第5話

 いつもの朝。

 花は家族を送り出し、庭の草花に水をやると芍薬が蕾をつけていることに気がついた。今年もこの季節が来たんだな。気持ちの良い初夏、大輪の花を咲かせるためにご奉仕せねば。



 屋内に戻るとリリーからLINEの着信があった。


『お疲れ様です。来週は山田さんと映画の約束をしたの?10時にシャンテで、との伝言です』


『はい、映画の約束をしました。10時にシャンテですね。わかりました』


 家事の手を止めて、鏡の前で洋服を選んだ花は、スマホで美容室の予約を入れた。久々に気持ちが浮わついてしまう。これはお仕事。花は自分に言い聞かせつつ、選んだ洋服に合う靴とバッグを考える。そうしていると夫からLINEが入った。何か察知したのかしら?


『今日は餃子が食べたいな』


 すぐに了解の可愛いスタンプを送った。




 火曜日午前10時シャンテ前。

 喪服姿で待つ山田が花の目に入る。こちらに手を振っている山田に向かって花は慌てて駆け寄った。


「どなたかご不幸があったんですか?」


「あっ、いや、気にしないで下さい」


 上着を脱ぎ、ネクタイをはずす。

 アリバイ工作で着てきた喪服は悪目立ちしすぎる。


 座席に座り映画泥棒のCMが始まる中、あたりを見回す。平日の午前中、客など殆んどいない。二人並んで座るのがどうも……端からどう見えるのかと思う山田をよそに、花が山田寄りに座る。

 ち、近い。満員電車でも女性の近くは避けるようにしている。こんなに女性に近づくのは何年ぶりだろうか。花の髪がふわりと山田の肩に触れる。いい香りがして、なんだか頭がクラクラする。





 映画が始まり何気なく隣を見て、じっとりと油汗を流す山田に驚いて声をかけた。


「大丈夫ですか?具合が悪いなら、外に出ますか?」


「あっ、いえ、大丈夫です……は、ハンカチ忘れちゃったな……」


「これ使って下さい」


 花がバッグからハンカチを取りだし、山田に差し出した。この上なくいい香りがする。


「いえ、それは……」


「大丈夫です。もう一枚ありますから」


 花は手に持っているハンカチを見せた。


「すみません、ありがとうございます」


 ハンカチを受け取り額の汗を押さえたあと、コッソリ匂いを嗅ぐ。クラクラを通り越してシビレる。



 映画が進み、涙を拭う花を横目で見つめる。こういう時どうすればいいのか? 自分の引き出しのなさに嫌気がさす。ただじっと、汗を流すだけだった。





 映画が終わり、いつもの料亭で食事をとる二人の笑顔は、前回よりも解れて見える。


「映画、素敵でしたね」


「気に入ってもらえて良かったです」


「いい映画を選んでくださって、ありがとうございます。なんか久しぶりにドキドキしちゃったなぁ」


「そ、そうですね……」


 確かにドキドキした。映画の内容を覚えていないくらいに。


「そういえば私、何も考えずに一緒に映画観たいなんて言っちゃったけど、山田さんに彼女がいたらまずかったかなって……」


「大丈夫です。いませんから」


 食い気味に答える。


「そうなんですか?山田さん、真面目そうだし優しい方なのに」


「そ、そんなこと無いですよ……」


 営業トークだ。勘違いするな。


「興味ないとか?」


「い、いえ、全く、全然、そんなことは……」


 控えめに言って、興味しかない。

 今だって、花から目が離せない。食べる姿だけでなく、全てが気になってしかたない。一緒に居ないときも。





 半休明け、オフィスに戻った山田と眉間にシワを寄せた上司の目が合う。


「喪服のままで来るなよ」


「すみません、そのまま来たもんで」


「仕事、溜まってるよ~」


 いつもの倍ほどの書類がデスクに積まれていた。


 それな。


 山田は心で呟くと、扉を閉じていつもの山田に戻った。



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