第10話
「アニキ、アニキ!」
「えっ、あ、はい」
ズレた眼鏡をかけ直す。
「いつまで寝てんの? もう時間だから」
「あっ、すみません」
山田はヨダレを拭いて慌てて立ち上がった。いつの間にか眠っていた……なんてもったいない事をしてしまったんだろう。
三人が料亭から出て、挨拶を交わす。
「ありがとうございました」
「じゃ、またね!」
「また!」
「気をつけて」
手をふり、花は帰る山田とリツを見送る。
今日は突然の無茶ぶりに驚いたけれど楽しかった。リツもいい人だったし、今度レンタルを利用してくれるみたいなので次に繋がった。収穫ありだ。
帰ろうとして、店の向かいにケイがいるのを見つけ、手を振る。
「ケイさん! ほんとに来てくださったんですね!」
「うん何ともなかったみたいで良かったね」
相変わらず白い歯が眩しい。
「はい、楽しかったです」
「じゃあ、駅まで送るよ」
山田達と反対方向へ歩きだす二人の背中を、ふいに振り返ったリツが見つけた。
「アニキ!」
呼び止められ、振り向いた山田の目にも二人が映る。並んで歩き、ケイがさりげなく花を車道から内側へエスコートするのが見えた。
「アレ誰だ……」
「次のお客さん?」
「いや、花さんはもう帰らなきゃいけない時間だ」
「旦那?」
誰かは分からない。分かっているのは、僕と花さんはクライアントとコントラクターという関係であって、ソレ以上でも以下でもないということと、ヘンな期待はしないほうがいい──ということだ。
夜、自宅で父親と二人で夕飯をとる。
テレビのナイターだけが響き、無言で食べる。いつもの我が家の風景。親子仲が悪いわけではない。むしろ良いほうだと思う。だけど、男二人なんてこんなもんだ。
リツが家を出てからずっとこうだ。まあ、リツは仕事で食事を済ませてくる事が多かったから、リツがいた頃からずっとこうだったな。
親父は男手一つで僕達を育ててくれた。行事はちゃんと休みを取って来てくれて、学生時代は弁当も作ってくれた。母親に甘えられず寂しい思いはあったけれど、親父は精一杯やってくれたと思う。リツは優秀で自慢の息子だろう。しっかり親孝行している。だけど僕は……何が出来るだろう?もしここに、僕の奥さんがいたら随分ちがうんだろうな。もしも、もしも花さんがいたら……って、何考えてんだよ!
風呂から上がり、ベッドで花のハンカチを頬にあて、ぼんやりとひざまくらを思い返す。温かくて柔らかくて、幸せだった。花さんは人妻でその上レンタルでお金を払って来てもらってる人で、僕なんかどう転んでもどうにも出来ないし、好きになっても仕方ない──?
好き? 好きに!? だ、ダメだよ、ダメ! ひひひ人妻なんだから!
山田はハンカチをジップロックに入れて、机の引出しにしまい、電気を消して頭から布団を被った。
暫くそうしていたが、起き上がって引き出しを開けた。枕にハンカチを敷いて頬を乗せる。
何も出来ない自分の情けなさに押し潰されそうになりながらも、そんな苦しさから逃れる為に花さんを求めている。柔らかい膝の上で優しく撫でられたい。そんな資格はないのに。花さんを奪い去る勇気も、幸せにする財力もないのに、優しくされたいと願う僕はどこまでも浅はかで薄汚い。どうしたって手に入らないのに、花さんを思うと、きゅんと甘い苦しさと一緒に自分の釣り合わなさが際立つ。僕はずっとこのままなんだろうか?子供部屋おじさんのまま死んでゆくんだろうか?自分が嫌で仕方ないのに何もしないでいる自分に腹が立つ。こんなままじゃ嫌だ、こんなままじゃ……
涙でハンカチが濡れてしまわないように枕をずらした。赤ん坊のように丸まって泣く山田を、闇が包んでゆく。
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