銀月と姫巫女

叶 望

第1話  プロローグ

 日輪の国にある都の中心にそびえる巨大な城は代々の帝が住まう所。

 白塗りの壁に黒の瓦屋根で作られた建物は社を見立てて天高く聳え立っている。

 その帝の傍には天より遣わされたと噂のある姫巫女と呼ばれるものがいた。

 傍に侍ると言っても決して妻であるというわけではない。

 巫女として仕えているというだけだ。

 かの者は癒しの力を持ち、あらゆる禍から都を守るとされ大切に守られていた。

 身に神より遣わされたと云われる神器のひとつ、勾玉の飾りがついた首飾りをかけている未婚の娘。

 身が清らかであることを証として姫巫女と呼ばれている。

 長い黒髪は艶やかで、白い肌に赤い唇は瑞々しく栄える。

 瞳の色は茶色ではあるが、光の加減でそれは薄い金にも見える。

 麗しく妖艶な色艶を持った女性。


 それが今代の姫巫女だった。


 姫巫女の始まりは天より落ちた天女であったと言われる。

 かの姫は水浴びをしているところでとある青年と出会った。

 その青年との間に設けた子供が姫巫女の始祖であると言われる。

 勾玉の首飾りを介して癒しの力を発揮したその子供は徐々に有名となっていく。

 帝が目につけるのも当然の事。

 癒しの力という奇跡を人の身で起こすことが出来るものを傍に置くことは帝の権威を示すには有効だったからだ。

 そうして、代を重ねて今に至る。

 ずっと守られてきたのは一つの戒律。

 姫巫女を続ける間は潔癖であれ。

 汚すことは許されないということ。

 帝の血筋にその血を混ぜるなどあってはならない。

 それだけはずっと言い伝えられてきた。

 その理由は単純に帝もまた神の血筋を持つ故に、その血が濃くなることで何が起こるか分からないからだ。

 しかしそれは、今まさに破られようとしていた。


「おやめください、帝!」


 悲痛な女の叫びが城の一室に響き渡る。

 しかし、それを助けようとするものは誰一人としていない。

 帝相手に逆らうなど命がいくらあっても足りないと知っているからだろう。

 その場に居合わせた護衛官もその世話をする女官も皆その場から視線を逸らして事が終わるのをただ待っている。

 なぜこんな事になったのかと女の心中は必死に抵抗しながらも考える事さえ満足にできない状態だった。

 女の身で男に叶うことなどそうそうありはしない。

 ましてや、巫女として大切に扱われてきた姫であればなおの事だ。


「ずっと、見ていた。お前だけを。」


 帝の熱の篭った視線は姫巫女から逸らされることはない。

 乱暴に衣装を破かれて組み敷かれたまま姫巫女はずっと気付かない振りをしていた現実に翻弄される。

 幼い頃より共に育ち兄弟のように思っていた帝が己を一人の女として扱いだしたことから目を背け続けてきた。

 互いに知った仲であったからこそ、踏み込めないものがあったのだ。

 それに今成そうとしているのは禁忌とされてきたものだ。

 姫巫女はぎゅっと目を瞑って顔を背けた。

 自らの思いも封印して随分経つ。

 決して好きになってはならないのだと自分を諫めて今までずっと耐えてきたというのに、この期に及んでこんな事になるとは。

 都から遠く離れた場所で死の病が蔓延している。

 その話が都に届いて随分と経つ。

 徐々に広がりを見せているその病はその勢いを殺すことなく都の方へと近づいてきている。

 姫巫女の力でそれを食い止めるため派遣されることになったのが決まったのだが、ずっと反対し続けていた帝もとうとう重臣たちに押し切られる形でそれが決定したのが昨日の事。

