚えのある声がする……






「は、花さん!? なんで!?」



 別れから1年が経っていた。



 

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