第2話 銀月
襲撃が成功して鬼たちにも極上の生餌を与えることができた漆黒の鬼は、目的の一つであったこの牛車の主である女に触れることが出来ず首を傾げた。
辺りでは咀嚼音に加えて未だ生きながらに食われるという状況で泣き叫ぶ声も響いている。
牛車の中にいた女はすでに自刃して命を落としている。
しかし、それに触れようとしても何かが邪魔をして触れることが出来ないままだった。
まるで拒絶されるかのように女に弾かれて次第に苛々し始めた漆黒の鬼は近くにいた鬼の首をねじ切って己の怒りを発散させた。
「グゲェ?」
意味が分からないまま首が宙を飛んでぼちゃりと落ちた。
カチカチと未だ歯を鳴らす音が聞こえている。
鬼は首を斬られてもすぐには死なない。
何が起こったのか分からないままその鬼は息絶えた。
「ちっ、面白いと思ったのに呆気なかったな。詰まらん。」
漆黒の鬼はそのままその場を離れていく。
しかし、やはり何か気になることがあるのかその場を元に戻さないまま空間だけを閉じた。
姫巫女が行方不明になったというのは、それから数か月後に帝へ知らされることとなる。
その後、必死の捜索にも関わらず姫巫女の死体はおろか、その痕跡さえ掴めないまま14年の月日が経った。
「お、これは俺がやったんだったか?」
漆黒の鬼がその場所へ戻ってきたのは偶然だ。
気まぐれに行く先々で面白そうなことを見つけては遊んでいた鬼はふらりと空間を閉じたままに放置した場所へと足を運んだ。
空間を久しぶりに開くと、すでにその中に放っていた鬼たちは共食いをし合ったのか1匹も残っていない。
しかし、一つだけ残っているものがあった。
女の死体だ。
綺麗な織物を纏った美しい女。以前と違うのはその異様に膨れ上がった腹だろうか。
「何だ?女が生きていたのか?」
思わず呟いたがすぐに頭の中で否定する。
あの時確かに女は死んでいた。
だとすれば、生きていたのは女ではなく、腹の中に宿っていた命。
だが、あり得ないはずだった。
鬼でさえ息絶えたこの空間で生き続けることが出来る存在など知らない。
享楽に酔い長く生き続けてきた漆黒の鬼でさえも今まで出会ったことのない怪奇にぞわりと背筋が冷たくなる。
「は?畏れるだと…この俺が?」
怖気のする体を叱咤して鬼はまっすぐその奇妙な存在に目を向けた。
その瞬間、ざわりと空気が動く。
膨れていただけの女の腹は波打つようにぼこぼこと浮いては凹みを繰り返している。
まるで、何かがそこから出たがっているかのようだった。
「生れる…のか?」
その言葉を口にした瞬間、白い腕が女の腹を突き破って出てきた。
そして、ぐちょりと中の羊水が溢れ出てその敗れた腹を裂いて何かが顔を出した。
血に塗れた銀色の髪に白い肌、果実のように熟れた唇から中のものを吐き出してそれは産声を上げずただ咽込んだ。
「げほっ、がっ…。」
ゆっくりと瞼が開く。金の瞳はまるで月のように澄んで見える。
ぱちりと瞬きを繰り返してきょろきょろとあたりを見渡したそれは、漆黒の鬼を見つけて首を傾げた。
銀色の髪を持つ子供。
年は12・3歳くらいだろうか。
「角…はないのか。だが、その気配お前は一体。」
見たところ、角は無く人と変わらないようにも見える。
だが、その気配は明らかにこちら側の者であり、どちらかというと鬼人というより幽鬼に近く、しかし実体を持っている存在。
その鬼気は明らかに通常の鬼のそれとは違い神聖さを併せ持っている。
「…そうか、お前しゃべれないのか。」
きょとんと首を傾げたままのそれは、先ほど生まれたばかりであったことを思い出した漆黒の鬼はくしゃりと銀の髪を撫でた。
「俺の名は闇影。そして銀の髪に、月の瞳。お前の名前は銀月としよう。どうだ、気に入ったか?」
折角なので名付けることにした闇影だったが、こくりと頷いて見せた銀月に驚く。
この生まれたばかりの小鬼はどうやら闇影の言葉を理解しているらしい。
「お前、俺の言葉が分かるのか?」
改めて問うと先程と同じように銀月は頷いた。
そして、もぞりと腹から抜け出そうとしてドサリと牛車の台から地面に落ちる。
流石にまだ上手くバランスを取れなかったらしい。