 姫巫女と言っても人と違うなんてことはない。

 だから、その病にかからない保証はなく、むしろ死地に送ると決まったようなもの。

 代替わりもまだするには早すぎる上、後継の娘はまだ生まれたばかりだった。

 だから、死ぬわけにはいかない姫巫女であったが、死なない保証もまたないのが現実だった。

 そうして、とうとう帝が積年の思いを抑えきれずにこうなってしまったのだ。

 うっすらと目を開ければ切なさを秘めた瞳が映る。

 それを見た姫巫女はとうとう自分の気持ちも抑えることが出来なくなった。

 そっと帝の背に腕を回して抱きしめる。

 それが合図のように帝と姫巫女は互いに封じていた想いを解き放ったのだ。

 巫女は清らかであることが条件だがとうとう姫巫女は帝と一線を越え、巫女としての条件を一つ破り、そして帝を相手とするという禁忌を犯したのだった。


 夕刻、うっすらと日が陰り始めて間もない頃、道として整った道ではなく、人が行き来することでできた自然の道を都から牛に引かれた牛車が行く。

 女官、丁稚などがその牛車の後ろに長々と続く。周囲を固めていた護衛官は馬に乗って警戒しながらその道を進んでいった。

 姫巫女が死の病から民を救うためにこうして都からぞろぞろと移動してきているのだ。

 高い木の天辺からそれを見下ろす男がいた。

 いや、それは人ではない。

 赤い唇はニヤリと弧を描き指先を合せて円を作ってその中から遠くを見ている。

 額から突き出ている二本の角と緩やかに捻じれた漆黒の髪を持ち、異形の証である金の瞳はしっかりと獲物を視線の先に捕らえていた。


「面白そうな獲物を発見!くく、これから楽しくなるぞ。」


 漆黒の鬼は邪悪な笑みを浮かべてその身からどろりとした鬼気を発した。

 黒く影のようにそれは森の中へと溶けていく。

 ジワリとした空気が辺りを包み、その周辺を異界へと変化させた。

 ざわりと木々が騒ぎ次第にその音が大きくなり、暗い気配を持った存在が音を立てて集まってくる。

 それは、漆黒の鬼の指示を得て軍のようにまとまって動き出した。

 鈍感な人であっても本来であればその森に入るのは躊躇うほどの闇が支配していた。

 それは悪夢の始まり。

 向かう先がそんな事になっているとは知らずに列は進んでいく。


「知っているか、あの噂?」


 見渡す限りの木々や土の香り、森や林の独特の空気があたりを支配している。

 この場所はまるで人を拒絶しているかのように薄暗く生ぬるい風が頬を撫でる。

 先頭を切って馬を進める一人の護衛官が隣に並んで走る同僚に話しかけた。


「噂って、鬼が出たという話か?」


「そう、丁度こんな薄暗い時間に出たのだそうだぞ、我々も気を付けなければ。」


「はっ、鬼に怯えているのか?都でも精鋭の我らがそう易々と殺られるものかよ。」


 護衛官は鼻で笑って道を進む。

 しかし、その額には大量の汗が流れており、内心怯えているのを隠すように強気なことを言っているのだとすぐに分かる。

 この世には鬼と呼ばれるものがいる。

 妖のひとつであり、数多くの種類が存在する。小さな子供のような大きさの餓鬼と呼ばれる餓えた死人から生れ出た鬼や一般的に知られる赤い肌を持つ赤鬼、青い肌を持つ青鬼、人の憎悪や嫉妬などの感情から生きたまま鬼となった生成りと呼ばれる鬼、そして人の姿を持った鬼人などだ。

 鬼人は角がある以外は人と見た目は変わらない。

 人と子を成すこともでき、半鬼人と呼ばれる存在もいる。

 鬼は人よりも力が強く、身体も強靭だ。角はもちろん鋭い牙もある。爪は簡単に人を引き裂くほど鋭い。

 特に人の姿を持った鬼は強力で、角を隠し人に紛れてしまえば探すのは容易ではなく、一度姿を現せば厄災とも言われる不思議な力を使う鬼もいるという。


「おい、あれは何だ?」


「何って、あれは…。」


 護衛官が警戒していたのもまるで意味がないかのように鬼の群れが列をなして向かってきた。

 そのスピードは明らかに馬とは比べ物にならないほどに速い。

 鬼たちは四つん這いになって獣のように走ってきた。


「馬鹿な、あれほどの数の鬼がどこに居たのだ!」


 驚く護衛官はすぐに逃げるように指示を出そうとしたのだが、後ろを見て絶句する。


「後ろからもだと!」


「まずい!姫巫女様を守るのだ!」


 声を張り上げた隣の護衛官も焦ったようにすぐに牛車へと走りだした。

 先行している分護衛対象のいる場所までは少し距離がある。

 しかし、そこへ辿り着く前に混乱に陥った女官や丁稚、身の回りの世話をする下女などが邪魔をしてくる。

 我先にと逃げ出す者たちを責めることなど出来はしない。

 彼らは鬼と出くわすなどまるで考えたこともないような平和な場所に住んでいたのだから。

 都に張り巡らされている鬼を寄せ付けない仕掛けのおかげでずっと守られていた彼らが初めて遭遇したのが鬼の群れであるなど運が悪すぎる。

 しかし、そんな混乱を嘲笑うかのように鬼たちはすぐ傍まで近づいていた。それは、まさに蹂躙といっていい。

 虐殺ともいえるだろう。

 次々と襲われ、捕食されていく者たちと必死に抗い戦う護衛官たちの姿があったが、すべて殺しつくされるのは時間の問題だった。

 残されたのは、躯となったかつて人であった者たちの姿。

 そして、死んだにも関わらず、そのまま放置された最後まで守られていた姫巫女の死体だった。

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