生まれたての小鹿のように小刻みに震えながらゆっくりと立ち上がろうとしている。
何度も失敗しながら無事に立ち上がると、女の躯を物色し始める。
首元にあった勾玉の首飾りに銀月が触れると、それは霧のように銀月の身体に取り込まれた。
その瞬間、役目を終えたかの如く女の躯はざらりと砂ように崩れ、着物だけが残された。
銀月はその着物を羽織って身に纏う。
女の着物ではあるが、銀月の女に見紛う程に整った顔立ちは羽織っているだけの着物が妙に似合って見えた。
泉の水面に映るのは銀糸のように輝く髪を持ち、満月のように美しい瞳を持つ少年。
ざぱりと水を掬い上げては血に塗れたその身を清めていく。
水を啜る様子さえ、絵になるように美しい。
ちまちまと洗う様子に痺れを切らしたのはやはり闇影だった。
「あぁ!まどろっこしい。」
銀月の頭をむんずと掴んで泉の中に放り投げる。
パシャンと大きな音を立てて銀月は湖の中に身を沈めた。
水の中は冷たくて心地良い。
銀月が瞼を開けば中で泳ぐ蛙や鮒が驚いてその場を逃げ出した。
それを名残惜しそうに見送った銀月はゆっくりと水面から顔を出した。
そのまま立ち上がると水面の上をアメンボのように自由に闊歩できた。
ずっしりと水を吸った着物は重たいはずなのに銀月の歩みはまるでそれを感じさせないほどしっかりとしている。
先ほどまで歩くことさえ満足にできなかったとは思えないほどだ。
「やみかげ…ひどい。」
鈴のような声音が麗しい唇から発せられる。
それが銀月の声だと理解するのに闇影は少しだけ時間を必要とした。
先ほどまで頷くくらいしかできなかった子供だ。
口から出るのはせいぜい一音くらいしかなかった。
それが流暢にとは言えないが、たどたどしくも話をするのだから驚きだ。
「なんだ、銀月。喋れたのか。」
その言葉に銀月は首を横に振った。
そうして、まっすぐに闇影を見据えて困ったような表情で答えた。
「いま、できた…。」
そう告げる瞳は揺れており、自分の存在が何なのか理解できない風にも見えた。
自身を怖れていると言っても過言ではないだろう。
それもそのはず、闇影でさえ銀月のその成長ぶりには初めから驚かされているのだから。
なんとなく、くしゃりと銀月の頭を撫でて闇影は頬を掻きながら何と告げたらいいのか分からないまま泉の傍から離れていく。
その背を追うように銀月が後に続いた。
互いに足音を立ててもいない。
足音はないのにぽたりと滴が着物から滴り落ちる。
ふと、銀月は袖を上げて眉をひそめた。
その瞬間、水を吸って重くなっていた着物から水分が蒸発して軽くなる。
あっという間に乾いたそれに満足したかのように歩みを進めた。
足音もなく、奇妙な力を行使できる存在。
それは異様な事なのだが、二人とも異形であるので特に気にすることもなかった。
闇影と共に過ごし暫くした後、銀月はその傍を離れる事にした。
その理由は単純で人の世を見てみたいという感情からきたものだ。
女の腹の中で育った銀月に知識を与えたのはその場で死んだ数々の者たちの魂の記憶。
その記憶を頼りに知識を得た銀月は闇に紛れる生活にも慣れて少し余裕が出てきたのだろう。
「行くのか?」
闇影の問いに銀月は頷く。
共に過ごした時間はそう長くはない。
だが、銀月にとって闇影は親のようなものだ。
名残惜しい気持ちはあるけれど、知識にある世界を自分の目で見て体感してみたいと思ったのもまた事実。
鬼の生は長い。
しかし、人の記憶から知識を得た銀月にとって人は馴染み深い存在なのだ。
「行ってくるよ、闇影。俺が居ないからってあんまり、無茶しちゃだめだからね。」
銀月の言葉にうるせぇと答えつつも闇影はかつての闇影では浮かべるはずのない柔らかな笑みを浮かべた。
思いのほか銀月に影響を受けたらしい闇影は生まれて間もないはずの幼い鬼を送り出した。
それは人の世の残酷さを知っていずれ戻ってくると考えていたからだろう。
銀月という存在が闇影の中でかけがえのないものになっていることに気が付かないまま闇影はその小さな背が見えなくなるまで見送っていた。
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